『先生、今日は中学の入学式でした』
帰宅した私は、いの一番に先生へメッセージを送った。着ていた真新しい制服を脱いでいる途中で返信が届く。
『入学おめでとうございます。新しい学校はどうでしたか?』
『(-ω-;)ウーン』
『おや、何かあったんですか?』
今朝は余裕を持って起床する予定だった。しかし昨夜は緊張のためか寝付きが悪く、やっとこさ寝入ったのが明け方。おかげで目覚ましが鳴ったのに気づかなかった。
遅刻を心配する父の声で漸く覚醒し、慌てて着替えて部屋を出た。そのせいで、シャツを裏返しに着ていたのだ。
学ランを羽織っていたため父は気づかず。また、学校についてしばらくは誰も気づかず。
ところが、式典の後に新入生の服装検査が行われた。そこで学ランの下に華美なシャツなどを着ていないかチェックされたのだが、ただひとり裏返しに着ていたせいで大変な注目を浴びてしまったというわけだ。
『もう、みんなに笑われるし最悪ですよ😑』
『それは災難でしたね😂』
『でもみんなに顔を覚えてもらえたんじゃないでしょうか』
『そんな覚えられ方したくなかったです😡』
『面白い子だと思われて人気者になれるかもしれませんよ』
入学初日にとんだ失態を犯してしまったが、先生と話しているだけで浄化されてしまう気がする。
『どちらかというと先生みたいな人気者になりたかったですよ! 何でもできてカッコイイ〜みたいな』
『私はそんな人気者ではないですが、煌時くんはまだまだこれからですからね。諦めず挑んでみたらいいと思います。ただ、いちばんは自分らしく楽しむことですよ』
『はーい😙』
『先生はどうなんですか、大学生活』
『私は相変わらずです』
『相変わらずモテモテですか!?😡』
『なぜそうなるんですか笑』
『浮気しちゃダメですからねっ👊』
『はいはい、君が大人になるまで結婚はしませんよ』
『“は”って何ですか! お付き合いもダメです!!』
『わかってますよ😛』
『それほんとにわかってます??』
先生とのやりとりは本当に楽しい。つい時間を忘れてしまう。
『ところで、宿題はいいのですか? 君の中学校では初日から課題が出ると聞いていますが』
「うぇっ」
思わず変な声が出てしまった。
『ありますけど……』
『ではちゃっちゃと終わらせましょう。入学前にしっかり準備した君なら、問題なく解けるはずです』
『は〜い😩』
『ところで先生、聞いたって誰から?』
『ああ、もうひとりの教え子です』
え??????
『え?? 先生、私の他にも生徒がいるんですか?』
『いますよ、言ってませんでしたっけ』
『今年中3です。君の先輩ですね』
な…………
なんだってぇーー!?!?
先生に私以外の教え子!!!?
浮気じゃん!!
いや浮気じゃないけど、浮気じゃんっ!!!
「うぐぅ〜〜ぉ」
宿題に取り掛かろうとベッドから立ち上がりかけていた私は、再びベッドへ突っ伏した。
『だ、誰ですか……』
『それは言えませんよ、個人情報ですから』
「くっ、真面目め……」
もはや宿題どころではなくなってしまった私は、あの手この手で先生から浮気相手(違う)を聞き出そうとするも、すべて失敗に終わった。
『無駄ですよ、絶対に教えません。それより早く宿題をしなさい』
『先生が浮気したせいでやる気なくなりました🤕』
『……仕方のない子ですね』
ポップアップが出て、着信音が鳴る。
「もしもし……」
「煌時くん」
先生が言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「何ですか……」
「あと1年」
「はい?」
「彼を教えるのはあと1年です。今だけですから、辛抱してください」
「……本当に?」
「約束します。1年耐えてくれたら、『私には君だけだ』って言葉を贈りましょう」
「先生……」
「やる気になりましたか?」
この先生は、生徒をやる気にさせるのが本当に上手い。
裏を返せば、もうひとりにもそうだと言えるんだけど……
それは今は置いておこう。先生を信じるんだ。
「はやく先生に追いつけるよう学びます」
「はい、待っています」
名残惜しくも通話を終了し、机に向かった。
テーマ「裏返し」
チュンチュン……
どこからともなく聞こえてくる小鳥のさえずりが、朝の目覚め難さをいくらかマシにしてくれる。
私は普段の数倍厳かな気分でベッドから下り、今日で最後になる制服に袖を通した。
