雪を待つ2023/12/16より加筆修正
12/7 大雪
二十四節気の一つ、大雪がやってきた。この時期になると彼のことを思い出す。僕にはとても大切な人がいた。きっと“大雪”も“大切”もどちらの読みも“たいせつ”だから関連して思い出してしまうのだ。
彼は明るく気さくな人柄で、僕にとって陽だまりのような存在だった。金色の髪を揺らして楽しそうに歩く姿をいつまででも眺めていられたし、傍にいながら眺めているだけで僕はとても幸せな気持ちになれた。
陽だまりのようだと形容したが、彼の奥深くに少しだけ触れたとき、決して柔らかくはないし穏やかでもないことを僕は知った。独特の感性と調子で生きている、どこか掴みどころのない人だと思った。「独特」とか「感性」でくるりと纏めてしまった当時の僕は想像力が足りていなかった(――とはいえ物事をいくら多角的に見られていたとしても、彼の思考を完璧に理解するのは不可能だったと思う)のだ。
当時の彼はどれだけ仲の良い人とでも常に一定の距離を保ち、一定の場所に留まらない人だった。今彼がどこにいて何をしているか、皆口を揃えて「分からない」と言い、それは僕もであり、誰一人今の彼を知る術を持っていない。
大雪が降ったあの日、僕があんなことをしなければ彼はまだここにいたかもしれないと、もしもの世界を夢想する。
彼は誰とでも一定の距離を保つ、それが嫌だった。あの感情と言動は僕の一方的な押しつけで、エゴであった。自身の欲求を満たしたいがために踏み越えた。
2年10ヶ月前のあの日、大雪で辺り一面真っ白になって、人も音も何もかもが消えた日、僕は「二人きりの世界だ」なんて陳腐なことを思ってきっと舞い上がっていたのだ。肩を並べて談笑したのがあまりに心地良くて、勢いのまま連絡先を尋ねてしまった。付かず離れずの距離から一歩先へ進みたくなったのだ。緊張はした。しかしどこかで、ここまで楽しく会話をしてくれるのだから彼も心を許してくれているだろう、きっと答えてくれるはずだと呑気に考えてもいた。いつもは明るく太陽みたいに笑う彼が、珍しく眉を下げて困った顔をしてヘラりと笑った。太陽みたいな君が、懸命に輝く小さな星のように見えた。だから(今思えば脈絡がなく意味不明だが)思わず手を握ってしまった。僕自身おかしいと思う。困った顔をしていたのだから、きっと嫌な気持ちになったのだろうと僕は思えなかったのか――――ああ、思った。なぜなら彼は今直ぐにでも逃げようとするみたいに足に力を入れたから、きっと君は嫌なのだろうな、と、思った。思った上で自己を優先させた。反射的に手が伸びてしまったというのはただの言い訳だ。僕はなんとしてでも逃したくなかったのだ。
触れた彼の手は雪のように冷たかった。単なる冷え性なのか、ストレスによって手先が冷たくなっていたのか。
「ごめん、連絡先、教えたいとは、思ってたんだ」。彼は困った顔のまま曖昧な笑みを浮かべ、声は泣いているときみたいに震えていて、足は直ぐに逃げる準備をしていて。僕が握っていた手は、震えることなくしっかりと僕の手を握り返していた。
君、嘘ついたね。そう言おうとして、やめた。
大雪だった次の次の日、彼は忽然と姿を消した。
2/6 霙るる
先程まで雪だったものが徐々に霙に変わってきた。硬い粒が頭上を叩き、肩を叩き、バチバチ音を立てている。水気を含んだコートが重力に引っ張られてどんどん重くなっていった。心なしか彼も意気消沈している。
「靴の中がぐしょぐしょだ」
言いながら片足を上げてみせた、その仕草が愛らしくて思わず口元が緩んでしまった。何度も自分自身に、この幸せな時間は今だけ、今だけ……と刷り込ませるように頭の中で唱えた。分かっていたのだ。こんな幸福は長く続かないということを。
彼が風邪を引いてしまってはならないから、僕はチクりと胸を痛めながら言った。
「それじゃあ早く帰らなくてはね」
濡れた手で彼の手を取った。冷え切って震えた手と手。二人分の体温を分け合って温かく熱を帯びていく。手に当たる霙が体温で完全に液体となり、指と指の間を伝ってぬるくなり、結んだ二人の手の中に溜まる。
