随分と昔の話なのだけど、恥ずかしながら病んでいる自分がかわいいと本気で思っていた頃があったの。
雨音が大好きで、雨が降るたびに窓を少し開けて風にのって降り込んでくる雨粒を眺めながらぼんやりとすることが多かった。湿った風の匂い、水気を含んだ土の匂い、肌にあたる冷たい感触、窓にぶつかる音、遠くで響く雷鳴。
そのどれもが私とそれ以外の境目をぼかして、自分という存在ごと消し去ってくれるようなそんな気がしてすごく安心していた。いつのまにか眠ってしまって窓枠や布団が水浸しになることもあった。
その時間が好きだった。たぶん今でも好き。でも当時の私はその時間に酔いしれる自分しか見えていなかったの。
他の人が嫌いだという時間を私だけが好きだと言って大切にしているのだと優越感に浸っていた。
そんな風に無駄な時間を過ごしていたから焦れた周りの人がみんな私を責めた。ときに怒鳴りつけ、お金や持ち物を盾に脅され、優しく寄り添うふりをして傷口に塩をもみ込んでくる。絶望とか生ぬるいと感じるくらい人に対して嫌悪感しか抱かなくなった。自分も人なのに、矛盾しているのに、それこそが正しいこの世の真理だと信じている。
今でも少し引きずっているのだから、あの時は本当に辛かったのだろう。優しくされることが怖くて、居た堪れなくて、いっそ理不尽に怒鳴り散らしてくれたなら何か言い返せるのにと思ってしまう。
…何が言いたかったのか、私にもわからないの。
ただあの時感じたものがすべて無駄だったとは思わない。時間は無駄にしてしまったけれど、私の人生に必要な経験だったと思うようにしている。たとえ人間不信になろうとも、それだけが世界のすべてではないと思える判断材料にはなるから。まあ、やさしさの裏には打算や下心があると思っていれば多少気楽でいられる。
それでもやっぱり嫌いだから、やさしくしないで。
【題:やさしくしないで】
色んなことを考えていていつも頭の中はいっぱいだ。
ぽんっと出てきた新しい事にすぐ反応できなくて、それまで考えていたことが完結してからようやく新しいものと対峙する。そのときにはもう遅くて新しかったはずのことが過去のものに変わってしまっている。なんだか期限切れのお菓子のようでもったいないと思いつつゴミ箱に捨てるのだ。
好きなものはたぶんあった。
特定の何かではなく、もっとふんわりとした枠組みで。例えば食べ物でいえば甘いものだとか、色ならば淡いものだとかそういう感じ。
あまりにも漠然としすぎてて何が好きで何が嫌いなのか現物をみて触れて合わせてみないと自分でも分からなくなる。
少しずつ積み重なった過去は、私には重すぎる。
人に勧められた服も、髪型も、食べ物も、行き先も、そのすべてで躓いた。なのに自分から行動することはない。
失敗することが恐ろしい。逃げ道ばかり探している。
眩しすぎる外へ出るときはいつも帽子をかぶる。
多少狭くなった視界に安堵し、鉛のように重い身体と心を引きずって出掛ける。
誰かの笑い声が聴こえたとき、どうして誰かと笑えるのか不思議でつい目で追いかける。どうして自分は笑えないのか、それも考えてしまうんだ。
【題:帽子かぶって】
危うい人だ、と一目見て確信した。
ふらふらと落ち着きなく動き回るくせに、その行動範囲はひどく狭い。誰かが連れ出さないと決められた場所から出てこない、いや、出られないと思い込んでいる。
日毎交代しながら誰かしらが彼女の隣にいる。過去に自ら命を絶とうとしたことがあるらしく、繊細なガラス細工を扱うかのように無理強いせず、彼女のささやかな我儘を聞きながら傍観している。誰もかれも間違ったことだと認識していながらどうすることもできずにいた。
どこか夢うつつのぼんやりとした瞳が瞬いた。バチリと爆ぜるような効果音がつきそうなほどはっきりと、それまでの靄が全て消え去ったような澄んだ瞳が俺を捉えた。
これはチャンスだと思った。逃してはいけない、ここで逃せば彼女を見捨てるのと同じだ。彼女にはちゃんと意思があってまだ残っている。不安か恐怖かそれ以外か、理由はどうであれ彼女の視界を曇らせ思考を奪った何かから助けてほしいと乞われている気がした。
今にも閉じてしまいそうな本来の瞳を留めようと手を伸ばす。強く腕を掴んで狭い部屋から庭へと引っ張っていく。
翳って寒々しい空気で満たされた場所よりも日の当たる場所で彼女を慕う人たちと笑い合う方がいい。