今日は私たち6年生の卒業式だ。
本番は予行練習より感動的だった。あらゆる装飾が綺麗だし、お祝いの言葉も端折られない。私が特に好きなのは歌だ。卒業生、在校生、それぞれが選んだ歌を歌う。その歌詞に込められた想いをしみじみと受け取り、私たちは巣立っていく。
入場に比べてそそくさと退場する。立つ鳥跡を濁さず、か。この学び舎に、未練がまったくないといったら嘘になる。まだまだ遊び足りない場所、話し足りない人。
それでも前を向いて立っていられたのは、この6年間、私たちに自信を与えてくれた教師・生徒たちのおかげだと思う。感謝の気持ちを、いつまでも忘れないでいたい。
教室で級友と最後の言葉を交わした後、父とともに駐車場へ。なんだか無性にあの人と話したい。
その願いは割とすぐ叶えられた。帰宅して私服に着替え、脱いだ制服を丁寧にしまっていると、父がやってきた。
「あらためて、卒業おめでとう」
父がくれたのは、ラッピングされた小さな箱。卒業祝いだという。中身は腕時計だった。
「わぁ、かっこいい! ありがとう!」
私の好みドンピシャなデザイン。流石です父上。
「実は、もうひとつある」
「えっ、まだ!?」
「といっても、これは私と高遠先生からだ」
「先生から!!」
高遠頼広、私の家庭教師である。
私は驚くと同時に少し不思議に思った。なぜ直接渡してくれないのだろう。来週には会えるのに。
受け取ったのは、小さめの封筒。まさかお金じゃないよな……とドキドキしながら開けてみた。中身は謎のアルファベットと数字が羅列されたメモ紙だ。
「?」
私が首を傾げると、父がニヤッと笑ってその正体を教えてくれた。
「それは先生のLINE IDだ」
「えっっっ!!?」
狂喜のあまり二の句が継げずにいると、父が経緯を説明してくれる。
「お前ももう中学生だ。忙しくなるし、急な予定の変更も増えるだろう。先生と話し合って、直接やりとりしてもいいことにした」
「と、父さんっ、ありがとう……!」
「どういたしまして」
私のあまりの喜びように、父は内心複雑だったかもしれない。それでも微笑んで、震える指でスマホを操作する私を見守ってくれた。
『先生、卒業祝いありがとうございます。これからもよろしくお願いします😆』
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
『卒業おめでとう🌸 こちらこそよろしくお願いします。』
先生、返信早い♪
もしかして待っててくれたのかな、なんて都合のいいことを考えてしまう。そうじゃないにしても、すぐにチェックしてくれたのは喜ばしいことだ。
『次に会えるのは来週ですよね、楽しみです!』
『私もですよ。中学入学にむけてしっかり準備させますから、覚悟しておいてください』
『うっ、先生まじめ……』
『当然です。煌時くんの苦手な算数からやりましょう』
『数学になるんだっけ』
『そうです。難しくなるので躓かないよう対策しましょうね』
『はい(´・ω・`)』
私の下心などまるで知らないとでもいうような会話になったが、私は概ね満足だった。けれども今日は卒業式。神様も祝福してくれるらしい。
『今用事が済んで、帰宅したところです。もし時間があるようなら、通話しますか?』
通話。通話……通話!?
『はい!!』
待つこと数秒、突然ポップアップが表示され、着信音が鳴る。
私の胸も高鳴る。
「もしもし!」
『こんにちは煌時くん。卒業おめでとう』
「ありがとうございます!」
『また1歩大人に近づきましたね。君の成長は私も嬉しいです』
先生との会話でテンションが上がりきった私は、我にもなく悪戯心が湧いてきた。
「それは私が大人になったら、先生とちゃんと付き合えるからですか?」
茶化すように言ってみたが、本音も混じっている。先生が肯定する未来は見えないが、どう誤魔化してくれるのか、期待せずにはいられない。
『……』
「先生?」
珍しく言葉に詰まる先生。困らせてしまったことに焦った私は慌てて前言を撤回すべく口を開く。
「先生、今のは冗」
『そうですね』
「……へ?」
『楽しみですよ』
何が? と訊く前に、通話は切れた。
しばらく放心状態になる私。事の重大さを理解した瞬間、2階の窓から大空に向かって飛び立ちたい衝動に襲われた。
今なら翔べるんじゃないだろうか。
テーマ「鳥のように」
今日は待ちに待ったおうちデートの日!
