恋は金より重し、また命より尊し
その男は、自分は世界一不幸だと信じていた。
自分より不幸な者はいない。いたらそいつに今すぐ会いたいものだ、とさえ思っていた。
男は中世の頃から代々続く名家の血筋の人間だった。いわゆる、『王子様』というヤツで、容姿端麗、文武両道、英邁闊達。彼の名声や才能に嫉妬した男たちは皆『王様気取り』『王子様』と男を皮肉な渾名で呼んだ。その一方で、女たちは皆彼に見とれていた。男は学校ではかなり浮いた存在だったし、彼自身それを望んでいなかったのである。
彼は普通に生きていたかった。『王子様』ではない、普通の、平凡な男。そんな普通に憧れていた。そんな普通の幸せに憧れていた。富も名声もくれてやる、どうか俺に普通をくれ、と月に向かって神に祈ったこともあった。
その祈りが神に届いたかどうかは定かではない。しかし、決定的な奇跡としか思えないような出来事が彼に起きた。それはあまりにも突然だった。
なんと、彼の邸宅が火事で焼け落ちたのである。あっという間のことだった。風が強く吹いていたせいで火はたちまち燃え広がり、家族は助かったものの屋敷は全焼、父親が唯一銀行に預金していた金以外全てが焼失した。それでも銀行には充分な金はあったのだが、この時不謹慎にも男は「やった」と内心喜んでいた。
それから彼ら一家は『普通の家族』となった。学校でも皆気の毒に思って前のように皮肉な渾名で彼を呼ぶことはなくなった。男は学校の居心地がすごく良く感じた。皆が自分に同情してくれる。皆が自分を同じように接してくれる。彼はようやく幸せを掴むことができたと思った。
そして、遂に恋人ができた。
決して名家の出身ではない。特別美人でもない。『お姫様』ではない。しかし優れた感性とおおらかさを兼ね備えた少女。男は少女に結婚を申し込み、彼女はそれを受け入れ、家族の反対も押しきり、卒業と同時に結婚した。
しかし、幸せは長くは続かなかった。男は幸せを保つため、一生困らないだけの金を得ようと、資産家になることを目指し、自分の全能力を使ってもう一度金が必要だと神に祈った。
それがいけなかった。
男は少女と街を歩いていると、彼女は突然何も言わずに倒れ、その肉体は人の形をした男がかつて嫌い、また得ようとした無数の紙切れになった。
男は呆然と立ち尽くしていた。目には涙を浮かべ、彼女の身体をかき集めた。
しばらくすると、街中の人間が男を押し退け、大喜びでしきりに紙切れを集めては持って行ってしまうのであった。
セックス・オン・ザ・ビーチ
ニューヨークからシカゴに私の一家が移り住んだのは、欧州での大戦が始まる前の年の元旦のことだった。父の職場がシカゴに移り、我々家族はそれぞれ新しい生活に慣れなければならなかった。まだ当時九つだった私は、当然新しい小学校に転校し、不安や希望の入り混じった形容し難い複雑な気持ちを抱えていたのを覚えている。
私が小学校を卒業する頃には、友人がたくさんできていた。特にソニーとアルフレッドは週末にはいつもゲートボールをして遊ぶくらい仲が良くなった。そのまま中学に進学する頃、シカゴの治安は最悪だった。そう、アル・カポネ率いるイタリアン・マフィアがこの都市を牛耳っていたからだ。
昼間でもマフィア同士の銃撃戦が繰り広げられた。だが警察はというと、あまり大事にしないように捜査は深入りしなかった。マフィアから賄賂を受け取った悪徳警官が溢れていたからだ。また、密造酒が出回り、故郷のニューヨークでもマフィアが幅を利かせていた。そのニュースは本当に悲しいものだった。なぜなら、父の会社はドイツのビールメーカーだったのだから。
禁酒法が解禁されるまで、父は国に会社を閉鎖され、仕方なくミシンを作る会社に就職した。だけどあまりいい生活は出来なかった。私は必死に勉強し、家族を安心させようとした。母は私をいつも誉めてくれるが、父はなかなか私を誉めない。それでも私は父に認められたく、シカゴでも名高い高校に進学した。
大学に進学すると、禁酒法が解禁され、父は再びビールメーカーに戻った。私はあの懐かしいソニーとアルフレッドと共に成人祝いにカクテルを飲んだものだ。その時初めて飲んだカクテルはずっと後に『セックス・オン・ザ・ビーチ』と呼ばれるものになるのだけれど、当時の私はシカゴで大人になれた喜びで満たされていたので、そんなことは考えもしなかったのである。
世紀の阿婆擦れ女コーティー
