放課後に君は金魚になる。
普段優等生をやっている君は、毎週金曜日、地味なブレザーを脱ぎ捨てて、たっぷりのレースがあしらわれたワンピース姿になるのだ。血管のように透ける赤いそれは、風が立つたびにふわふわと舞い上がる。ちょうど真昼の揺らめきに溶けてゆく、金魚の尾びれみたいに。
塾から家に帰る途中、街中でそんな君をみかけた。
夜のネオンに照らされて、君は男の人といた。父親かと思ったけれど、また別の日にみかけたときは、違う男が隣にいた。けたたましい人工の光のなかで赤いレースはゆらゆらと光って、暗い水中に滲んでいくみたいだった。
「エンコーしてんでしょ」
「バレたら退学だよね、あれ」
もはやクラスで知らない者はいないらしい。そこはかとなく囁かれる好奇の燻りの渦中にあって、君は目立つことをやめない。学校で何度か声をかけてみようとも思った。でも、いつも君の周りだけ切り取られたみたいに浮いていて、その瞳は薄暗い水面を見上げて漂っている。水槽の隅に沈む観賞魚のようだとも思った。
君の家は土地持ちで、お金に困るような生活はしていないはずだ。勉強もできて容姿もいいし、毎週の習い事をたくさんこなして何でもできる。
なのに君は孤独な金魚だ。
隠す気のない派手な姿を、まるで周りに見せつけるようにして雑多な街並みを泳いでいる。どうしてそんなことをしているのか、きっとこれからも聞けない。
チャイムが鳴り終わり、今日も君は誰よりはやく帰宅する。ネオンの海にゆらゆらと揺れて、君の赤い尾びれは夜の孤独と一体になりにいく。その心を誰にも知られないまま。
放課後に君は金魚になる。
薬の脱け殻が手に触れた。
白い月が窓に浮かんでいるけれど、あなたは夜の深さばかりみている。ビー玉をはめ込んだ、その瞳。
縫い糸を切ればそれっぽくなる。
乾いた唇には水をさす。
季節のはずれたミモザの香水。
むせかえるほど、あなたの髪に残っている。
壊れたものを繕うのに
静寂に包まれた部屋がいたく心地いい。
喰われる、と思ったときには腹のなかにいた。
5時のチャイムの音色が夕闇の一点に消えていく、瞬きのあいだのことだった。
じめじめと生い茂る雑草が、棒になった足に絡みついて、冷たい鉄の味が口に広がってゆく。
何も考えられない頭に、「ドーカ」と声が響いた。
私の名前じゃない。どこの国の言葉だろう。何度も折り重なるように、思考のオブラートを分厚くしていくように私は「ドーカ」で埋め尽くされる。
ドーカ
ドーカ
ドーカ
助けて
ド ー カ
ド ー カ
お願い
ド ウ カ
ドウカ
同化。
その瞬間、ばちんと何かが弾けた。
嫌だと叫びたかった。ここから出してと口にしたはずなのに。頭とは別に、咄嗟の言葉が身体からでた。
「違う、私じゃない。」
頬にそよぐ風に気づいて目を覚ますと、冷たい
空気が肺に流れ込んでくる。
大きな黒い顔が3つ、私を覗き込んでいた。
「目を開けたぞ」
「頭打ってるんだ、動かすんじゃない」
「今、救急車を呼んでるから。」
空がゆっくりとまわっている。筋をひく雲が生クリームみたい。星がちらちらと浮かぶ紺色のソーダに溶けてゆく。視界の端には、ジャングルジムが黒々とそびえ立っていた。その横で友だちが泣きじゃくっている。
そうか、私、あれから落ちたのか。
小さい頃からよく通っていた公園がつぶされて、もう5年になる。老朽化が原因だった。それなのに、なぜかジャングルジムだけが壊されずにそこにあった。
面白半分だった。小さい頃のようにテッペンまで登ってみたくて、学校帰り友だちをつれてここへ来た。夕陽を背に、しんとして立ちすくむ錆びた鉄の塊が、少しだけ、何だか生き物みたいだと思ったのだ。
