「さあ、目が覚めるまでにここを出てしまわなくては。」
もう何年も前になる。母を亡くして日が経った頃、僕はひと夏をプラハで過ごした。仕事の都合という言い分で、父が僕を連れ出したのだ。
プラハは美しい場所だった。
太陽の花々と新緑が抑えられない幸福のように溢れかえり、石畳の街角にエメラルドの影を落とす。
雄大なヴルタヴァ川が古都の風を運ぶ、伝統的な
硝子細工のような城下町。流れる雲の一筋すら、
慈しみたい思いにさせられる。
だけれど10才だった僕には、そのどれもが退屈にみえた。年の割にこまっしゃくれていて、同い年の子どもたちの感性を冷めた目で見つめている、そんな子どもだった。
だから、旧市街で父とはぐれてしまっても、それが「迷子」だという認識はなかった。取りあえずここいら辺りにいれば万事ないだろうと、見知らぬ外国の土地であっても噴水の広場をふらふらしたりなんかしていられる余裕すらあった。僕に迷いはなかった。
観光客に混じってしばらくそうしていたが、父の姿はいっこうに見えない。燦々と照りつける太陽が そのうち暑くなってきて、僕は涼もうと古びた石の教会に入った。いつもは閉めきられている扉だが、その日はなぜか隙間ができていた。
中には誰もいなかった。チェコにきてから教会には散々行ったが、ここは特別暗く、お香の匂いも独特だ。神秘的な雰囲気に吸い寄せられるように、僕は奥へと進んだ。そうして気づけば、石像が立ち並ぶ静謐な空間にたどり着いていた。一人の老人が、
部屋の一角にうずくまっている。石像の足元に蝋燭を捧げているようだ。橙色の灯火がこぼれている。
やがて、おじいさんはくるりと振り返り、小さな僕をみつけた。
「ロストボーイ」
そう呟いてにたりと笑う。その年老いた笑顔をみて僕は初めてぞっとした。
「さあ、目が覚めるまでにここを出てしまわなくては。」
おじいさんは徐に近づき、僕の手をとった。
「覚めるって?」
「石像さ。彼らの怒りに触れないうちにね。」
「石が怒るものか。」
「それでも祈りつづけるのだよ、人々は。夢から
覚めても生きられるように。愚かだと思うかね?」
ぐいぐいと手を引っ張られてゆき、あっというまに光の下に放り出される。教会の外だった。眩しい
広場で、僕の名を叫ぶ父がみえる。まだ唖然としている僕に、しわがれた声が降りかかった。
「じゃあな、Lost boy(失われた少年).」
背後を振り返っても、おじいさんの姿は
そこになかった。荘厳な門扉に、にたりと笑う
ガーゴイルが僕をみつめている。
まだ少しだけぬくもりが残っている僕の手に、今度は父の大きな手が重なる。母さんが死んでから、
僕ははじめて泣きそうになった。
8/3/2023, 10:30:32 PM