トイレから戻ったら、自分の席に知らない女が座っていた。
そこは俺の席だからと言って、退いて貰えばいい。そう言ってくれるな。全員怖い。入室した空気の気流の流れで、自分が雑魚だとバレるんだ。
ほら、自分はただ、机にかけておいた弁当を回収したいだけの男なのに、彼女らはまるで不審者に近づかれたみたいに笑いをやめる。取るに足らないちっぽけな存在は「そこをどけ」と自分の権利を主張したり、抗議の意味を込めて睨んだりとかいうことはしないのに、得てして一方的に害意を向けられる。喋ったことない奴らに何故か嫌われているのだ。
かと言って、件の女のような図太さも持ち合わせない繊細な男、俺。空席を押し退けて教室をあとにする。昼食の時間は無限ではないのだ。食堂へ。同じ制服の群れでごった返すのを確認した瞬間、踏み入らず、中庭へ。 昨晩の雨のために、辺りは露に包まれていた。自分しか居ないのを確信して、よし、と内心頷く。が、他多数が中庭で食べるのを諦めたのと同様に、濡れたベンチを確認して校舎へ引き返す。
結局は、個室が最強だった。これこれ。最初からここに戻ってくればよかったのだ。変顔をしても、変な声を出しても、ここにいる限り、それが俺だと認識されることはない。──けれども、ちっとも食欲がわかないのは、この場所の本来の用途を意識してしまうからだ。きっとそう。
たかが同級生の視線に怯えたり、胃液が込み上げてくるような惨めさを感じたりは、しなくていい場所のはずで、であるから自分は、ここにいる限り安心すべきなのに。
何もいらない
乗り込むと真っ直ぐ後部座席へ向かう彼の背中を、追いかけるのを途中でやめた。一番後ろから二つ前、タイヤの分少し高い二人掛け。そこへ腰を落ち着けた彼の、呆気にとられた目に見つかったのは、斜め二つ前の座席に鞄を下ろした時だった。
「隣座らないの?」
天気予報と同じくらいの重みだった。
学校では互いに別の群れに属していて、それぞれの太陽を中心に回っている。(彼はどちらかと言うと、太陽の方だけどね)たまにだけ、軌道が交差することがある。今日がその日だった。
足並みを揃えて、同じ方向に進みはじめた時、同じバスに乗るということは──と考えたけれど。なんかそれは違うだろ、となって一つの座席を分け合うのを却下したのが冒頭だ。
ロマンチックな事情は一つもなく、また、二人の間にそれがもたげるのを期待している訳でもない。ということは、瞬きの間、たっぷりと黙りこんで考えている自分の方こそ変なのだろうか。
閉まる扉の空気が抜けるみたいな音に「じゃあ」なんて呟いた声がかき消されるのを感じながら、彼のいる席の一つ前に居場所を決めた。
二人を乗せたバスは、夕焼けで赤く染まる表通りを滑り出す。
届かぬ思い
約束のバーは半地下にある。レトロな店内に客は一人。カウンターに腰掛けて、ドリンクを揺らす。よく熟したオレンジのような色っぽいアッパーライトを受けて、きらめいていた。
しっぽり飲むという言葉がある。そうすべき時があるとするなら、自分の場合今なのだろう。けれど、ちっともセンチメンタルになれないのは、しばしば聞こえてくる喧騒にあった。
廊下を挟んで同じフロアにクラブがある。どうやら大掛かりなパーティが開催されてるらしく、これが喧しい。少なくとも三箇所から響いてる音楽。女の絶叫、ざわめき、何かガラスが砕ける音、怒号。極め付けには、サンバやら黒猫に扮した女たちが、しきりに廊下を行き来して──ああ、女見るだけで無理だ、今は。
「遅い」
隣に到着した気配を睨みつけた。すでにグラスは二回からにしていたし、良い加減情緒が迷子になっていた。
「ずいぶんまいってるみたいだし、見逃してあげたいけどねえ。お前はまだ早いだろ」
グラスを取り上げられる。代わりに差し出されたのは、ミルク。かっと何かが込み上げて──途端に虚しく窄んだ。
「あら、マジへこみ」
カマっぽくなった隣の呟きを無視して、ミルクを流し込んだ。酔えない夜は、まだ続く。
今日だけ許して
弟は合宿の準備で、先から母を専属召使いのように使っている。私はというと、明らかに「それが終わったら行くから待ってて」と言われた類の人間で、居間の片隅でソファに沈み込みながら、隣で寝ている犬と一緒に、時間の流れを他人事のように眺めている。
平和とはこういうものだ。やるべきことが、自分意外の誰かに降りかかっている瞬間。
夏の気配
給食に空気がでたのは、水曜日のことだった。冗談じゃなくて、本当に空気だった。献立は「白米・みそ汁・からあげ・空気」ってかんじで、おかず皿の隣に透明なパウチが膨らんでいた。「AIR」って書いてある。英語表記で、無駄にかっこいい。
「これは新メニューだ」と担任が言って、開けてみると割と良い匂いがした。すだちっていうのかな、カボスっていうのかな、とにかく、柑橘系だ。それだけでなく、ちゃんと食った感があった。
「うまい」と田中が言い、「健康にいい」と吉田さんがいった。
翌週にはテレビ局が取材にきて、また翌週には、給食は完全に気体化した。配膳はいらない。給食係はただの空気運搬係になった。
僕はというと、そろそろ息を吸うのが怖くなってきた。
まだ見ぬ世界へ!