スティーブ・R

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10/5/2025, 4:18:39 AM

 約束のバーは半地下にある。レトロな店内に客は一人。カウンターに腰掛けて、ドリンクを揺らす。よく熟したオレンジのような色っぽいアッパーライトを受けて、きらめいていた。
 しっぽり飲むという言葉がある。そうすべき時があるとするなら、自分の場合今なのだろう。けれど、ちっともセンチメンタルになれないのは、しばしば聞こえてくる喧騒にあった。
 廊下を挟んで同じフロアにクラブがある。どうやら大掛かりなパーティが開催されてるらしく、これが喧しい。少なくとも三箇所から響いてる音楽。女の絶叫、ざわめき、何かガラスが砕ける音、怒号。極め付けには、サンバやら黒猫に扮した女たちが、しきりに廊下を行き来して──ああ、女見るだけで無理だ、今は。
「遅い」
 隣に到着した気配を睨みつけた。すでにグラスは二回からにしていたし、良い加減情緒が迷子になっていた。
「ずいぶんまいってるみたいだし、見逃してあげたいけどねえ。お前はまだ早いだろ」
 グラスを取り上げられる。代わりに差し出されたのは、ミルク。かっと何かが込み上げて──途端に虚しく窄んだ。
「あら、マジへこみ」
 カマっぽくなった隣の呟きを無視して、ミルクを流し込んだ。酔えない夜は、まだ続く。



今日だけ許して

6/29/2025, 3:15:52 AM

 弟は合宿の準備で、先から母を専属召使いのように使っている。私はというと、明らかに「それが終わったら行くから待ってて」と言われた類の人間で、居間の片隅でソファに沈み込みながら、隣で寝ている犬と一緒に、時間の流れを他人事のように眺めている。
 平和とはこういうものだ。やるべきことが、自分意外の誰かに降りかかっている瞬間。
 


夏の気配

6/28/2025, 6:31:50 AM

 給食に空気がでたのは、水曜日のことだった。冗談じゃなくて、本当に空気だった。献立は「白米・みそ汁・からあげ・空気」ってかんじで、おかず皿の隣に透明なパウチが膨らんでいた。「AIR」って書いてある。英語表記で、無駄にかっこいい。
 「これは新メニューだ」と担任が言って、開けてみると割と良い匂いがした。すだちっていうのかな、カボスっていうのかな、とにかく、柑橘系だ。それだけでなく、ちゃんと食った感があった。 
 「うまい」と田中が言い、「健康にいい」と吉田さんがいった。
 翌週にはテレビ局が取材にきて、また翌週には、給食は完全に気体化した。配膳はいらない。給食係はただの空気運搬係になった。
 僕はというと、そろそろ息を吸うのが怖くなってきた。
 


まだ見ぬ世界へ!

6/27/2025, 6:50:28 AM

「奇跡って、意外と身近にあるもんだよな」
 いつだったか、街中で通りすがりに聞こえた誰かの言葉を思い出しながら、男はコンビニの前で缶コーヒーを買った。周りには何も特別なことは起きていない。ただ、明日になれば、少しだけ世界が変わっているかもしれないと思った。
 光に包まれている。輝くスポットライトが、男に注目して、スタジアムの大歓声が、彼を認めている。そんな夢から目覚めれば、貧相な飯を食って、間違いなく同じ道を通り、10時に最寄駅で同じ缶コーヒーを買う。観覧車のように完璧に整った空虚な生活が、明日こそ変わるかもしれない。実際には、根拠なんてないけれど、奇妙に確信しながら男は今日も同じ電車に揺られている。



最後の声

5/5/2025, 3:36:02 PM

 例えば蝶の羽ばたきが幽かな気流を生み出すように。
「水瀬くんの家、行ってもいいですか」
 ささやかな営みが、いかに連鎖し、人生において物事の至重たる分岐点になるとするならば、それは間違いなく今だと断言できる。
 大層に表現しておいて何が起こっているかと云われたら、ただ旧知の後輩に再会しただけで、ただ何気ない質問をされただけの事であった。それだけの事であるのだが、幽かな蝶の羽ばたきが乱気流となって自分の行く末を左右することを予感せざるを得ないのは、どうしてなのか。
「‥‥どうぞ」

 ある晩夏の穏やかな二時ごろである。都最大の殷賑街から、路地を一つ二つばかり挟んで横たわるネオン街は、真夜中の煌びやかさを潜める時間だ。通りかかる人の数々は自分のように近道とか、ここではない何処かへ向かう情調であり、軒を寄せ合うポルノチックな店々と不釣り合いな健全さがあった。だからか、オンボロい外観のそういうホテル(つただらけの看板には連れ込み宿なんてかいてある。全時代的だ)に差し掛かったとき、一人でてきた青年をいやに注目してしまった。
 演劇部の後輩だった。波がひいていくように、街の雑多音が、風のそよぐ音が、全てが一瞬無音になった後、今度は波が押し寄せるように記憶を打ちつけてきた。
「浬」
 ほぼ無意識だった。名前が蘇った瞬間、確かめるように声をかけていた。
 部長をしていたんだ。浬は副部長で、二人とも学級委員なんかに選ばれるタイプの性格じゃあなかったけど、部員が二人しかいなかったから。たった二人ぼっちで演劇なんて出来るわけなくて、約束した日に、気が向いた日に劇場に行くのが活動だった。名前を呼ぶと、こっちを見る時、一瞬散るように踊って耳を流れる黒髪を思い出したのは、それが今では金色に染まっているためであった。
「もしかして、浬?」
 振り向いた彼の少し驚いた表情を見て心臓の一番深いところがキンとした。感嘆の声をあげて「水瀬くん、久しぶり」なんて言って、くしゃりと歓喜を顔面で表現する浬が単純に嬉しかった。
「こっちきてたんですね」
「うん。めっちゃ最近、一週間くらい前にさ、引越してきたんだよね。一人暮らし」
「へえ、オレはね、今ここ住んでンの」
 浬はホテルを顎で指差して変わらない調子で言った。ふーん、って流すには衝撃的すぎて、水瀬の動揺をどう受け取ったのか「見た目は悪いけど、安いし快適なンですよ?」とからから笑っている浬はお風呂上がりの匂いがした。
 云うに云われぬ。彼がホテルから出て来たことに、ショックを受けているんだなあと気付く。海馬の隅で笑う浬が、つられて思い出した部室の埃っぽいチョークの匂いが、弾ける泡沫のようにあっけなく、目の前の浬と溶け合って見えなくなった。
 



手紙を開くと

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