:雪を待つ
雪を待つ2023/12/16より加筆修正
12/7 大雪
二十四節気の一つ、大雪がやってきた。この時期になると彼のことを思い出す。僕にはとても大切な人がいた。きっと“大雪”も“大切”もどちらの読みも“たいせつ”だから関連して思い出してしまうのだ。
彼は明るく気さくな人柄で、僕にとって陽だまりのような存在だった。金色の髪を揺らして楽しそうに歩く姿をいつまででも眺めていられたし、傍にいながら眺めているだけで僕はとても幸せな気持ちになれた。
陽だまりのようだと形容したが、彼の奥深くに少しだけ触れたとき、決して柔らかくはないし穏やかでもないことを僕は知った。独特の感性と調子で生きている、どこか掴みどころのない人だと思った。「独特」とか「感性」でくるりと纏めてしまった当時の僕は想像力が足りていなかった――とはいえ物事をいくら多角的に見られていたとしても、彼の思考を完璧に理解するのは不可能だったと思う――のだ。
当時の彼はどれだけ仲の良い人とでも常に一定の距離を保ち、一定の場所に留まらない人だった。今彼がどこにいて何をしているか、皆口を揃えて「分からない」と言い、それは僕もであり、誰一人今の彼を知る術を持っていない。
大雪が降ったあの日、僕があんなことをしなければ彼はまだここにいたかもしれないと、もしもの世界を夢想する。
彼は誰とでも一定の距離を保つ、それが嫌だった。あの感情と言動は僕の一方的な押しつけで、エゴであった。自身の欲求を満たしたいがために踏み越えた。
2年10ヶ月前のあの日、大雪で辺り一面真っ白になって、人も音も何もかもが消えた日、僕は「二人きりの世界だ」なんて陳腐なことを思ってきっと舞い上がっていたのだ。肩を並べて談笑したのがあまりに心地良くて、勢いのまま連絡先を尋ねてしまった。付かず離れずの距離から一歩先へ進みたくなったのだ。緊張はした。しかしどこかで、ここまで楽しく会話をしてくれるのだから彼も心を許してくれているだろう、きっと答えてくれるはずだと呑気に考えてもいた。いつもは明るく太陽みたいに笑う彼が、珍しく眉を下げて困った顔をしてヘラりと笑った。太陽みたいな君が、懸命に輝く小さな星のように見えた。だから――今思えば脈絡がなく意味不明だが――思わず手を握ってしまった。僕自身おかしいと思う。困った顔をしていたのだから、きっと嫌な気持ちになったのだろうと僕は思えなかったのか――――ああ、思った。なぜなら彼は今直ぐにでも逃げようとするみたいに足に力を入れたから、きっと君は嫌なのだろうな、と、思った。思った上で自己を優先させた。反射的に手が伸びてしまったというのはただの言い訳だ。僕はなんとしてでも逃したくなかったのだ。
触れた彼の手は雪のように冷たかった。単なる冷え性なのか、ストレスによって手先が冷たくなっていたのか。
「ごめん、連絡先、教えたいとは、思ってたんだ」。彼は困った顔のまま曖昧な笑みを浮かべ、声は泣いているときみたいに震えていて、足は直ぐに逃げる準備をしていて。僕が握っていた手は、震えることなくしっかりと僕の手を握り返していた。
君、嘘ついたね。そう言おうとして、やめた。
大雪だった次の次の日、彼は忽然と姿を消した。
2/6 霙るる
先程まで雪だったものが徐々に霙に変わってきた。硬い粒が頭上を叩き、肩を叩き、バチバチ音を立てている。水気を含んだコートが重力に引っ張られてどんどん重くなっていった。心なしか彼も意気消沈している。
「靴の中がぐしょぐしょだ」
言いながら片足を上げてみせた、その仕草が愛らしくて思わず口元が緩んでしまった。何度も自分自身に、この幸せな時間は今だけ、今だけ……と刷り込ませるように頭の中で唱えた。分かっていたのだ。こんな幸福は長く続かないということを。
彼が風邪を引いてしまってはならないから、僕はチクりと胸を痛めながら言った。
「それじゃあ早く帰らなくてはね」
濡れた手で彼の手を取った。冷え切って震えた手と手。二人分の体温を分け合って温かく熱を帯びていく。手に当たる霙が体温で完全に液体となり、指と指の間を伝ってぬるくなり、結んだ二人の手の中に溜まる。
