「あなたに届けたい この思い」
いつもなら気にも止めないであろう
路上ミュージシャンのかすれた声がコダマしているのは、私の脳裏にまさに「あなた」が浮かんでいるからだ
エゴを美化して歌う恋愛ソングには腹が立つ
みんながみんな、「あなた」に届けられるほど綺麗な思いを持っていると思いやがって
しかも、どうせその思いは叶うというオチだろう
稀に叶わなくても擦り傷だ
だって思いそのものが綺麗なんだから
そんたのはもう聞き飽きた
どうせならドロドロした感情こそ
綺麗に飾り付けて欲しいものだ
例えば、
例えば
「あなた」は既に誰かの1番で……
と巡りそうになる思考を前に
全てがバカバカしくなって、
目を閉じた
私の思いは誰にも言わない
まさに「あなた」にこそ
絶対に届かない
届くことの無い この思い
あなたの腕の中はいつも違う香りがする
綿あめのような安っぽい香水の匂いを
疎ましく思いつつも、
この薄っぺらい胸に体重を預けているのは
柔らかな胸ごしに伝わってくる
時に大きく跳ねる心音に安心するからだ
昨晩、この不整脈を独り占めした女は
よほど自己顕示欲が強いのだろう
甘ったるい綿あめのにおいが素肌にまで染み付いているのではないかと疑うほど強く香っている
私はどうしてこんな人間のことが好きなんだろう
気安く肌を触れ合わせるくせに、
自分の心は少しも見せないところだろうか
時折三日月のような目を浮かべて懐いてきたと思えば
氷のように冷たい黒目が私を突き刺すところだろうか
再び心音が大きく跳ねる
私は安心と、
それをはるかに覆い尽くすような不安に襲われた
この人の胸は何故なしに安心する
初めて抱きしめられた時からそうだった
理屈ではない、病みつきになる心地良さだった
でもおそらく、
私と同じことを感じている人間は私の他にも沢山いる
そしてこの人にとって私は
その大多数の1人に過ぎないのだろう
細長くて綺麗な指が私の髪を優しく梳かす
綿あめの匂いの女にも
同じことをしたであろう慣れた手つきで
そうだ
私はこの人間でなく
この不整脈持ちとのコミュニケーションに付き纏う
安心と不安に魅了されているのかもしれない
うん、
きっとそうだ
こんなに大好きなのは私だけじゃない、
これは苦しい片思いなんかじゃないと
嫉妬で狂いそうになる頭に必死に言い聞かせた
「雨が降っててさ、
俺は傘をさして、お前を迎えに行くんだよ
そうしたらお前は小さい男の子と手を繋いでいてさ
その子誰?って聞いたら私たちの子供だって
そう言うんだよ
こんな夢を見たんだよ
なあ、わかるだろ
俺は本当にお前と一生添いとげるつもりなんだよ
今日だってこんな夢を見た
お前が陽の当たる窓際で俺に似た赤ん坊を抱いて
うたた寝をしてるんだ
幸せだろ?俺はもうそのつもりだったんだよ」
よく回る舌に反して
この男の瞳は一点集中、
私の瞳を捕らえたまま動かない
愚かで傲慢で、
自分勝手な暗闇が
瞳の中で渦を巻いているのがよく見える
私のため息が男の舌に絡みついたのか、
ふと押し黙った男に対して
私は哀れみと怒りを込めつつ
今日、
私が見た夢の話をした
私は今朝、
幻のように綺麗な浜辺で
私によく似た女の子と貝殻探しをしていた
そこにはこの男の影もなく、
隣には大好きなあの人がいた
大好きなあの人は私と子供を抱きしめて微笑む
柔らかくて優しくて、
ほんのり切ない潮の匂いが
今も鼻腔に残っている
幸福が骨の髄までしみ渡るような夢だった
私は幸福なこの夢を、
何があっても実現しなければならない
それだけが私の、
最初で最後の夢であり、
この人生の目的だった
海の底がどんなものかを知っているかって?
冷たくて暗くて狭くて怖いところだよね
得体の知れない生き物がウロウロして
とにかく嫌なところだと思うよ
そんな事ない?
暖かくて陽の光が天使の梯子みたいに降り注いで
静かに生き物を照らす神聖な場所だって?
うーん……
あなたが言うならそうなのかもしれないね
なんだか羨ましいな
あなたの目にはこの世界が
いつも美しく見えているんだ
…いや違うか
あなたの認識が
あなたの心が
あなたこそが美しいから、
この世界も美しいのか
そうすると…
あなたと一緒にいたら
私の目にうつる世界も美しくなるのかな
生まれてはじめて、
この先、生きていくのが楽しみになってきたかもしれないよ
「木枯らし1号だって、もうそんな季節かあ」
彼が放った他愛もない一言が
暖かい部屋の中で寛いでいた私の意識を、
木枯らしが吹くあの光景へと連れていった
落ち葉がカサカサと音を立てる中、
私の乾いた手からあの人の温もりが離れた時のこと
木枯らしに吹かれて痛む頬の冷たさは
どれだけ体が温まっても忘れることが出来ない
私の骨の髄まで染み込んだあの冷たさは
私が幸福になろうとする度に
じわじわと
髄から表面の皮膚まで侵食し、
忘れるなと言わんばかりに常に私につきまとう
そんなに主張しなくても
私があの人を忘れることなんてないのに
「手冷たいね」
私の冷たくなった手を握った彼が
幸せそうに笑んでいる
私はさりげなく彼の手を離し、
目をつぶって
木枯らしのあの日、
私の手から離れていった温もりを感じていた