美術館を出て先生の家に直行する。
先生は何度も「本当にウチにいるだけでいいのか」と聞いてくれたが、私にはこれ以上ない幸福だ。
もちろん先生といろいろな場所へ出かけるのも楽しいだろう。でも人目があれば、先生と私が恋人っぽく振る舞うことはできない(恋人じゃないけど)。
要は、先生と思いきりくっつきたいのだ。
マンションに着いて、先生が鍵を開ける姿を見つめる。こんなちょっとした仕草ですら格好良く見えてしまう。
中に入り、先生が出してくれた麦茶を飲む。先生は普段お茶しか飲まないらしい。
「さて、何かしたいことはありますか?」
「えっと……じゃあ、映画観たいです!」
先生がノートパソコンを立ち上げ、サブスクの画面を開いて映画を選ばせてくれる。私は去年大ヒットしたアニメ映画をタップした。
泣ける映画と話題になった作品だが、私は非常にドキドキしていた。原因は、映画の面白さが半分、先生の隣にいるという事実が半分。
それでも次第にストーリーの中に引き込まれていき、終わる頃にはボタボタと涙をこぼしていた。鼻もすすっていたからか、先生がティッシュを渡してくれた。
「おもしろかったですね」
「グスッ、先生は泣かないんですか」
「泣きましたよ? 君にバレないように拭きましたが」
「えぇーっ、先生の泣き顔見たかった」
「そう簡単には見せませんよ」
「ケチ……」
こんな他愛もないやりとりがひどく愛おしい。相手が先生だからだろうか。
「次はどうします?」
「先生オセロ持ってるって言ってましたよね?」
「よく覚えてますね」
「えへへ、やりましょう!」
数分後、私はぐぬぬと唸りながら眉間にシワを寄せていた。先生、バカ強い。
「降参ですか?」
「ぐっ……も、もう1回!」
「いいでしょう」
……
「もう1回!!」
……
「もう1回!!!」
……
「も、う、い、っ、か、い!!!!」
…………
ぐぬぅ〜〜〜〜〜!
こてんぱんに負かされた私の眉間には、マリアナ海溝よりも深いシワが刻まれた。いったい何回戦やったのか、数える余裕すらなかった。
「ふぅ、さすがに疲れました。おや、もうこんな時間」
先生の言葉で時計を見ると、我が家の夕食の時間が差し迫っていた。
「えぇ〜、はやい……まだ1回も勝ってない」
「フフ、今日のところは諦めなさい。また挑戦すれば良いのです」
「うぅ……」
オセロの件も悔しいが、もっと悔しいのは先生とイチャイチャできなかったことだ。本当は一緒に寝っ転がってくっついたり、ストレッチと称して触れ合ったりしたかったのに!