頭も体もぐしょぐしょに濡れて震えが止まらないというのに、繋がった手が、心があたたかかった。
「手を繋いでいると寒くないな」
満面の笑みを向けて、鼻先を真っ赤に染めて、そう言う君が、僕は本当に。本当に君と。言いたくなっては胃の中に押し込んだ。今だけ、噛み締めている。そう何度も言い聞かせた。
「溶け合っているみたいだ」
彼はそう言ってやっぱり眩しく笑った。潤んだ瞳を隠すように目を細め、今にも雫が溢れそうになっている。
――――ああ、濡れて皺の寄った靴下が気持ち悪い。
そう思った。
雨は雪となり、次第に霙となるならば、涙も霙になってしまえば良いのに。涙が霙になれば、こんなにも痛い霙になれば、君だって気づいてくれるんじゃないのか。またそんなことを思った。
繋いでいる。君を繋いでいる。こんなにもあたたかいのに、春は来るのだろうか。
今だけ、今だけだ。
柔らかなものも凍ってしまう冬に僕達も凍りついてしまえば良いのに。
今だけ、繋がっている。
2/10 粉雪
同じ人と長く関われば関わるほど考え方が凝り固まってしまうらしい。居心地が良すぎると安心してしまって、冒険しなくなる、少なくとも自分はそうだと彼は言った。ふらふら彷徨っているのが心地良いと、同じ人とずっと一緒にいるのが怖いと、辺りに視線を向けて何かに怯えながらそう言った。僕はどう怖いのか、何が怖いのかを尋ねた。
「『とても素敵な人と出会えて幸せなはずなのに、どうしてもその人と一緒に死にたくなってしまう、その願望が抑えきれない恐怖』に近いだろうか」
そう言ってにっこり笑った。
「仮にこの感情を心中と名付けるとしよう。心中を望んではいるが実現させたいとは思っていない。まだ、生きて、楽しいことを見つけて、穏やかに過ごしたい。移り変わる四季をまだ堪能していたい」
彼は嘘をついた。
徐々に異様な空気を纏ってきているのを感じてはいた。一緒にいられるのもここまでで、もう潮時なのだろうと僕も諦めがついて――はいないがそういう体で――いる。
彼は話を逸らすように窓の外を見た。
「あ、雪だ。見に行こう」
太陽みたいに笑った。童心を忘れない輝きを持っている君。キラキラ綺麗だったから、手を繋いでしまいたくなった。
2月にしては珍しく大雪だった。この雪の先を行けば彼がいなくなるような気がした。雪に紛れて、或いは雪に埋もれて、或いは吹雪に隠れて。お別れの挨拶も無しに僕の前からいなくなる。そんな気配がした。
曖昧に終わらせようとしているのだ。それもありだといっそ思った。雪が手のひらで溶けるように、海の上に染みていくように、曖昧にぼんやり終わらせようとしている。充実した毎日だと思っていたけれど、案外ぱっと消えるようなひとときなのかもしれない。さよならした後はじんわり染みる寂しさが心に巣食うのだろうと思っていたが、それも案外ないのかもしれない。雪のように……いいや、もっと軽く小さな粉雪みたいに、音もなく消えるのだ。彼もきっと。
「出会えてよかったって思ってるんだ」。そうだ、そうだった。その一言で一気に思考が散り散りになって、勢いのまま連絡先を聞いた。
11/30 冬隣
雪を待っている。僕にはとても大切な人がいた。陽だまりのような金の髪をした彼。雪のように消えた彼。3年9ヶ月経ったって忘れもしない。寂しさが染み付いて心に巣食っている。
12/7 大雪
雪を待つ。美しく、触れれば冷たく、時間が経てば溶けてしまう、そんな雪を待っている。彼は雪ではないけれど、雪は彼の一部だ。一部でいいから触れていたい。冷たい手を覚えていたい。
1/30 寒梅
積もった雪の上に突っ立ってぼぅとウメの木を眺めていた。雪をかぶった梅花があちこちで咲いている。小ぶりの花は今にも雪に埋もれてしまいそうで心許なく感じられるが、殺風景な僕の心には派手すぎず丁度良い。
ヒョウヒョウと吠える北風が耳と頬にあかぎれを作り、足先が冷え切って感覚が無くなっていく。木の色、梅花の紅色、一面雪の三色だけの世界。から、ふらり、きらきら。明るい金色、木の影から現れた。
