お題『あじさい』
レインコートを着た主様と庭に降りた。アモンが丹精したアジサイが小雨の中、色とりどりに庭を飾っている。
「ねぇ、フェネス。ここの地面はさん性なのかな?」
この前化学の本を読んでいらっしゃったな、そういえば。
「そうです。それではあの赤いアジサイが植っているところはどうでしょう?」
少しだけ考えて「アルカリ性!」と元気よく答えた。
「むらさきだと中性なのよね」
「さすが主様です。そして主様のように可愛らしいです」
照れたように笑っている主様に
「アジサイの花言葉はご存知ですか?」
と尋ねてみた。
「ええっと……『うつり気』でしょ、それから『うわ気』でしょ……」
言いながらしょんぼりと凹んでいく。
「……あんまりいい意味、ない……フェネスの意地悪……」
「ち、違いますよ。花言葉は他にもあって『七変化』や『元気な女性』という意味もあります。ね? まるで主様みたいですね」
元気な女性と言われて満更でもないらしく、身体をくねらせて照れている。主様は本当に可愛らしい。
「そろそろ屋敷の中に入ってお茶の時間にしませんか? このまま雨の中にいて風邪でもひいたら大変です」
「うん!」
ニッコニコに笑う主様の前歯は乳歯が抜けていて、これはこれでまた可愛らしいと思う。
我ながら主様に首ったけだな。そう思いながら鮮やかな庭を後にした。
お題『好き嫌い』
主様が九歳になったある日、ミヤジさんが街の子どもたちを集めて開いている勉強会に参加された。
意気揚々と出かけた主様だったけれど、屋敷に帰ってきたときにはすっかり萎れていてそのまま寝室へと消えていった。一緒に帰ってきたミヤジさんが肩を竦める。
「子どもたちの中でも一際優秀な子がいてね。自分がその子に比べて劣っていると感じたらしい」
話を聞いて思い当たることがあった。
主様は語学はお好きだけれど算数は苦手……というか、嫌いらしい。
屋敷の中で育ってきて、今まで自分と誰かとを勉強という分野で比べることなどなく生きてきた。けれどとうとう避けて通れない場面に出会った、といったところか。
「九歳の壁というやつですね」
「ああ、そうだね。主様にとってはこれもひとついい経験になったのではないかな」
ミヤジさんはそう言って苦笑いを浮かべた。
必要な社会勉強だったかもしれないけど、少し心配だ。俺はせめて夕食に好きなものをご用意して差し上げたくて、夕食の支度でいい匂いの立ち込めるキッチンへ向かった。
お題『街』
調理担当のロノから買い出しを頼まれた。主様はその話を聞きつけ、一緒に行くと言われたので馬車で街までやって来た。
食材を調達する前に、主様には新しい児童文学書を、自分には気になっていた小説を購入するためにいつもの本屋に入る。真新しい紙とインクの香りにワクワクしていると、主様も同じ気持ちなのか「フェネス、あっち」と言いながら俺の手を引っ張った。
連れて行かれた先は児童文学ではなく美術のコーナーだ。
「フェネス、この本がほしいの」
エスポワールの街にある美術館の模写を集めた本だ。しかしそれを買ってしまうと完全に予算オーバーで食料品の店に辿り着けそうもない。
「次に街に来ることがあればそのときに必ず買うので、今日は我慢していただけませんか?」
主様に提案すれば少し渋い表情をしたものの首を縦に振ってくださった。
そうなると自分のだけというわけにもいかず、俺も今日は手ぶらで本屋を出た。
買い出しを済ませた俺の荷物を持ちたいと主様が言い出されたので、焼き菓子の入った紙袋をお願いする。上機嫌の主様の手を再び取れば、ふふふっと嬉しそうに笑っている。
「こういうの、デートっていうのかな? 楽しい」
唐突なおませ発言に「あ、主様!?」と言った俺の声は上擦った。
「今度来るときは本屋さんデートよね。楽しみ」
慌てる俺と楽しそうな主様を見た肉屋の店主が微笑ましそうに相合を崩す。
「いいねー、お父さん。いつか手を繋ぐのも嫌がるようになるから、今のうちに堪能しとくといいよ」
そうか、街の人たちからしてみれば俺は主様の父親に見えるのか。
嬉しいような、そうでもないような不思議な気持ちに包まれたまま馬車までの少しだけの道のりを一緒に歩き、街を後にした。
お題『やりたいこと』
「主様、そろそろお食事のお時間ですよ」
「いーやー!!」
主様が二歳のときの話。
イヤイヤ期真っ只中の育児は案外楽しかった記憶がある。育児書で読んだ知識がとても役に立った。
それまでできなかったことに挑戦し、やりたいことを達成する喜びは二十八歳の俺でも共感できることも少なからずあり、主様の成長をしみじみと喜ぶ時期でもあった。
「いやなのですね。お絵描きは楽しいですか?」
「ぐすっ……うん」
嫌という気持ちに寄り添えば、素直な主様の癇癪はすぐにおさまったものだ。
「それではその赤い色を塗り終えたらお食事にしましょう」
「やだっ!」
「困りましたね……主様の大好きなポテトが冷めてしまいます」
ポテト、という単語に主様は固まった。おそらくお絵描きとポテトの両方を、頭の中で天秤にかけているのだろう。
「ポテトを食べ終わってからお絵描きの続きをいたしませんか?」
「……うん」
今思い出してもとても愛くるしかったなぁ……。
おっと、そろそろ三時だ。お茶の支度をしよう。
俺は六年前の日記を閉じて、キッチンへと向かった。
お題『朝日の温もり』
前の主様が亡くなってすぐのこと。
残された、生まれて間もない今の主様のお世話にてんてこ舞いの日々を送っていた。
泣けばお腹が空いているのかな、それともオムツが濡れているのかな、といろいろ気を使ったけど、どちらでもなく泣いているのには本当に参った。
執事全員でお世話にあたったけどなぜか俺が抱っこをすれば夜泣きがおさまると分かって以来、夜のお世話はもっぱら俺。
しかし俺の抱っこで泣き止むとはいえ、眠ったのを見計らってベッドに下ろせば、手を離した瞬間に泣きだす始末で、俺は満足に眠れない日々を送っていた。
ある夜、やはり俺は主様のお世話をしていた。
その日は夜泣きが特に激しく、俺もほとほと参っていたこともあって、少しでも気分を上げたくて明け方近くに見張り台まで星を見に出た。寒空の下に幼い赤ん坊を外に連れ出すなんて今にして思えばどうかしていると思うけど、当時はその判断力が鈍るほど神経がすり減っていた。
空をあおげば、一面の星空。
「主様、まだ分からないとは思いますが、お空がきらきらと輝いていますよ」
するとどうだろうか、顔を真っ赤に染めて泣いていた主様が笑ったのだ。
その日を境に、よく主様を夜の見張り台にお連れするようになった。
明け方に響く笑い声は、俺にとって闇夜に差し込んだ陽の光のように温かさとなった。