先生の強さを恨めしく思いながら帰り支度をしていて、ふと気づいた。置いていた荷物から先生の匂いがする。
先生があっちを向いている隙に肺いっぱいに吸い込む。いい匂い。嬉しい反面、急激に寂しくなった。家に帰れば、この匂いは消えてしまう。
「さぁ、準備できましたか?」
先生が明るく尋ねる。私は返事ができなかった。
「煌時くん?」
私はつい、親との別れ際にぐずる幼稚園児のような態度をとってしまう。俯き、カバンを抱きしめたまま立ちすくむ。
先生はそんな私を見て、少しの間沈黙した後、思い出したようにこう言った。
「そうだ、さよならを言う前に、煌時くんにお願いがあります」
「? 何ですか……?」
「目を閉じてください」
「えっ、なんで??」
「いいから」
私には先生の意図がまったくわからなかった。しかし信頼している先生たっての頼み、きかずには帰れない。
私がぎゅっと目を瞑ると、先生がゆっくりと近づいてくる気配がした。
「開けちゃだめですよ」
囁いて、あとは静寂。
額にコツンという感触。次いで鼻には柔らかいものが当たる。自然とその続きを期待したが、それだけで先生は離れていった。
「はい、もういいですよ」
なんだ、もう終わりか……
残念に思いつつ目を開けると、首に何か掛かっている。
「これ……?」
「プレゼントです。今日の記念に」
いつの間に準備したのか、今日行った美術館モチーフのペンダントだ。先生からの初めての、形に残るプレゼント。
「せんせぇ、ありがと」
この時の私はきっと、世界一蕩けた顔をしていたに違いない。
テーマ「さよならを言う前に」
「先生、ウユニ塩湖って知ってますか?」
先生が我が家に到着するなり、私は今日1日温めていた質問をぶつけた。
「ええ、知ってますよ。ボリビアにある世界最大の塩原ですね。絶景スポットですが、残念ながら行ったことはありません」
「ふふーん♪」
「どうしました? やけに嬉しそうな顔をして」
私は後ろ手に隠し持っていた紙を自信満々に掲げた。
「おっ、賞状!」
「はい! 夏休みに描いた絵で、優秀賞をとりました!!」
先生は賞状に書いてある堅苦しい文言を一字一句読み上げ、いつも以上の笑顔で祝いの言葉をくれた。
「えへへ。これで一緒に見に行けますね、ウユニ塩湖」
「はい?」
「約束したじゃないですか、連れてってくれるって」
「ウユニ塩湖に??」
「はいっ♡」
次の土曜日、私と先生は地元の美術館に来ていた。
私はつい早歩きになってしまいそうな自分の足を必死におさえて、所狭しと展示された小学生の作品を鑑賞した。入賞しただけあって、みんな上手い。
先生も微笑ましく眺めている。その横顔にちょっぴり嫉妬してしまうのは、私が未熟だからだろうか。
気を紛らわせようと先生とは反対側に視線を向けた時、ちょうど目当てのものを発見した。
「先生!」
呼びかけに振り向いた先生は、手招きする私に近づいてきた。
「ありましたか?」
「はい、これです!」
指差したのは優秀作品エリアに並ぶ一際青い作品。私が描いたウユニ塩湖の絵だった。タイトルは『空模様』。
「ほぅ……美しい」
こういう時、先生はお世辞を言わない。
「この子は君ですね?」
私の容姿と、絵の中心に立っている長髪の少年を見れば、誰もがそう思うだろう。事実、間違いではない。
「はい。もうひとりは誰だかわかりますか?」
「もうひとり? この絵にはひとりしか」
言いかけて、先生は口をつぐんだ。この絵の仕掛けに気づいたらしい。おもむろに私の顔を見る。
私はニッコリ笑って頷いた。
「先生です。いつも私を影から支えてくださっています」
少年の足元、水面に反射している黒い影は、少年よりも髪が短く背は高い。
「最初の下描きはふたり並んでる絵だったんですけど、今の私たちにはこっちのほうが相応しいんじゃないかと思って」
それに、この絵を見る人たちに、ただの仲良し親子の絵だと思われたくないし。
そんな不純な心から生まれた絵だったが、先生は真剣な眼差しで私を見つめた。
「素晴らしい絵だ。煌時くん……ありがとう」
何に対するお礼なのか、未熟な私にはよくわからない。だから私は、先生の手を引いて出口へと向かった。
観光の後はおうちデートに限る。今日1日、先生を独占するんだ!