僕はこれを完全に夢か幻か何かだと思っていたもので、自傷気味に「つかれてるんだな」と呟いた。途端そこに現れた金髪の人がくるりと振り返って僕を見たから驚きのあまり心臓が止まるかと思った。叫び出しそうになるのを必死に堪え、飲み込み、そっと息を吐く。吐いた息が白く吹き上がっていく。すると彼も僕と同じように目を見張って、真っ白な息を吐いた。彼はギュッと目を閉じ、それから開き、また緩慢なまばたきをして呆けた顔でこちらを眺めてくる。
なぜこんな所にいるのだろう、夢なのだろうか、だって都合が良すぎる、夢に決まっている、そうだ、夢だ、これは。
何度見ても忽然と消えてしまった彼にしか見えず、夢だ夢だと思っておきながら現実かもしれないと確信に近い期待をしていた。そして同時に、やはりどこかで都合の良い幻覚を見ているのだと思った。とうとう脳が変になったのかもしれないとか、ウメを見ている間に実はあっさり死んでいてここは死後の世界であるとか、また布団の中であんなことをしなければ彼はまだここにいたかもしれないのにともしもの世界を夢に見ているだけなのかもしれないとか、この際どうだっていい。
「きみ」
震える声で呼びかけながら一歩雪を踏みしめた瞬間、彼はパッと顔を輝かせ、かと思えばふわりと綻ばせ、さくりさくりと雪を踏み分けながらこちらへ向かって来る。
「お前を、探してたんだ、ずっと……会いたかった」
心臓が跳ねる、跳ねる。銀世界に輝く金の髪が眩しいと思った。
掴んだ彼の手は、冷たかった、気がする。
逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい。
笑われたくない、笑われたくない、笑われたくない。
「これだからお前みたいなやつは」。投げ捨てられたくない。投げ捨てられないような優秀にもなれない。
逃げたい、逃げたい、ガタンゴトン、ガタンゴトン。
繋がらない、繋がらない、繋がらない、繋がらない。
心と心繋がらない。繋がらない、ぷっぷーぷぷぷ。
心と心、泣いてるみたい、しょぼしょぼおめめ。
心臓と首が。首と頭が。心と心。切断面。
頂きます、頂きます、頂きます、いただきません。
逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい。
ぱらりらぱらりらりらりらら、ぷっぷーぷぷぷ。
「好きなだけ泣いてしまえばいいんじゃないかな」と背を撫でつつ「泣かないでほしい」なんて思っている僕は、きっと君が望んでいるような僕ではないんだろう。
君のことを恨んだり憎んだりなんて有り得ないよ。君の幸せを願っている。涙を流すことなく笑って過ごせるような未来がいつか君に訪れてほしいと思っているよ。
でも君は僕に恨まれ憎まれたいのだろうし、裁いてほしいのだろうし、君の幸せを願うことは僕自身を蔑ろにすることと等しくて、それを君は認められずにいる。
僕は君を傷つけたいわけじゃない。でも、願いは叶えてあげたいよ。寄り添うにしても、君が納得いく形をとらないと傷口に塩を塗ることになってしまうから慎重に。
そうして出来上がっていった僕にそんなことを願うなんて、やっぱり君は 仕方がないな。
そんな君に付いていったのは僕だ。
――――あ。
僕だ。
散々あらゆる人を踏み潰してきたのは。
今更、一人くらい 僕の罪状は変わらないだろうか。
駄目だ、できない、それはできない。君のことが大事だから、だから今までずっと、散々、隣に。
――――そうか。君はもう耐えられないんだね。誰かに怒りを向けてもらうことでゆるされたくて、それで清算してしまいたいんだ。でも話せば話すほど同情されてしまって誰も憎悪を向けてくれない。ああ、なるほど、それで困っていたところ、僕に白羽の矢が立ったわけだ。
そうか、そっか。
わかった。
そんなに切望するなら、できるだけ君が苦しむことがないように早く終わらせてやる。
「好きなだけ泣いてしまえばいいんじゃないかな」と背を撫でつつ「泣かないでほしい」と思っている僕は、きっと君が望んでいる通りの僕だ。
