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8/3/2023, 10:30:32 PM


「さあ、目が覚めるまでにここを出てしまわなくては。」


もう何年も前になる。母を亡くして日が経った頃、僕はひと夏をプラハで過ごした。仕事の都合という言い分で、父が僕を連れ出したのだ。

プラハは美しい場所だった。
太陽の花々と新緑が抑えられない幸福のように溢れかえり、石畳の街角にエメラルドの影を落とす。
雄大なヴルタヴァ川が古都の風を運ぶ、伝統的な
硝子細工のような城下町。流れる雲の一筋すら、
慈しみたい思いにさせられる。

だけれど10才だった僕には、そのどれもが退屈にみえた。年の割にこまっしゃくれていて、同い年の子どもたちの感性を冷めた目で見つめている、そんな子どもだった。

だから、旧市街で父とはぐれてしまっても、それが「迷子」だという認識はなかった。取りあえずここいら辺りにいれば万事ないだろうと、見知らぬ外国の土地であっても噴水の広場をふらふらしたりなんかしていられる余裕すらあった。僕に迷いはなかった。

観光客に混じってしばらくそうしていたが、父の姿はいっこうに見えない。燦々と照りつける太陽が そのうち暑くなってきて、僕は涼もうと古びた石の教会に入った。いつもは閉めきられている扉だが、その日はなぜか隙間ができていた。

中には誰もいなかった。チェコにきてから教会には散々行ったが、ここは特別暗く、お香の匂いも独特だ。神秘的な雰囲気に吸い寄せられるように、僕は奥へと進んだ。そうして気づけば、石像が立ち並ぶ静謐な空間にたどり着いていた。一人の老人が、
部屋の一角にうずくまっている。石像の足元に蝋燭を捧げているようだ。橙色の灯火がこぼれている。

やがて、おじいさんはくるりと振り返り、小さな僕をみつけた。


「ロストボーイ」


そう呟いてにたりと笑う。その年老いた笑顔をみて僕は初めてぞっとした。


「さあ、目が覚めるまでにここを出てしまわなくては。」


おじいさんは徐に近づき、僕の手をとった。


「覚めるって?」

「石像さ。彼らの怒りに触れないうちにね。」

「石が怒るものか。」

「それでも祈りつづけるのだよ、人々は。夢から
覚めても生きられるように。愚かだと思うかね?」


ぐいぐいと手を引っ張られてゆき、あっというまに光の下に放り出される。教会の外だった。眩しい
広場で、僕の名を叫ぶ父がみえる。まだ唖然としている僕に、しわがれた声が降りかかった。


「じゃあな、Lost boy(失われた少年).」


背後を振り返っても、おじいさんの姿は
そこになかった。荘厳な門扉に、にたりと笑う
ガーゴイルが僕をみつめている。

まだ少しだけぬくもりが残っている僕の手に、今度は父の大きな手が重なる。母さんが死んでから、
僕ははじめて泣きそうになった。


8/2/2023, 10:52:23 AM

ちょうど3ヶ月前まで病室にいた。
空にいちばん近くて、海の底のようだとも思った。
生と死と、ふたつの静けさがまざりあった場所だ。

点滴やら何やらの管に繋がれた写真を送ると、
「薄幸美少女じゃ~ん」と友だちからからかわれて、それがちょっと面白かった。美少女といわれて悪い気はしない。私の脳味噌の構造はいたってシンプルだ。自分にとって都合のよろしい単語だけをピックアップして生きている。

そう、生きているってすごいってこと、入院生活で実感した。痛くて辛くて苦しくて、心はもう無理だと嘆いても、身体は生きたいと叫んでいる。この
矛盾に身悶えしながら、それでも私の身体が点滴を吐き出すことなんてなかった。

動くことも食べることもできずにいたあの病室で、
生きているって凄まじいなあと、他人事のように思っていた。

8/1/2023, 9:35:28 AM

孤独を悲しむで孤悲。万葉集の授業で習ったとき、なるほどなぁと思った。
誰かを好きになるほど、人が行き着くところは一人なのだということを思い知らされるような気がするから。だから、一人でいたいという感情に従うとき、それは気の遠くなるようなことばかりの人生で自分を見失わないための時間だと思ってる。

7/30/2023, 10:57:12 PM

心に悲しい傷を負った人の瞳は、不思議なほど澄んでいる。君がそうだ。アイスグレー色のそれはまるで小さな水晶玉のように、人の苦悩をしずやかに
浄化していく力があるんじゃないかと時々思う。

君の瞳は太陽の光に耐えられないから、いつもサングラスの奥にある。はじめて見たのは大学から駅までの帰り道、薄い月明かりの下で、僕は心を奪われた。ぱっと映える美人というわけでない。むしろ
いつも表情は暗くて、息を潜め、深海生物のように生きている君だった。

バイトが終わり、君とは夜に会う。君は閉館時間まで大学の図書館にいるから、僕はそれを迎えにいく。ぽつりぽつりと冷たい雨みたいな会話を重ねて、僕たちは同じ帰路をたどる。