“スパンキー”とかいう最低最悪の渾名で僕を呼ぶコーティー・フラーを僕は愛していた。だから僕は世紀(性器)の阿婆擦れ女と心の中で彼女を侮辱してやるのさ。僕は控えめな性格だけど、内心は酷く暴力的なのさ。それこそ、泳ぎ回る“スパンキー”のようにね。
コーティーにはダニエルという兄がいる。コイツは無職の引きこもりの癖に芸術家気取りの変態野郎なんだ。女の裸の絵ばかり描いて、実に気持ち悪いヤツなんだな。しかもメガネが本当に似合ってない。ダサいなんてものじゃないよ、アレは。80年代の若者だってもう少しマシなのをかけてたさ。
まあ兄は酷いけど、コーティーは実に美しい女性だよ。だけどね、言葉遣いがよろしくないんだな。僕を“スパンキー”と呼んだりするし、幼なじみであり親友のクレイグ・マッコールを“タマナシ”と呼ぶ。だからクレイグは僕に「あんな女とは付き合うな」と忠告してくれたけど、僕は彼女が好きだから仕方なく親友の忠告を無視せざるを得ない。
意外なことにね、コーティーは処女なんだ。でもきっとそれは嘘だと思うだろ? だけどホントなんだよ。だってキスしようとするだけで恥ずかしがるんだからさ。そういうギャップが僕は好きなんだなあ。他にも下品な言葉遣いをする女の子たちはたくさんいるけど、コーティーほど可愛い最低最悪な女の子はこの世界広しと言えど居ないんじゃないかな。
だけど、やっぱりクレイグを“タマナシ”と呼ぶのは止めて欲しいものだね。彼は真面目で慎重なだけなんだから、恋愛経験の有無で人を侮蔑するのは許されない行為だ。でも、僕が本気でそれを彼女に指摘すればきっと彼女はベソカキながら謝るんだろうと思うと、やっぱりこの世紀の阿婆擦れ女が僕は好きなんだと思い知らされるんだろう。
僕は明日学校で彼女を泣かすつもりだ。
泣き顔をイメージして寝ると、僕の右の口角がほんの僅かに上がっていた。
ピー・ティー・エス・ディー
俺は中隊の一員として、ひたすら塹壕の中を歩いていた。そこは国境付近だと隊長から知らされたが、実際は分からない。ただ、西へ西へと果てしない塹壕を進んでいたのを覚えている。遠くで砲弾が炸裂する音、化け物みたいな戦車の軋む音、数多の銃声が響き渡る戦場の中を歩いていた。
頭がおかしくなりそうだった。いや、もうおかしくなっていたのかもしれない。初めて戦場に来てから、イカれちまったのかもしれない。敵の新兵器がそうさせているのかもしれない。どちらでも大差ない。俺は頭がおかしくなったのは戦争から帰ってからすぐだったから。
ここには塹壕はない。舗装された道があるだけ。泥まみれの塹壕を歩きながら、死体を跨ぎながら、火薬の仄かな香りを嗅ぎながら、必死にライフル銃を握りしめながら、毒ガスに怯えながら歩く必要もないんだ。なのに、俺の頭の中では今も塹壕を歩き続けているんだ。
戦争は負けた。俺の国は降伏し、酷く貧しくなってしまった。思えば、俺はどうしてのこのこと帰ってきてしまったのだろう。俺に居場所なんて無いのに。俺を迎え入れてくれる場所なんて無いのに。もう、俺の知っている世界はそこには無かった。
別世界に来てしまったようだ。
頭が混乱している。
酷く気分が悪い。
「顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
紅色の帽子の若い女が舗装された道の上で立ちすくんだ俺にかけ寄って来た。
「うるさい、あっち行ってろ!! 次の指示が聞こえないだろうが!! まだ負けちゃいないんだ」
女は後退りしながら逃げて行く。
「そうさ、これからすぐに次の支援が来る…帝国に勝利を…万歳…」
そこで俺は気絶したが、死ねなかったことにいささか後悔している。
今、こうして病室のベッドの上で鼻歌を歌いながら、夢と現実を行ったり来たりしている。
消えない光
ときどき、いや、最近は、よくこう思う。
『僕はどこへと進んでいるんだろう』と。
死に向かって歩いているのだとしたら、それだけが生きる理由なら、人生は恐ろしく退屈極まりない暇潰しだ。そんなもののために、僕は生きているのだとしたら、今すぐにでも死んでしまうだろう。そして、神を呪ってやる。
20世紀にこんな歌が世界で流行っていたそうだ。
『ここにはいつまでも消えない光がある』
光。
それは、輝いてはいるけど。
うすぼんやりと。
それは、希望の光じゃない。
少なくとも、この歌は希望を歌っていない。絶望の中にだって光はあるのだから。
僕の中にも、消えない光がある。
静かに暗闇の中で揺れる、絶望と希望の狭間を行き来するような、不安定な光が。