例えば蝶の羽ばたきが幽かな気流を生み出すように。
「水瀬くんの家、行ってもいいですか」
ささやかな営みが、いかに連鎖し、人生において物事の至重たる分岐点になるとするならば、それは間違いなく今だと断言できる。
大層に表現しておいて何が起こっているかと云われたら、ただ旧知の後輩に再会しただけで、ただ何気ない質問をされただけの事であった。それだけの事であるのだが、幽かな蝶の羽ばたきが乱気流となって自分の行く末を左右することを予感せざるを得ないのは、どうしてなのか。
「‥‥どうぞ」
ある晩夏の穏やかな二時ごろである。都最大の殷賑街から、路地を一つ二つばかり挟んで横たわるネオン街は、真夜中の煌びやかさを潜める時間だ。通りかかる人の数々は自分のように近道とか、ここではない何処かへ向かう情調であり、軒を寄せ合うポルノチックな店々と不釣り合いな健全さがあった。だからか、オンボロい外観のそういうホテル(つただらけの看板には連れ込み宿なんてかいてある。全時代的だ)に差し掛かったとき、一人でてきた青年をいやに注目してしまった。
演劇部の後輩だった。波がひいていくように、街の雑多音が、風のそよぐ音が、全てが一瞬無音になった後、今度は波が押し寄せるように記憶を打ちつけてきた。
「浬」
ほぼ無意識だった。名前が蘇った瞬間、確かめるように声をかけていた。
部長をしていたんだ。浬は副部長で、二人とも学級委員なんかに選ばれるタイプの性格じゃあなかったけど、部員が二人しかいなかったから。たった二人ぼっちで演劇なんて出来るわけなくて、約束した日に、気が向いた日に劇場に行くのが活動だった。名前を呼ぶと、こっちを見る時、一瞬散るように踊って耳を流れる黒髪を思い出したのは、それが今では金色に染まっているためであった。
「もしかして、浬?」
振り向いた彼の少し驚いた表情を見て心臓の一番深いところがキンとした。感嘆の声をあげて「水瀬くん、久しぶり」なんて言って、くしゃりと歓喜を顔面で表現する浬が単純に嬉しかった。
「こっちきてたんですね」
「うん。めっちゃ最近、一週間くらい前にさ、引越してきたんだよね。一人暮らし」
「へえ、オレはね、今ここ住んでンの」
浬はホテルを顎で指差して変わらない調子で言った。ふーん、って流すには衝撃的すぎて、水瀬の動揺をどう受け取ったのか「見た目は悪いけど、安いし快適なンですよ?」とからから笑っている浬はお風呂上がりの匂いがした。
云うに云われぬ。彼がホテルから出て来たことに、ショックを受けているんだなあと気付く。海馬の隅で笑う浬が、つられて思い出した部室の埃っぽいチョークの匂いが、弾ける泡沫のようにあっけなく、目の前の浬と溶け合って見えなくなった。
手紙を開くと
蚊の発生防止に努めましょう!
ヤギの郵便屋さんは、毎週木曜日、よく晴れた日に現れる。〒マークの印象的な赤いバイクを震わせて、これまた〒マークの印象的な赤い銭鞄に誰かから誰かへの手紙を溢れさせて郵便函に現れる。
毎度のこと、熱中症防止だの献血に協力だの訴える暖簾をバイクのお尻にさしてるのが決まりだが、梅雨が明けて三週間ぶり、よく晴れた日に、郵便屋さんのバイクは蚊の発生防止をうたっていた。
君の声がする
人生最悪の日!
「取り敢えずおいで」
入学式が終わり、教室でのガイダンスも終わった、放課後、人通りのないアメリカンフットボール部の部室前で、可哀想に、ガリ勉坂本洋一は地面に固着したように突っ立っていた。
冒頭にちょっとカマっぽい言い方で洋一を呼んだ悪魔笹川隆二の手前、「おら」目つきを鋭くした舎弟佐野の一喝で、ハッとして洋一は一歩、二歩、部室の入り口をくぐった。
舎弟佐野は洋一が確か、クラスのガイダンスで見た顔だった。自分のクラスメイトなのだ。だが、入学初日に番長みたいな先輩と、校舎の中で煙草をふかすなんて、ヤバいやつじゃないか。クラス委員長をするようなタイプの洋一には到底理解できない。不良だ、ヤンキーだ。関わったらあかんやつら。
たじろいて洋一は「いや」とひねりだす。
「いや、あの、もう行かないと」
佐野の目つきがいよいよ手負の猛獣のようになるので、とうとう言葉尻が聞こえたのか分からないほど弱々しくなったが、あくまでも悪魔笹川隆二は笑顔だった。
「あはは、だめだめ。かわいいなお前、馬鹿まるだしでさ」武骨な腕が徐に箱から一本、新しいものを取り出す。銘柄が印刷してあるが、洋一にはそれが煙草であることしか分からない。
「見ちゃったんだからさあ、ね。いちおう、口止めってことで」
人生最悪の日!
受験当日、風邪をもらって、県内有数の不良高校に已む無く入学することに決まった悪夢の日々と同等に!
ありがとう
バスタブの中に死が眠っていた。
意味ありげに言い回しを気取った比喩ではない。一般的な心臓、肺、脳によって支えられている、生命維持の不可逆的な停止を指すあれのことではなく、四角い浴槽に背中を丸めて目を瞑る少年の名前が死であった。
死と共に暮らし始めて分かったことがある。死は極まって民族的嗜好で生き物を好いていた。街中に繰り出しては主人の隣を闊歩する犬を、死はいつも眩しそうに眺めるのだ。
透明な涙
雑居ビル、錆びついた非常階段の踊り場で、小さく欠伸をたらしながら、吐息が白くとりまくのを見て冬というものの到来を思い知った。上空から見える隘路の繋がる大通りは昨晩の雨のために濡れていて、冬朝は面白い。透明な太陽の光線を水滴に浴びて地面がきらきら白やむのだ。
愛情