テーマ「空模様」
「ハァ……」
朝から鏡の前に立った私は、盛大なため息をついた。
白髪だ。また生えている。
いわゆる若白髪というやつだが、自分が一気に歳をとったような気持ちになって憂鬱だ。
実は白髪自体は幼少期からたびたび出現していた。少し前までならあまり気にしなかった問題である。ならばなぜ今こんなに落ち込んでいるか? 原因はあの子にある。
家庭教師のバイトをしている私の担当生徒、煌時くん。彼はもうすぐ中学生になる年頃で、私に想いを寄せてくれている。
未成年との恋愛という危険行為に及ぶつもりはない。だがもし、彼が成人後も変わらぬ目を向けてくれるなら、こちらも誠心誠意応えたいと思っている。それほど彼は魅力的な子だ。
そこで話を戻すと、若いより幼いという言葉のほうがしっくりくる相手との将来を考えた時、私は自分が老いさらばえていやしないかと不安なのである。
しかしながら、努力で埋められない差について案じていても仕方あるまい。私は唇を引き結び、顔全体に化粧水を押し込んで大学へ向かった。
「ハァ……」
朝から鏡の前に立った私は、盛大なため息をついた。
ニキビだ。狭い額で赤々と存在を主張している。
そろそろ思春期に突入しようという齢、仕方のない現象なのかもしれない。でも今日は、先生が来るのに。
好きな人の前では綺麗でいたい。古今東西時代を超えた願望だ。ニキビひとつとっても由々しき問題である。たとえ相手にされなくとも。
「先生もニキビとかできたのかなぁ」
ぽつり、呟いてみる。神がかって美しい先生にも、見た目で悩んだ時期があるのだろうか。そんなことを言ったらきっと先生は、「君のほうが美しいですよ」なんて言って笑うんだろう。
先生はわかってない。私がどれだけ先生を美しいと思っているか。
「……今日からおやつ控えよ」
私はニキビの原因を減らすためにできることをしようと決めた。
「あれ、食べないのですか?」
「はい。ちょっと今、お腹いっぱいで」
先生の指導中、いつものように父が差し入れてくれたおやつに手を付けない私を見て、先生が不思議そうに問うた。「そうですか」と納得しかけた先生だが、次の瞬間、私の腹の虫が鳴き叫び、怪訝な表情を浮かべる。
「もしかしてダイエットですか?」
「えっと、まぁ、そんなところです」
「君には不要だと思うけど」
先生の心配は嬉しいが、額のニキビを見せてこれのせいですとは言いたくない。葛藤する私を更に心配した先生が補足する。
「軽い気持ちで始めたダイエットが重い病気を招く例もあります。おやつを抜くのはいいですが、食事はきちんと摂ってくださいね」
「はい、そうします」
約束ですよ、と言って先生は最後のわらび餅を頬張った。
暖房の設定温度が低いからか、お腹が空いているからか、私は問題を解きながら背中を震わせた。次いで鼻の奥がムズムズしてくる。
クシュンッ!
なるべく音を抑えようとしたが効果はなく、先生が振り向いた。
「おや、風邪ですか? 熱は?」
「ァ、ちょ」
止める間もなく額に当てられる手。
「んー、熱はないですね」
先生の指に確実に当たったはずのニキビ。絶対に気づかれた。
「どうしました? 具合悪い?」
ちょっと泣きそうになった私の顔を見て、体調が悪いせいだと思ったらしい先生が優しい声をかけてくれる。ニキビさえなければ喜んで終われたのに。
父を呼ぼうかと聞かれて首を振る、しかめっ面の私。困り顔の先生。
「今日はもう終わりにしますか?」
「大丈夫です。体調は悪くないです」
「ではどうしたんですか、そんな辛そうな顔をして」
「……ニキビ」
私は意を決してワケを話した。
「先生には知られたくなかったです……」
「なるほど」
先生はホッとしたのか小さく息を吐いた。
「私にも、美容の悩みはありますよ」
「えっ、本当に!? どんな悩みですか?」
「フッ、内緒です」
「えっ、ずるい……」
子どもっぽく唇を尖らせる私に、先生は穏やかな顔で言った。
「そういえばあの約束、まだ果たしていませんでしたね」
「あ、発表会の時の」
「ええ。いつがいいですか?」
「じゃあ、土曜日で」
演劇発表会で良い演技をしたご褒美に、丸1日先生を独占させてくれる約束なのだ。私からしたらデートだ。プランは全部私の自由。計画はすでに立ててある。
「わかりました。楽しみにしています」
「はい!」
私はニキビのことなどすっかり忘れて机に向き直った。
夜に再び鏡を見て、約束の日はニキビが治ってからにすればよかったと少し後悔した私だった。
テーマ「鏡」