暑いとイライラするよね
ただでさえ暑いのにキッチンに立つともっと暑い。冷房を入れてもいいけど火を使ってると全然効かない。電気とお金の無駄だと思って火を使う工程をはやく終えようと忙しなく動いていた。
ようやく一段落ついて汗でベタベタのTシャツを着替えにいこうとしたときだ。買い物から帰ってきた祖母がご機嫌に部屋に入ってきたかと思うと、突然不快ですと言わんばかりに顔をしかめた。
「冷房つけてちょうだい」
はあん?と凄みたくなるのを我慢した私はとても偉い。金メダルもらってもいいくらい偉い。
汗だくの私をチラ見して、買ってきたものをその場に残し着替えてくるとだけ言って部屋を出ていった。
またしても怒鳴りつけたくなるのをグッと飲み込んで、罪のない食材を冷蔵庫に放り込んだ。雑になってしまったが、どれだけ丁寧にしまっても祖母の気に入らない配置だとすぐに入れ替えられてしまうからもうどうでもいい。
バタバタとうるさい足音が近づいてきたので何も言わずキッチン側のドアから廊下に出た。こうするともう片方のドアから入ってくる人と顔を合わせなくて済むからだ。
案の定、冷房が入っていないことに大きな声で文句を言って、キッチンに入るとすぐ冷蔵庫を開けてアレもだめコレもだめと言いながら物を動かす音が聞こえる。
怒りを通り越してもはや呆れる。こんな人と一体いつまで過ごさなければいけないんだ。イライラしすぎて頭の血管切れちゃう。
自室に戻って、しっかり冷房の効いていることに幸せを噛みしめつつ着替える。身体がスッキリするとモヤモヤも少しは晴れた気がした。
こうも暑いと感情のコントロールが効かなくて嫌になる。普段はあんな小言、ハイハイスミマセンネ、と聞き流せるのに。まあ終わったことだし、気にしない。あんなの気にする時間と労力が勿体ない。
我慢はよくないのでお菓子を頬張りながら推しの配信をみて、夏休みを満喫する。それがこの夏の私に課せられた使命なのだから。
【題:夏】
目が滑って文字が読めない
単語だと理解できるのに文章になると分からなくなる
話したいことが言葉にならない
何か思いついても一瞬後にはもう思い出せない
いつまでも眠れない
食べだすと吐きそうになるまで止まらない
会話ができない
人の顔をみていられない
…ついにボケたかな、この年で?
自分のためにエアコンを使うのも勿体なくて窓を開けた
熱い風が通り抜けて汗ばんだ肌を撫でていく
風鈴の音が小さく聴こえた
こんな姿になってもまだ季節を感じるのか
絶望しかないな
【題:風鈴の音】
懐かしい夢をみた。
まだ何も知らない無敵だった学生時代。いいことはなかったけど、何気ない日常が楽しかった。こんなことを言うと自分も歳をとったのだと、なんだか感慨深くなる。
山のように出される課題とそれを元に容赦なく授業内容に差をつけたクラス分けが行われた。友達はみんな真面目な子たちで、成績もよく地頭もいいから突然の小テストでも満点ばかりだ。
対する私は勉強に集中できず、ただ授業を聞きながら外を眺めているような奴だった。頭はよくないが記憶力はよかったので得意な分野でだけは成績はよかった。
まあ教師からはいい扱いをされず目の敵にされたが、そんなのはどうでもよくて、友達やクラスメイトと話しながら課題を進めた。
途中、明らかにページの抜けた部分があって、また担当の教師が来てから話そうと思っていた。期限には余裕があるし1ページ程度ならすぐ終えられる。それがいけなかったなんて、今でも腑に落ちない。
担当教師の授業が終わり、課題のページが足りなかったと冊子を見せながら報告した。嫌そうな顔でついてこいと言われ素直についていく。
教師が手渡してきたのは分厚い紙の束だった。明らかに冊子よりも厚く、抜けたページを補うには過剰すぎる。
教師の顔をみた、酷く歪んだ笑顔で明日の提出を指示された。返事も禄にさせぬまま部屋を追い出された。
いつもの嫌がらせだ、気にすることはない。
紙の束をめくってみてその厚さに納得した。思わず笑みがこぼれてしまう。下3分の1ほどを人通りの多いごみ箱に捨てた。誰かにみえるように表を向けてね。
次の日、課題を提出しに行ったら中から怒鳴り声が聴こえた。気にせずノックをして入室許可を求める。
怒り心頭、といった教頭と隣のクラスの子が出てきて、私にも怒鳴りつけようとしたから先に課題の提出にきたと言ってやった。乱暴に取り上げられて、紙の束の中身を検分する。そしてまた顔を赤くして教師を怒鳴った。
当たり前だ。だって渡された紙の束のほとんどは私が受講していない教科や授業範囲外の内容ばかりだったから。
その教師はしばらく経ったのち、辞めていった。
謝罪も何もなかったが胸がスッとした。私も悪いことをしたとは思うが、普段からあんな嫌がらせをされたら大人しくしている義理もない。
捨てた紙束の中身、ね
アレは特定の生徒の答案用紙をまとめたものだよ
学年のトップがお飾りだったなんてね
滑稽だこと
【題:心だけ、逃避行】
トラウマなんて、そんな大層なものじゃないよ
やりたくもないのに勧められるがまま生徒会に入った。