もともと口数の少ない君だが、その日は特段に雰囲気が暗かった。サングラスを外してあらわになった瞳が微かに滲んでいる。


「愛するってどういうことだろう。」


突然そう呟いて、また沈黙を紡ぐ。
君の口からふいに飛び出た「愛」という言葉に、
僕は息が止まりそうになった。


「心に負った傷口が重なりあうことだ。多分。
1度でも深く傷ついた経験があるなら……人を愛することができるんじゃないか。」


うまく言葉にできなくて、再び押し寄せる沈黙に僕はうつむきかける。一世一代の告白をしてしまった気分だ。

でも、君は僕を見ていた。アイスグレーの瞳を丸くして、哀しげな光を揺らめかせている。

その不思議なほど澄んだ瞳に、僕はそっと手を伸ばした。

7/28/2023, 4:43:33 PM

ぼんぼりの薄明かりが宵闇の神社を照らしだすと、人々のざわめきも明るくなる。

そろそろ始まってしまう。


「あ、千世ちゃんどこ行くの」

「ちょっとだけ、すぐ戻るから。」


お顔の白化粧が終わって、唇に紅を差される前に
私はたまらず自治会館を飛び出した。
ごめんねおばさん。

この地区で300年の伝統を誇る厄除けの夏祭りでは、男の子は獅子舞、女の子は稚児舞神楽を舞う。
夏が近づくとちいさな町全体の雰囲気がいそいそとして、私たちはお稽古のために、学校を早帰りしてもいいのだ。

私は最年長で、今年が最後の舞になる。
そして、同じクラスの和美くんも最後の獅子舞だ。

和美くんは幼稚園のときから一緒だけれど、何となく話した記憶もない。ずっと無口で、いつも本ばかり読んでいるから。

お稽古の時間がときどき被ると、彼が獅子頭を持っている姿をみかけることがあった。
普段はぼーっとしているみたいなのに、鋭い眼差しがちょっと怖くて、どきどきする。

獅子舞のあとに稚児舞があるから、私はちょうど
支度をしていて毎年見ることができないでいた。
彼がいったいどんな風に舞うのかを。夕空に吹く
夏風をなぞって想像するしかなかった。

和美くんは中学受験をして、来年の春には都会にいく。だから、今年が最後のチャンスなんだ。どうしても。

お囃子の合図とともに、歓声があがる。
始まったのだ。

せっかくはたいた白粉が崩れないよう慎重になりながら、人混みを縫って明かりの中心に近づいていった。

灯籠の影を落とす地面に、朗々と獅子が踊りでる。
一人舞。風流系だ。
夏の夜を切り裂く、神々しい獅子の姿。
太鼓をくくりつけて重圧感があるのに、軽々とした身のこなしは一朝一夕で身につくものじゃない。
息をするのも惜しいくらい。すごい。

獅子舞が終わる前に、私は人混みから抜け出した。なんだか涙がでそうになったから。

獅子は去る。もう私の手の届かないところまで。
こんなに満たされているのに、みなければ良かったと、思っているのかもしれない。 

すごすごと引き返して、自治会館の裏口にまわる。
もうお衣装を着てしまわないと。
引戸に手をかけたとき、熱い空気を背後に感じて、振り返った。


「……千世、ちゃん」


彼がいた。まだ息を切らしている。
獅子舞が終わって、彼もちょうど戻ってきたところなんだ。毎年これくらいの時間だから。

いつもだったら「お疲れ」と笑えるのに、今日は
ぎこちない。だいいち、中途半端なお白粉顔をみられたくなかった。


「もう最後だね、私たち。」


やっと絞り出した言葉が暗い。そうだね、と彼がいい、冷たい沈黙が流れる。思いきったように、でも自然と、和美くんの息を吸う音が聞こえた。


「稚児舞、毎年みてた。綺麗だった。」


鋭い眼差しが私を見据える。痛くなるほど。
急に世界がざわめきだす。全身に炎がめぐっていくみたい。あの雄々しい、獅子の姿が。


「頑張ろうね」


もうどうしたらいいのかわからなくて、
そう早口で言いきって、逃げるように自治会館に
駆け込んだ。

頑張ろうねって、彼はもうしっかりと自分の役目を終えたのに。馬鹿みたい。

おばさんたちが待っている。私の唇に紅を差して、玉串と豊栄のお衣装を着せるために。
でも、今度こそ白粉が崩れてしまう。瞼から溢れ
落ちるものをとめることができない。

私も最後に、あなたをみられた。綺麗だった。

ただそれだけの言葉を返せばよかったのに。
私たちの夏は短すぎる。


「どうしてたのよ千世ちゃん。もう神事が始まっちゃうわよ。」


障子の向こうからおばさんたちの声がする。
濡れる頬をそっと押さえて立ち上がった。

私も最後に舞わないと。最後まで、綺麗に。
年に一度の夏祭りは、まだ始まったばかりなのだから。




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