幼い頃は、太陽を描くのに赤いクレヨンを使った。
それから光を気にしだして、黄色く塗りあげるようになった。ときどきオレンジ色にもした。でも太陽にはならなかった。
光の芸術家とは太陽のことだ。朝から夜へと移ろいゆく光。空という大きなキャンパスに、決して人の手では触れえない色を描き出すのだから。私はその太陽を、もっと正確に紙に起こしたかったのに。
負けず嫌いで、天の邪鬼だった私は、ある日太陽を黒く塗りつぶしてみた。太陽をじっとみていると、その強い光がだんだん黒くぼやけてくるから。描いてみたそれは、案外良いできに思えた。
さっそく母に見せたが、まともに取り合ってくれない。父は「良い感性だ」と笑う。私が欲しい反応じゃない。
もううまく喋れなくなってきた祖父にみせると、
しばらく眺めて、それから「ビルマの太陽だ」と、ぽつりと呟いた。
そのとき私は外国というものがよくわからないでいて、「ビルマというところの太陽は黒いんだな」というくらいにしか思わなかった。
間もなくして祖父が亡くなったあと、祖父は第二次世界対戦時ビルマの兵士で、仲間の過半数が餓死をしたという無謀な作戦の、数少ない生き残りだったということを祖母が話してくれた。気難しい祖父の口からは1度も聞いたことのない過去の話だった。
泥水をすすり枯れた草を食べ、痩せた子馬や仔牛をなぶり殺してでも、祖父は黒い炎天下を生きのびたのだと、今ならわかる。
でも、自分が気まぐれに生み出してしまった黒い
太陽がひどく苦しいものにみえて、そのとき私は少し後悔した。
私が得意気に描いた黒い太陽を見て、祖父はどんな顔をしていたのか。今もわからない。
「さあ、目が覚めるまでにここを出てしまわなくては。」
もう何年も前になる。母を亡くして日が経った頃、僕はひと夏をプラハで過ごした。仕事の都合という言い分で、父が僕を連れ出したのだ。
プラハは美しい場所だった。
太陽の花々と新緑が抑えられない幸福のように溢れかえり、石畳の街角にエメラルドの影を落とす。
雄大なヴルタヴァ川が古都の風を運ぶ、伝統的な
硝子細工のような城下町。流れる雲の一筋すら、
慈しみたい思いにさせられる。
だけれど10才だった僕には、そのどれもが退屈にみえた。年の割にこまっしゃくれていて、同い年の子どもたちの感性を冷めた目で見つめている、そんな子どもだった。
だから、旧市街で父とはぐれてしまっても、それが「迷子」だという認識はなかった。取りあえずここいら辺りにいれば万事ないだろうと、見知らぬ外国の土地であっても噴水の広場をふらふらしたりなんかしていられる余裕すらあった。僕に迷いはなかった。
観光客に混じってしばらくそうしていたが、父の姿はいっこうに見えない。燦々と照りつける太陽が そのうち暑くなってきて、僕は涼もうと古びた石の教会に入った。いつもは閉めきられている扉だが、その日はなぜか隙間ができていた。
中には誰もいなかった。チェコにきてから教会には散々行ったが、ここは特別暗く、お香の匂いも独特だ。神秘的な雰囲気に吸い寄せられるように、僕は奥へと進んだ。そうして気づけば、石像が立ち並ぶ静謐な空間にたどり着いていた。一人の老人が、
部屋の一角にうずくまっている。石像の足元に蝋燭を捧げているようだ。橙色の灯火がこぼれている。
やがて、おじいさんはくるりと振り返り、小さな僕をみつけた。
「ロストボーイ」
そう呟いてにたりと笑う。その年老いた笑顔をみて僕は初めてぞっとした。
「さあ、目が覚めるまでにここを出てしまわなくては。」
おじいさんは徐に近づき、僕の手をとった。
「覚めるって?」
「石像さ。彼らの怒りに触れないうちにね。」
「石が怒るものか。」
「それでも祈りつづけるのだよ、人々は。夢から
覚めても生きられるように。愚かだと思うかね?」
ぐいぐいと手を引っ張られてゆき、あっというまに光の下に放り出される。教会の外だった。眩しい
広場で、僕の名を叫ぶ父がみえる。まだ唖然としている僕に、しわがれた声が降りかかった。
「じゃあな、Lost boy(失われた少年).」
背後を振り返っても、おじいさんの姿は
そこになかった。荘厳な門扉に、にたりと笑う
ガーゴイルが僕をみつめている。
まだ少しだけぬくもりが残っている僕の手に、今度は父の大きな手が重なる。母さんが死んでから、
僕ははじめて泣きそうになった。
ちょうど3ヶ月前まで病室にいた。
空にいちばん近くて、海の底のようだとも思った。
生と死と、ふたつの静けさがまざりあった場所だ。
点滴やら何やらの管に繋がれた写真を送ると、
「薄幸美少女じゃ~ん」と友だちからからかわれて、それがちょっと面白かった。美少女といわれて悪い気はしない。私の脳味噌の構造はいたってシンプルだ。自分にとって都合のよろしい単語だけをピックアップして生きている。
そう、生きているってすごいってこと、入院生活で実感した。痛くて辛くて苦しくて、心はもう無理だと嘆いても、身体は生きたいと叫んでいる。この
矛盾に身悶えしながら、それでも私の身体が点滴を吐き出すことなんてなかった。
動くことも食べることもできずにいたあの病室で、
生きているって凄まじいなあと、他人事のように思っていた。
孤独を悲しむで孤悲。万葉集の授業で習ったとき、なるほどなぁと思った。
誰かを好きになるほど、人が行き着くところは一人なのだということを思い知らされるような気がするから。だから、一人でいたいという感情に従うとき、それは気の遠くなるようなことばかりの人生で自分を見失わないための時間だと思ってる。
心に悲しい傷を負った人の瞳は、不思議なほど澄んでいる。君がそうだ。アイスグレー色のそれはまるで小さな水晶玉のように、人の苦悩をしずやかに
浄化していく力があるんじゃないかと時々思う。
君の瞳は太陽の光に耐えられないから、いつもサングラスの奥にある。はじめて見たのは大学から駅までの帰り道、薄い月明かりの下で、僕は心を奪われた。ぱっと映える美人というわけでない。むしろ
いつも表情は暗くて、息を潜め、深海生物のように生きている君だった。
バイトが終わり、君とは夜に会う。君は閉館時間まで大学の図書館にいるから、僕はそれを迎えにいく。ぽつりぽつりと冷たい雨みたいな会話を重ねて、僕たちは同じ帰路をたどる。
もともと口数の少ない君だが、その日は特段に雰囲気が暗かった。サングラスを外してあらわになった瞳が微かに滲んでいる。
「愛するってどういうことだろう。」
突然そう呟いて、また沈黙を紡ぐ。
君の口からふいに飛び出た「愛」という言葉に、
僕は息が止まりそうになった。
「心に負った傷口が重なりあうことだ。多分。
1度でも深く傷ついた経験があるなら……人を愛することができるんじゃないか。」
うまく言葉にできなくて、再び押し寄せる沈黙に僕はうつむきかける。一世一代の告白をしてしまった気分だ。
でも、君は僕を見ていた。アイスグレーの瞳を丸くして、哀しげな光を揺らめかせている。
その不思議なほど澄んだ瞳に、僕はそっと手を伸ばした。