人前に立ったことも、その重要性も理解しないまま、舞台に上がった。教師が用意した台本通り会を進行するだけの役。そのはずなのに。たったそれだけのことなのに。
関わったことのない生徒からも向けられる視線が恐ろしい。私のことなんて見ていないのに。分かってるのに。
滝のように流れる冷や汗は家に帰るまで止まらなかった。
知らないうちにはじまって、勝手に責任を負わされて終わった。私一人が何度も頭を下げ、待ち伏せされ、怒鳴られ、脅され、謝罪以外は許されない世界に取り残された。
誰も助けてくれない。弁明も釈明も言い訳や責任転嫁と責められる。何一つ届かない。
怒鳴り声も、振り上げられた手も、穏やかに見える笑顔も、その全てが嘘であると脳に焼きついて誰のことも信用できなくなった。
焦っていた。順番を間違えた。先生だってイライラしていた。何でだろうなんて意味なかった。
必要な書類はもらえたけど、同時に自分の存在意義を否定されて失った。最低人間なんだそうだ。志望校に落ちたことで、その報告が遅れたことで、私は人間失格らしい。
冬の渡り廊下は寒いはずだった。吹きさらしで、柵の代わりにコンクリの塀が少し高めについているだけ。3階は思ったよりも低かった。
乾いた風、乾いた地面、乾いた草木。誰もいない。今ならここから、いっそここから、この位置なら教室にいる生徒が誰か見るだろう。あわよくば、先生のせいだと見せつけてやりたいと。
死ぬことに救いを見出した、あの穏やかな気持ちを引きずっている。
蝉の声がうるさいことに気がついた。
熱風が吹きつける駐車場で、車のドアノブに手をかけて目が覚めた。意識がはっきりした。
はやく乗れと不機嫌に吐き捨てる両親が見えた。それで、私は失敗したのだとようやく理解した。
遠ざかっていく病院に何の感慨もない。だって何一つ覚えていないのだ。救急車で搬送されたことも、入院していたことも、全部思い出せない。
もう二度と失敗しないよう心に誓った夏だった。
「…どこで、どこから間違ったかな」
あなたのせいじゃない、と泣きながら優しく慰めてくれる夢をみた。そんなもの存在しないのに忘れられない、忘れたくない。
一面を白い花で覆い尽くした冷たく、寒い、花畑。
私一人で寝転んでいつかくる終わりを待ち続ける。でもせっかちだから駄目かもしれない。
思い出したくもない汚らしい過去を清算しよう。
私を殺したあの人たちに救いは似合わないから、私一人で十分でしょう。そうでしょう。
理由をくれてありがとう、私の救いの邪魔をしないでね
【題:あの日の景色】
もうだめ、1回でも人間扱いされたらもうだめなの
氷で涼を取る時代、華やかな氷中花が流行った。
まあ簡単に氷を手に入れることはできなかったから、デパートとか人が集まるところに飾られることがほとんどではあった。子どもたちがはしゃいで氷に触れ、大人たちは微笑ましく見守りながら目で楽しんだ。
それが正しい姿なの。
所変われば、『花』の意味も変化する。ただ美しく咲くだけではない、欲の中に咲くものもまた花なのだ。
一等透明度の高い氷は硝子のように向こう側をよく映す。溶けにくく、溶けても曇らない様は金持ちに好まれた。
彫り物をされた中が空洞の氷柱はまるで棺桶のようだ。その中に静かに入り込んで、藤飾りがついた豪華な扇を広げる。狭い氷の中でゆっくりと舞う。ほとんど動けないから扇を持って回るだけなのだが、お客はそれで満足らしい。
薄い浴衣に溶けた水が染みる。その冷たさに体の芯から熱が奪われていくのを感じつつ舞う。注がれる視線、くぐもった声、たまに氷を小突く者もいた。
そうして一人、藤飾りのついた小槌を持って氷の前に立った人がいた。随分溶けたけれど、まだ厚い氷をカンカンと叩いた。私は舞うのをやめてその人をみる。
またカンカンと叩いたから、私は扇を閉じて一つお辞儀をして氷から出してもらった。
本来なら色を売る合図なのだが、この方はどうにもその気がないらしい。酒を煽るばかりでどれだけ誘ってものってこない。ポツポツと仕事の愚痴を吐いては私をみて、行きつけの洋食屋の話をしてまた私をみて。どうやら私自身を気に入ってくれたようだと気づく。
やんわりとそういうことはできない決まりだと伝えて、次もまた来てほしいとねだってみる。少し考える素振りをして、照れたようにそっぽを向きながら明日もくると約束してくれた。そして荷物をまとめておいてくれとだけ言って一人で布団に入ってしまった。
次の日、約束通り来たら開口一番に私を身請けしたいと言った。近くこの国を出るからすぐに連れて行きたいと倍の金額を提示して、目の色が変わった店主をさっさと言いくるめてしまった。
こんなことになるとは思っていなかったから、元から少なかった荷物はほとんど残したまま。なんとなく目にとまった藤の扇と小槌だけを持って店を出た。
「きみは美しい、よく似合っている」
咲き誇る藤棚の下、透明な水晶の簪を私の髪にさして旦那様は蕩けるような笑みを浮かべた。
私はもうだめなの、この方しかだめなのよ。
【題:クリスタル】