冷たい葬式の空に、清らかな煙がたっていた。
君はいつもと同じ、あどけない笑顔をみせていて、ときどき親戚から注意をされていたほどだ。
「すごい煙だねえ。」と、目を細める君の、
その小さな耳についていた黒真珠がきらりと光る。
はじめて、君の涙をみてしまったのだと思った。
思い出にもならない、遠い日の記憶。
モン・サン・ミッシェルに行った2月、雲ひとつ流れていない美しい冬空だった。
澄みきったノルマンディーの空気はダイヤモンド、
てっぺんで金色に輝く大天使ミカエルが、空の青さを切り裂いているようにみえた。
こんなうだる暑さでも、まばゆい青空をみると
身体が空に近づいたような気がした、神秘的な島の頂上を思い出す。
「もうこの戀は終わりにしませう」
祖父の遺品整理をしているとき、古びた手帳に挟まっていた、小さな紙切れをみつけた。
さらさらと流れるように美しい筆跡。
祖父の字だろうか。それとも。
洋紙も墨も何もかもが色褪せて、触れば崩れ落ちてしまいそうなのに、この1文はまるでまだ生きているみたいに、したたかな鼓動を打っている。
ためらったけれど、その紙切れを祖母にみせた。
痴呆のはじまりかけていた祖母は、丸眼鏡の奥の瞳を滲ませて、やがて低く呟いた。
「これはね、お義父様の字よ。」
たった一言そういって、祖母はまた遠い目をする。
これ以上は何も聞けない。
祖父の父、明治生まれの曾祖父は、私の記憶の片隅に眠っている。みみずくのようにじっとしていて、笑顔をみせない堅物な人だった。祖父と話しているところさえ印象にない。
なぜ、曾祖父が書き残したものが、祖父の手帳にあったのか。いつも片身離さず持ち歩いていた、
祖父の分身でもあるほどのこの手帳に。
じきに、あとを追うようにして祖母が逝き、
この紙切れの詳細はついにわからない。
「この戀」とは何だったのか。
誰の、何の恋だったのか。
でも「これでようやく終わったのね。」とも思った。知っている者はもうこの世を去り、美しい筆跡も沈黙しつづける。
電話不精、メール不精ときて、LINE不精。
時代は移り変わる。
使うツールの性能がどんなに進化しても、
連絡が遅い人はいつの時代もアップデートしない。かくいう私がそうだ。いつか友だちを失いそう。
そして私以上に、彼がひどい。彼の周辺だけ回線がトリップでもしてるんじゃないかと思う。伝書鳩のほうがよっぽど利口だ。かわいいし。
おかげさまでたった1件、新着がはいっただけで胸がとびあがる騒ぎだ。ああよかった元気なのねなんて、大正時代の文通じゃあるまいしと思いながら、LINEを使っているのにも関わらない、この色褪せたアナログ感がだんだんと癖になってきている。
いっそ貴重だ、この人間。
今日も「これ、美味しい」の一言と、水羊羹の写真が唐突に送られてきた。およそ3週間越しのLINE。
私がお返事するのは多分2日後くらい。本当に好きあっているのかと、友だちから呆れられる。
しょうがない。話したいときに話して、黙りたいときに黙る、不安定な時間の流れが似ているから。
いつまでも時代錯誤な私たち。
目をとじれば、霞む闇の向こうでぼんやり浮かびあがる、つぶらな星たちに青い砂漠。もういないあの人や、薄紅の空。
そのすべてがきらめく雫を滴らせていて、
滔々と流れる時の虚しさすら、慈しみたい気持ちにさせられるというのに。
目が覚めると、何もない。