結局、私は頭を数針縫った。ジャングルジムはテープでぐるぐる巻きにされていて、あの場所は不良の溜まり場になった。そして、やはり壊されない。
多分、私と友だちだけが知っている。
私はあの日、確かにジャングルジムに食べられかけた。だから今、生きているんだと思う。今でもあれは錆びつきながら、「ドーカ」を待っている。
久し振りに会った幼馴染みから男の恋人がいることを知らされたときは、案外とすんなり受け入れられたものだ。
恋人とはっきり言っていたわけじゃない気がするけれど、口数の少ない彼から滲みでる言葉の節々に、不思議なあたたかさを感じられたから。彼らしいと思った。
いつもの砂浜で腰をおろして、夜の潮風にあたっていれば、ぽつぽつと会話も生まれた。
「右腕を、こう、擦る癖があるんだ。その人。」
前から知ってはいたんだけれどね、と、彼は少しトーンを落とす。
ただの癖だと思ってた。それ以外の何でもなく。3年前に橋から飛び下りて、その時の後遺症が右腕に残っていたことを知ったのは最近だ。
知ってる、てだけで、大事なところは見落としてたんだ。何もわかってなかった。人の癖なんて、別に俺がその背景を知らなくったっておかしいことじゃないのに。でも俺は苦しかった。暗い台所でひっそりと腕を擦っているあの人に、どんな声をかけていいのかもわからない自分が虚しくて。
「それだけなんだけど。俺にとってその人は大事な存在なんだって。」
遠い空に月がでている。銀色の光が、波のゆらぎに溶けてゆくのを見つめていると、まだ幼かった頃や、彼に淡い恋心のようなものを抱いていた頃の
自分が、ゆっくりと暗い水面をめぐってゆく。
私は、何だろう。
いつか彼の恋人に、と望んでいたわけじゃない。
では、私が本当にほしかったものは何だろう。
「月がきれいだ」と彼が呟いて、私も静かに頷いた。月色の潮汐は足跡を消して、涙のあとだけ残してゆく。
仕事をサボろうと思った。サボる、というか、本当に身体はダルいんだけれど。1回そう決めてしまえば心は固い。
朝6時に起きて、一番に職場に電話をいれて、もうどう思われていようと今日は休む。
熱をはかってみると本当に微熱があったから、いつもの薬をもらいに病院に行くことにした。正直、ラッキーと思った。
平日の真昼の病院で、人の流れもまばらな待合室。そこにはない、無を漂うような時間が過ぎてゆく。
暇だから何か文字に起こしたいけれど、もともと
文章は得意ではないし、こんな昼間に夜景に想いを馳せられない。
でも、だいたい目を閉じればそこには夜がある。
しばらくすると、ぽつんぽつんと瞼の奥に灯りが
滲み出てきてくるから、ああこれは、仕事の帰り道の川だとわかる。
あそこは本当に汚い川だ。川端康成の言葉を借りれば、「死の色をした緑」。たぶんあの川のこと。
東京の人間と歴史、感情、すべてを煮詰めたように淀んでいる。
そんな川は夜になると、闇の色を吸い込んで、静かにビルの灯りを映し出す。川沿いを走る電車が水面をきらきら反射させて、絶え間ない光がとうとうと流れてゆく。
いつもはドブ臭くってしょうがない緑の川の匂いが、ふと、静謐な夜の匂いに変わる瞬間。
「銀河鉄道の夜みたい」と友達がいってから、星のない都会の雑多な景色が、少しだけ嫌いじゃなくなった。
帰りの車窓から、暗がりの川を走る光を、空っぽな頭でただ眺める。とりとめもない日常の一部として、それは心の空隙にまで流れ込んでゆくみたい。
だからどうってことはないんだけれど、
明日は仕事に行こうとは、思ってる。