泣かないで。涙が薄くなるくらいまで君には回復してもらわないと、泣き止むくらい立ち直ってもらわないと。
「大丈夫だからね」と優しい言葉を吹き込んで「君は悪くないんだよ」と何度も言い聞かせ「僕は君のことを想ってるから」と甘い言葉を囁く。
大丈夫、痛みは最小限だ、身を任せて。
大丈夫。君は悪くない。誰も悪くなかったんだ。みんな正しくなくて、みんな間違ってなかったんだ。誰も苦しまなくていいんだよ。君も苦しまなくていい。それに僕は、君のことを大切に思ってる。
だから、ちゃんと、君を。
君は一瞬打撃を受けるだけでいい。この打撃さえ、この傷さえ深く負ってくれれば、これだけで済む。
信頼していた人から、自分のことを大切だなんだと言ってくれていた人から、寄り添ってくれていた人から冷たく見放されると裏切られたような心地になるだろう。
僕はちゃんと君のことを突き放せただろうか。
……大丈夫そうだ。だって君、その顔、ああ良かった。ちゃんと傷ついてくれたみたいだ。
あまりの絶望感に心の機能が停止するから君、は、今後何かを感じることはない。喜びも、怒りも、悲しみも、きっと痛みも、得ることはない。
今楽にしてやる。ね、痛くないって、言っただろう。
泣かないで。泣くということは心が残っている証拠だ。僕は徹底的に君の心を踏み潰さなければならない。君の願いを叶えるために。そのためにこうしているのだから。
「泣かないで」
僕はこんなところで留まるわけにはいかない。今までと同じように、踏み潰してしまわなければ。
「泣かないで」
僕の心も、今までと同じように踏み潰してしまわなければならないのに。
「泣かないでくれ」
ぼくは 泣いてなんかないよ。
――――僕だ。裁かれたかったのは、僕だ。
「泣くほど想ってくれている人に、こんな酷いことさせられない。すまない、すまなかった。もう一度、やり直そう。きっとお前となら……」
そう言って微笑みかけてくれる。やっぱり君は なんて素敵な人だろう。
根底にあったのは自己犠牲なのか、それとも自己救済だったのか、僕は未だ計りかねている。
だってこんなに愉快だ。腹の底から笑いが込み上げて来る。咳き込むまで延々と笑っていられた。きっと僕の内臓はぐちゃぐちゃだ。
ああ、良かったな。あの人の心が少し残っていて、泣いている人がいたら慰めようとしてしまう優しい君で良かった。ああ、本当に、まんまと策にはまってくれて良かった。君の絶望は傑作だった。
君の幸福を願っている。
美しい、美しいな。
美しいから、どうかそのまま冷凍されてほしい。凍りついて、そのまま目覚めないで、美しいままでいて。
冷凍焼けのにおいがした。
「私にだって『いっそ殺してくれ』と叫び出したくなる瞬間ありますよ。お風呂に入っているときやお茶を飲んでいるとき、過去にやってしまった数々をふと思い出すんです。
当時の私は今よりもっと幼稚で、人の心を大量に傷つけてきました。酷いことを言ったしやった。大してその人のことを大事に思っていたわけでもないのに、その人と一緒に居ました。友情でも恋心でも私に心を傾けてくれる人たちがいることは素直に嬉しいと思っていました。それと同時に心底気持ちが悪かった。だから『いいように使おう。この人たちはただの都合のいい人だ』と思い込もうとして、相手の気持ちからも自分の気持ちからも目を逸らして、卑怯な気持ちでその人たちと関わって、その人たちの気持ちを弄びました。酷く傷つけたであろうことに今更気づいては、申し訳ないと思うことすら烏滸がましく感じ、とにかく後悔の念に押しつぶされて叫び出したくなります。
今更だなんて嘘ですね。当時から気づいていました。きっとこれは相手を傷つける行為だと。気づいていながらやめなかった。私は私を守ることを最優先した。……正当化したいわけではありません。自分を守ることは大事なことですが、私が取った選択は悪手でした。一番最悪な方法で身を守った。あれは間違いだった……間違いでしたよね、貴方もそう思いませんか?
