アイスランド
凍てつくような真冬の冷気に曝されながら、僕は学校から帰っていた。ここ、エストニアの首都タリンでは名門校が集まるいわゆる学園都市なのだが、ソ連の構成国だった頃はそれほどのものじゃなかった。まあ、僕が産まれる前にその大国は崩壊し、今やすっかり欧米的な国として変わっちゃったわけなんだ。
「アイスランドってここより寒いのかな?」とユハンはフライトジャケットのポケットに両手を突っ込みながら白い息を吐いて言った。
「さあ、“アイス”ってくらいなんだから、氷で覆われた国なんだろうよ、きっとね」
「へえ。俺は“アイスクリームが食べ放題の国”って意味じゃないかと思ってたよ」
ユハンの冗談は本当につまらないんだな。なのに、一人でクスクス笑ってやがるんだ、こいつがさ。
「いやあ、こうも寒いと本当に気が滅入るよな。俺もちょっと鬱っぽいんだよ」と僕は話題を反らした。
「寒いと鬱になるのか?」
「知らん。ただ、何となくさ。こうも寒いとロクなことを考えないんだ、俺。例えば学校の近くに橋があるだろう? あそこから飛び降りようかなんて思っちまうんだ。わかるかい?」
ユハンは僕の話を面白くなさそうに聞いていた。それから、いきなり道端に唾を吐いた。
「おい! 汚いことはやめろ!」
「だってお前がつまらないことぐだぐだくっちゃべってるからよ。反吐が出ちまったんだ」
「ならお前が何か面白い話してみろよ」
「ああ、いいとも。あるところに、“アイスクリームが食べ放題の国”がありました。国民はみんなアイスクリームが大好きで、国名を“アイスランド”に…」
雪が降り始めた。そういや雪って汚いんだよな。大気中のチリやホコリが含まれてるとかなんとか。ユハンはというと、話ながら雪を食べたんだ。ばっちいなと思いながらただ、彼のアイスランドの話をずっと聞いていながら、もうすぐクリスマスだなとか考えて、ひたすら凍てつく舗道を歩いていた。
ウェスト・アンド・サウス
『人生は死ぬまでの暇潰しである』
誰かがそう言っていた。
なるほど。確かにそうかもしれない。
でも、それだと人間は死ぬために生まれてきたみたいじゃないか?
人間をダメにする呪いの一つは『死の自覚』だ。
自分は未来のどこかで必ず死ぬということを知っている。それが人生を悲観的に見るか、だからこそ懸命に生きようと努力するかは人それぞれだ。
アイザック・ニュートンと僕はまるで違う。
だから、僕の場合、テキトーに生きていこうと思う。人生を重く受け取らないんだ。どうせ死ぬんだと思いながら、色んな馬鹿なことをしてやろう。
西や南へオープンカーを走らせよう。フェリーに乗ってどこか遠くの場所へ行こう。
創世記13章にもあるじゃないか。『この大地を縦横無尽に歩くと良い』ってね。
僕はナポレオン・ボナパルトにはなれない。
だから、僕はテキトーに生きていく。いつか死ぬのにベストを尽くす意味もない。それでいいんだ。
英雄になる必要もない。国王になる必要もない。
僕は僕らしく、人生を死ぬまでの時間を暇潰しにしよう。
傷つくこともない。悩みを抱えることもない。
僕は僕。アイツはアイツ。
チャールズ・ダーウィンにはなれないのだから。
ホワイト
記憶は深い場所に監禁されている
絶え間なく反響する足音に怯えながら
俺は地下道を忍び足で歩いていた
お前の一言が俺の世界を変えたんだぜ
お願いだから笑ってくれよ
俺は酔っていたい
心はずっと雨漏りしているんだ
白い光に向かって歩き続けている
お前の顔が俺の世界を変えたんだぜ
愚かなほどに破壊された秩序
でも俺は希望を失っていない
それどころか、俺は今確かに可能性を得たんだ
恐怖なんかに、打ち倒されるものか
お前の存在が俺の世界を変えたんだぜ
このホワイトノイズに溢れる場所で
それでも生きていける
それでも闘えるんだ
背中に白い翼が生えたら、飛んでいける
お前が世界の中心だったんだ
お前こそが世界の秩序だったんだ
お前は遥かな、そして偉大な存在だった
もうすぐあの白い光が見えてくる
そこへ行けば俺は変われると思うんだ
お前のおかげなんだぜ
お前がこの世界を創造したんだ
だから届かなかった
それでも、お前の世界に俺を置いておいてくれよ
グッド・バイ
私は砂浜に座り、潮風を全身に浴びながら、夕陽に染まった真っ赤な海を見ていた。
私は大きく息を吸い、吐いた。それを何度も繰り返しながら、まだ薄ぼんやりとした輝きを放つ三日月を見た。
私は世界中に溢れる優しさを受け止めている気がした。
私は世界中に漂う無数の幸福を感じている気がした。
聞こえてくるのは、波の音と不安定な心音。
しかし、私は今、幸福だった。
もはや恐怖などどこにもなかった。
子供の頃、私は母の死を想像しては枕を涙で濡らしていたのを思い出した。
だが、母はもうずっと昔に死んだ。
人間はいつか死ぬ。
だけど、それが悲劇だなんて到底思えない。
この奇跡のような瞬間。
この魔法のような感情。
全てが尊いと思った。
さようなら、地球。
私は、本当に幸せだったな。
オールウェイズ
悲しい歌を聴きたいわけじゃない
辛い映画を観たいわけじゃない
苦しい夢から逃れたいだけだ
ただ、それだけだ
ただ、それだけなんだよ
本当に、いつも願っている
どうか教えてくれ
どうか救ってくれ
薬なんか捨ててしまいたい
俺は自由になりたいんだ
そして、あの空のてっぺんまで舞い上がらせてくれ
お願いだよ
お願いさ
頼むよ
本当に、いつもそう願っているんだ
哀れだと思うだろう
愚かだと思うだろう
全く笑えない冗談みたいだと思うだろう
でも、俺はここに立っているんだ
消えちまいそうなくらい不安定な存在さ
それでも俺はいつも願っている
いつの日か
いつの日か
あの空のてっぺんへ舞い上がらせてくれることを
だから、少しだけ笑ってみるんだ
そうすれば、一日は穏やかに過ぎていくから…