『遠い日の記憶』
季節は春、時刻は真夜中、白木蓮の花弁が舞う丘に居るのは大人の女性が一人。
清楚可憐の言葉が良く似合う美しい女性で、彼女は風に黒髪を靡かせながら静かに涙を流していた。
何故泣いているのかなんてわからない。どこの誰なのかすらわからない。なのに、俺の心はざわめき始めて、その涙を止めたくてそっと手を伸ばしてみた。けれど、その手が彼女に届くことはなく。
何かを伝えなければいけない気がしたのに、それが何かも分からないし、声すらも出てこない。
ただただ、心音が早まり胸が熱くなっていくだけ。
これは俺がよく繰り返し見る夢の一部。そう、たかが夢。なのに見た後は妙に気持ちが落ち着かなかった。
記憶はまるっきりない。心だけが勝手に反応を示す。
これは俺も知らない、俺の魂だけが知っている遠い遠い日の記憶。
『空を見上げて心に浮かんだこと』
何気なく空を見上げてしまうのは毎日の癖になってしまっているだろうか。
晴れの日も、曇りの日も、雨の日も。
こんなにも日々、思いを馳せて空を見詰めた事なんてあっただろうか。
浮かんでくるのはあの人と過ごした日々。
初めて出会った時の事、私から告白し御付き合いした事、あの人からプロポーズを受け結婚した事、三人の子供に恵まれた事……二人で歩んだ人生がアルバムの様に映し出され、空をゆっくりと流れていく。
私の隣にあの人はもういない。
あの空の向こうで微笑みながら私を待っているのだろう。
私も齢米寿。いつかはアナタの元へ向かいますが、もう少しだけ待っていて下さいね。沢山の土産話を持って会いにいきますから。
『終わりにしよう』
終わりにしよう。
動けなくなった彼女の喉元へ剣を突きつけながら冷ややかな視線を向け静かに告げる。
仲間の魔法により拘束されている今、魔力の尽きた彼女に為す術ないはずだ。なのに不敵に釣り上がる口許、色を失わない瞳に恐れを抱くのは此方側。
死を恐れないその姿は美しくもあり、とても不気味で。
人々に仇なす者を成敗していく。世界を守る為に成してきた事であるはずなのに、これが本当に正しいのか躊躇いの汗が俺の額から零れ落ちると、彼女は妖艶に微笑んだ。
何も言わずただ笑むだけ。ぞくりと背筋が震える。
早くしなければ俺が惑わされてしまう。
首を跳ねるため剣を振りかざした俺を真っ直ぐに見詰めると、彼女は音もなく言葉を紡いだ。
━━後悔することになる。
彼女の首が床へ転がると、今まで青かった空が一瞬にして黒へと染まっていく。
その真意を知る術もなく、この日から世界に光が失われた。
『目にしているのは』
目にしているのはもう一人の自分。
俺は真っ暗な暗闇の中、鏡に写したかの様に存在するもう一人の自分に戸惑いを隠せずにいた。
一体此処は何処なんだ?どうして俺は此処に居るんだ?
異質な空間での奇妙な体験に恐怖を抱く俺に、もう一人の俺は不敵な笑みを浮かべこう告げた。
コワシタインダロウ?
ぞくりと背筋を震わせながら息を飲む。俺と同じ声音で暗く深い負の感情を乗せて耳へと届く言葉は、頑丈な鍵を何個も掛けて心の奥にしまいこんだ箱を解こうとじわじわと迫ってくるかのようで。
メチャクチャニシタインダロウ?
カチャリ……箱の鍵がひとつ、またひとつ解かれていく。やめろ!これ以上俺の心に入り込むな。そう叫びたくても出るのは嗚咽だけ。
オレトヒトツニナロウ……
大切な思い出が、光が徐々に掻き消されて行く…。
不気味な笑みを湛えて居るのは俺で、此処に居るのも俺で……。
こんなのは俺じゃない。
イイヤ、オマエダヨ。オレハオマエノココロノヤミ
オマエガカクシタホントウノオレ
やめろやめろやめろ違う違う違う!
俺の制止は効くはずもなく、迫り来る声、奥底に蠢く何か。
最後の鍵が開いた時、目の前の俺は口元を三日月の様に釣り上げ満足気に笑った。
オカエリ
俺の意識はそこでぷつりと途切れていった。
『優越感、劣等感』
私の名前は優越感
私の名前は劣等感
私達は人の心に生まれる双子の姉妹
双子だけど似ていなくて
双子ゆえにそっくりで
劣等感がいる所に私はいる
優越感の隣に私はいる
私達は一人で居る事は出来ず必ず二人一緒
離れることは決してない
だって、私達は表裏一体だから