『後悔できるということは成長しているということだろう。失敗から学びきっと今はより良くなれているはずだ』と前向きに捉えようと思えばできるでしょう。しかし実際にやったという事実は変わりません。傷つけたということも、傷ついた人が存在しているということも、変えようのない事実です。悪いことは悪いことのままです。
何を言ったって自分自身、言い訳にしか聞こえないと思ったりもしますよ。
人を傷つけてきたし、人に傷つきもしてきました。人生ってそういうもんなんだろうなと思ったりもします。後悔して反省して失敗から学び、より良くなっていくしか成長の方法はないとも思います。だからって自分がしたことを正当化したいわけでもなく、やってしまったという痛みを感じることで贖罪とさせていただきたい……と思ったり。贖罪だなんてちょっと大袈裟な言い方かもしれませんが、本当に、そんな気持ちで。
少しでもより良い人になりたいと思います。過去の自分よりより良くなって、できるだけ多くの人を傷つけることがないような人になりたい。
過去を思い出すとその度にこうやって懺悔したくなります。『自分が赦されたいだけだろう!』と言われたら言い返しはできませんよ。実際私は赦されてしまいたい。できるならなかったことにしてしまいたいと思う。幼かったから、無知だったから、だから仕方がなかったよねと……しかし本当に赦されたなら、本当になかったことにされてしまったら、私はもう太陽の下で生きてはいけません。誰にも顔向けできません。
駄目なことは駄目なことです、悪いことは悪いことです。それをなかったことにはできません。だって、自分が傷つけた人たちを二度も三度も蔑ろにすることになってしまう。
こんなことすら自己満足なのかもしれません。相手がどう思っているのか分からない、知らないというのに、勝手に相手のことを想っているだなんて、傲慢以外の何物でもない。しかも今更。私にできることなど無いに等しいというのに。エゴの塊のようなものです。
…………じゃあ、当時の私の心は、一体誰が守ってくれたというのでしょう。相手の好意を甘んじて受け入れなければならなかったのですか、私は……いいや、違う、違うんだ、違う、そんなこと言うならお前がそいつらと離れたら良かっただけの話なんだ、私が、あの子達から離れればよかっただけのことで、ああ嫌だ、嫌だ、私ばかりが加害者になんてなりたくない、どうして、どうして!!『好き』だなんて気色の悪い暴言を吐いたあいつらも悪いじゃないか!!!!私の親切心を勝手に友情や恋心に変換し!!私の心を踏み躙ったのはあいつらじゃないか!!!!……あぁ、いやだ……いやだ……『正当化したいんだろう』そうに決まってるだろう畜生が!!『化けの皮が剥がれた』なんて、あぁ……ああ、そうだ、化けの皮をはがしてくれる人をずっと探していた、事実だけを淡々と処理してくれる貴方のような人を、傍観者の貴方をずっと探していた、どうか私のことを引っ掻いて、傷口を消毒して、絆創膏を貼って、どうか、淡々と作業をこなしてほしい、もう、嫌だな。
嫌だな、ほんとう、困っちゃいますね。私がやったことは悪いことです。人の好意を無下にするだけでなく弄んだ。その事実、私に非がある。それは覆しようがないんです。相手からの好意に寒気がしようと、家に帰ってゲボゲボいってようと、胎児のように丸まって脱力していようと、それは、相手には関係ないことだ。相手はただ私を好きでいてくれているだけでした。事実、暴力を振るったわけでも、暴言を吐いたわけでもないんです。それに私も人に好意を持ってもらえて確かに嬉しいと感じましたから。それでも『暴力を振るわれ暴言を吐かれた』と受け取ったのは、認知の歪んだ私だ。私がいくらどう言おうと、人は皆、相手に非はないと判断を下す。当たり前です。
それが嫌なわけではありません。ああ、嘘だ、嫌ですよ。味方が一人もいないのは辛い。でも、人の気持ちに漬け込んだのは、紛れもなく私です。相手と同じことをしている。
……?相手と同じことをしているなら、相手も反省すべきでは?どうして私だけが責められるのですか?相手はそんなつもりがなくとも私の心を踏み躙った。私もそんなつもりはなく相手の心を踏み躙った。どっちもどっちじゃないですか?私は、相手が私のことを好きだというから、その通りに振る舞ってあげただけです。何がいけなかったんですか?相手は喜んでましたよ。相手の望む通りに振る舞って、満足させてあけだじゃないですか。お駄賃を求めたりなんてしていません。ただ、望むように振る舞った。……なんで?
嫌われるのが怖かったから?