助けを求めたその一歩を誇りに思う、
動けないのならその手を引こう、
絶望を打ち消すほどたくさんの希望を探そう、
ほんの数十年の命を諦めてくれるな
時間は有限だ。彼女と俺とではその有限すら差がありすぎる。数十年先で彼女は俺を置いていってしまう。
きっとこれは俺の我儘だ。ほんの瞬きの時間を見捨てて後悔したくない。いつか終わってしまうならばせめて思い出だけでも残してくれ。こんなこともあったと笑えるようになりたい。
―― だから、諦めはしない
彼女を助けるため、なんて都合のいい嘘をつくことを許してほしい。
【題:やさしい嘘】
第一印象は、自分と似ているな、だった。
自己保身のための逃げ道を最初につくって、それから物事に取りかかる。失敗しても最初につくった逃げ道を盾に言い訳を重ねる。誰もが納得するような言葉で、態度で、表情で、誰よりも自分を卑下する。あとは相手が呆れて去っていくまでずっと繰り返すだけだ。
そんな無責任で情けない愚かな自分が大嫌いで愛おしい。
自分の愚かさに酔いしれる姿がそのまま目の前に現れたのだ。悪いことだと自覚しているのに、同時にそれが最適解だと信じて疑わない相反した思考回路がそっくりなのだ。嬉しかった、自分だけではなかったと彼が証明してくれた。あからさまに表に出すことはしなかったけど皆気づいているのだろう。一歩引いた場所で観察しながら道を踏み外さぬよう誘導して体裁だけは整えてくれる。
その環境にずっと甘えていたい。
でも、深い蒼色の視線がそれを許さない。
どこまでも沈んでいく感覚が心地よくて目を閉じようとしていた。煮詰めた砂糖のように甘い夢をずっとみていたくて、見たくない現実を追い出すために、目を閉じる。
ぐっと強い力で引っ張られて、一緒に沈もうとしていた彼がいつのまにかいなくなっていることに気づいて、絶望した。もっと深く沈もうとした自分を、蒼色の視線だけは見捨てない。
自分の足で立ち上がれ、
動けないなら手を引いてやる、
絶望する暇がないくらいがむしゃらに進め、
絶対に見捨ててやらないから覚悟しろ
なんて眩しいのだろう。直視できそうにない。
でもね、なんでだろうね。隣にいて一緒に沈んでくれるよりもずっと嬉しいの。すごくつらくて苦しいのに嬉しくてたまらない。
―― ねえ、どうして諦めてくれないの
【題:瞳をとじて】
僕には夢がある。他の人からしたらごく当たり前のことでバカにされるような、少しの努力で簡単に叶ってしまうこと。
――― 一人暮らしをしてみたい
昔からどこか人とズレている。
みんなが笑っていても、悲しんでいても、それを数歩後ろから眺めているだけだった。混ざりたいと思わなかったし興味もなかった。曖昧に笑ったり悲しむフリをしたり何一つ共感できないまま、心底どうでもいいと線引した。
おかげで教師からは嫌われ、友人なんてものはいない。隣の席になった、ペアやグループになった、そういうときだけ僕はクラスメイトとして存在を認識される。居ても居なくても変わらない影の薄い陰キャだ。
そんなだから、どこに行っても上手く馴染めずストレスばかり溜まって生きることが嫌になった。酒に溺れ、部屋に引きこもり、検索履歴が死を連想させるものばかりになって壊れていった。
めちゃくちゃな生活だったから当然の結果ではあるが病気になった。一応就活に挑戦してみたりしてたのに、ほぼ自暴自棄のヤケクソだったから何も進展はなかったけど、それでも自分の存在価値を見つけたかった。結局、全部が無駄だった。入院して生きることに必死な人たちと過ごして狂いそうだった。退院して死に損なったことに絶望しつつ、あの反吐が出るような生の渇望の巣窟から抜け出せたことを嬉しく思った。
いつか、みんな死んでしまう。
だったらやりたいことやっても構わないだろう。生きているうちは法やしがらみに縛られて苦しいけれども、死んでしまえば関係なくなる。ようやく僕は、明日は何をしようか、と前向きに考えられるようになった。
でも、人というものは完全に変わることはないのだ。根底にある為人は染みついて消えもしない。一歩踏み出そうとする足を掴んで暗い底に引きずり込もうとする。どうせお前には無理なのだ、これまでもこれからもずっと、諦めろ、と。何の希望もない真っ暗闇な未来の何に夢をみているのだ。ああ、本当に死に損なった。
―――僕は今も昔も、生きることに向いていない
【題:明日に向かって歩く、でも】