……でも、相手がもっと踏み越えてきた瞬間、それはNGだって言った。お前のことなんて好きでも何でもないんだから踏み越えてくるなと言っただけ。そうしたら傷ついたらしい。踏み越えてさえ来なければ私はずっと、求められるまま、現状維持を続けていたのに。好きを向けられることに吐きそうでも、好きだと思われていることを知る前の私の状態で接していたのに、どうして?踏み越えてくるほうが悪いのに、どうして私が『弄んだ』って言われるのですか?私はただ普通の知り合いくらいで接していたかっただけなのに、勝手に特別視されて、勝手に寄ってこられて、勝手に幻想を抱かれた、被害者じゃないですか。……好意を抱くのは勝手ですが、それを相手にぶつけて挙句見返りを求める相手の方が余程傲慢じゃないですか。私はその傲慢さに反吐が出そうになりながら必死で応えた。それがいけなかったのですか。求められるから応えなければならないというある種の強迫観念に駆られながら、それでも必死で今までの距離を保とうとした私が、悪だと?
だから、だから、だからだからだから!!!!最初からこっぴどく切り捨てられなかった中途半端野郎だったから!!だから結果的に弄んだってことになっちまったんだろうが!!!!じゃあ!!だったら一番最初に!!私に好意なんて抱いた奴らが悪いんだろ!!!好きという暴言を吐かれて脅された!!だから親切にしてないともっと怖い目に合うと思った!!だから自分の身を守るために相手に合わせて今まで通り親切にせざるを得なかっただけ!!!心に刃物向けられてそれでも立ち向かえって言うのかよ!!!それもお前の認知の歪みだろ!!!?
………………ごめんなさい、取り乱した。違う、取り乱しました、すみません。
私がおかしいんです。分かっています。きっと相手もこんな、とんだメンヘラ野郎なんかを好きになってしまって、不幸な方々です。どうしてこんな厄介な人間に魅力を感じてしまったのでしょうか、本当に目が節穴ですよね。じゃなくて、目が澄んでいらっしゃる。私が厄介な人間だと思わない、綺麗なおめめをしていらっしゃる。ああ……早く潰れてしまえばいいのに……じゃなくて……悪い人に騙される前に……でもなくて、騙したのは私なんでしたよね。
ぶ、あはははははは!!馬鹿だなあ本当に!どいつもこいつも!!!!特にお前だよクソが。
…………あ、違います、違うくて、そう、ごめんなさいね、はは、あっはっは!!……はぁ。『お前』って、私自身のことですよ。わざわざ訂正しなくても良かったですね、貴方は、言われなくても分かってるのに。……そら、そうだ。
いいや、本当に『お前』という生き物に対してかもしれない。
好かれることは嬉しいことで、殴られて痛めつけられて心の底から喜ぶ人のほうが少ない。当たり前ですよね、ほんと。
……?私は、殴られるのは嫌ですし、怒鳴られるのも嫌です。「ごめんなさいもうゆるしてください」と泣いて縋りたくなるほど嫌です。でも、少しだけ、ほっとします。人から好かれると、少しだけ嬉しいと思いますし、少しだけ有り難いなと思います。でも、怖くて、ブルブル震えて「ごめんなさいもうゆるしてください」とみっともなく泣いて許しを乞いたくなります。好かれることは、殴られることと同じくらい、痛くて恐ろしくて、嫌で、少しだけ、嬉しくて、ほっとして、ゲボりたくなる。
………………この話、なかったことに――――は、できないんでしたね。自分でそう言ったのに、すっかり忘れてました。それで、なんでしたっけ。もう、自分が何を…………。
このお茶美味しいですね。何茶ですか?黒豆茶?あ、普通の麦茶?あれ、これってただの水だったりしますか。そもそも私何も飲んでいませんよね。……ちょっと休憩してきます。
先程の話の続きなんですが『傷つけられた側の痛みなんて本当には分かっていないくせに』と言われたらそれも言い返しはできません。私が傷つけたと思っているものと、実際相手が感じている傷が、同じであるとは限らないし、同じだとも思えない。相手の痛みや苦しみがどれほどのものなのか私には計り知れない。本当に分かるとは言えない。私がやったことなのに、私がやったことでも。『分かるよ』なんて言ってしまえばそれこそ傲慢じゃないですか。
『人を傷つけた痛みなんて本当は分かっていないくせに』と言われても、私は否定できません。この痛みが本当の痛みなのかどうか私にも分からないし、相手も私の気持ちが『本当』かどうかなんて分からない。証明もできません。本当に分かっているのか分かっていないのかすら、私達はお互い、分からない。
だからどうか、この後悔という痛みが、せめてもの償いになっていればと願うばかりなんです。
………なにか、おかしなことを言ってしまっていますか?それなら今すぐ訂正します。って、それじゃ意味ないんでしたよね。……そもそも訂正箇所も分からない。
あれ、じゃあ、お前は私の気持ちが分かるというのか?私の気持ち、分かるのか。お前は私を傷つけたという認識をしているのか?それだけ私を問い詰めるなら、お前はお前の罪をさぞ自覚しているんだろうな?なぜお前は相手ばかりを責められると思っている。私は私の非を認めた。お前はお前の非を認められるか?認めず相手を責めるばかりか?他者ばかりを責める資格がお前にあるのか?お前に非は、一つもないと言い切れるのか?これだけ私は傷ついているというのに?お前だよ、お前。お前自身だ。
何の話でしたっけ。これ。
自分で話した内容すら覚えてないんです。私はさっき、なんと口走っていましたか。ごめんなさい、全部忘れて。忘れないで。私の言葉に嘘偽りはない。嘘だ。そんなわけない。ごめんなさい、ゆるしてほしい、ゆるさないで、赦されないということを許してほしい。やっぱり全部嘘です、ごめんなさい、ごめんなさい、ぅ、ごめんなさい、まともに考えられない、ゆるして、わからない、しりたくない、罵らないで、いっそ罵倒して、嫌だ、もうゆるして、痛いよぉ、もうやだ、やだよ、生きてられない!!!!
――――――あ。ごめんなさい、きっとこれもただのテンプレートです。気にしないで、続けてください。じゃなくて、あはは!続けるかどうかは私にかかってるのに、ほんと何言ってるんでしょうかね。
私は私が悪かったと思っているし、これっぽっちも悪くないと思っていますよ。相手も同じです。全面的に私が悪くて、全面的に相手が悪い。でも私も相手も悪くありません。だって、未熟だったんですから。生きている限り人と人との衝突は避けられません。未熟故に傷つき合う生き物、それが人間でしょう。それに対してグダグダ言ってたって意味ないんですよ。生きている限り避けられないことに文句を言って、ああ、本当に。……なんと言うべきでしょうか。馬鹿?愛おしい?可愛らしい?愚か?
それでも人間をやめられないのだから、何を言ったって辛いだけだ。
お茶、美味しかったです。ご馳走様でした」
君の話を聞いて私は美しいと思った。私の心は抉られるような痛みを伴い、眼球は潰れた。強烈に光り輝く何かに見えた。ただ君が美しかった。
だからどうか冷凍されてほしいと願った。凍りついて、そのまま目覚めないで、美しいままでいて。そう願った。
君のその感性を偽らずありのままの状態で太陽の下を歩いてしまえば、君はきっと生きていけない。もう既に死んだ方がましかもしれない。何故なら君の頭の中と心の中は歪みきって混沌とした地獄だったから。それだけ“美しい”のだから。
地獄そのものが美しいのか、地獄に耐え、それを抱えながら生きている君が美しいのか、解釈は何でもいい。私は君が美しいと思った。
だから冷凍した。
そんなことすっかり忘れて、久々に冷凍庫を漁ったら君が出てきた。もったいないから電子レンジで温め解凍しようと思って袋から取り出した。目の下に涙が流れた跡が残っていて、君は冷凍庫に押し入れられたとき泣いていたのかな、なんて思いを馳せた。
きっとずっと寂しかったんだろうね。君はただ、寂しかっただけなんだよ。寂しくて、悲しくて、誰にも理解されない孤独に苛まれて悶え苦しんだ。
可哀想に。
無情ながらにそう思った。それとも、無情だからそう思ったのかもしれない。
袋から取り出した君を見詰めていると、なんだか可哀想に思えて、それから愛おしく思えた。だからなんだか抱き締めたくなって、腕で包んで頬を寄せた。
冷凍焼けのにおいがした。
私が“美しい”と形容する君のにおいだ。
何も考えたくないということを考えている。
眠って眠って眠っていれば考えなくて済む。
眠りたい。寝ればいい。心音が気になる。
暑い、寒い、喉が渇いた。
何も考えたくない。