頭も体もぐしょぐしょに濡れて震えが止まらないというのに、繋がった手が、心があたたかかった。
「手を繋いでいると寒くないな」
満面の笑みを向けて、鼻先を真っ赤に染めて、そう言う君が、僕は本当に。本当に君と。言いたくなっては胃の中に押し込んだ。今だけ、噛み締めている。そう何度も言い聞かせた。
「溶け合っているみたいだ」
彼はそう言ってやっぱり眩しく笑った。潤んだ瞳を隠すように目を細め、今にも雫が溢れそうになっている。
――――ああ、濡れて皺の寄った靴下が気持ち悪い。
そう思った。
雨は雪となり、次第に霙となるならば、涙も霙になってしまえば良いのに。涙が霙になれば、こんなにも痛い霙になれば、君だって気づいてくれるんじゃないのか。またそんなことを思った。
繋いでいる。君を繋いでいる。こんなにもあたたかいのに、春は来るのだろうか。
今だけ、今だけだ。
柔らかなものも凍ってしまう冬に僕達も凍りついてしまえば良いのに。
今だけ、繋がっている。
2/10 粉雪
同じ人と長く関われば関わるほど考え方が凝り固まってしまうらしい。居心地が良すぎると安心してしまって、冒険しなくなる、少なくとも自分はそうだと彼は言った。ふらふら彷徨っているのが心地良いと、同じ人とずっと一緒にいるのが怖いと、辺りに視線を向けて何かに怯えながらそう言った。僕はどう怖いのか、何が怖いのかを尋ねた。
「『とても素敵な人と出会えて幸せなはずなのに、どうしてもその人と一緒に死にたくなってしまう、その願望が抑えきれない恐怖』に近いだろうか」
そう言ってにっこり笑った。
「仮にこの感情を心中と名付けるとしよう。心中を望んではいるが実現させたいとは思っていない。まだ、生きて、楽しいことを見つけて、穏やかに過ごしたい。移り変わる四季をまだ堪能していたい」
彼は嘘をついた。
徐々に異様な空気を纏ってきているのを感じてはいた。一緒にいられるのもここまでで、もう潮時なのだろうと僕も諦めがついて(はいないがそういう体で)いる。
彼は話を逸らすように窓の外を見た。
「あ、雪だ。見に行こう」
太陽みたいに笑った。童心を忘れない輝きを持っている君。キラキラ綺麗だったから、手を繋いでしまいたくなった。
2月にしては珍しく大雪だった。この雪の先を行けば彼がいなくなるような気がした。雪に紛れて、或いは雪に埋もれて、或いは吹雪に隠れて。お別れの挨拶も無しに僕の前からいなくなる。そんな気配がした。
曖昧に終わらせようとしているのだ。それもありだといっそ思った。雪が手のひらで溶けるように、海の上に染みていくように、曖昧にぼんやり終わらせようとしている。充実した毎日だと思っていたけれど、案外ぱっと消えるようなひとときなのかもしれない。さよならした後はじんわり染みる寂しさが心に巣食うのだろうと思っていたが、それも案外ないのかもしれない。雪のように……いいや、もっと軽く小さな粉雪みたいに、音もなく消えるのだ。彼もきっと。
「出会えてよかったって思ってるんだ」。そうだ、そうだった。その一言で一気に思考が散り散りになって、勢いのまま連絡先を聞いた。
11/30 冬隣
雪を待っている。僕にはとても大切な人がいた。陽だまりのような金の髪をした彼。雪のように消えた彼。3年9ヶ月経ったって忘れもしない。寂しさが染み付いて心に巣食っている。
12/7 大雪
雪を待つ。美しく、触れれば冷たく、時間が経てば溶けてしまう、そんな雪を待っている。彼は雪ではないけれど、雪は彼の一部だ。一部でいいから触れていたい。冷たい手を覚えていたい。
1/30 寒梅
積もった雪の上に突っ立ってぼぅとウメの木を眺めていた。雪をかぶった梅花があちこちで咲いている。小ぶりの花は今にも雪に埋もれてしまいそうで心許なく感じられるが、殺風景な僕の心には派手すぎず丁度良い。
ヒョウヒョウと吠える北風が耳と頬にあかぎれを作り、足先が冷え切って感覚が無くなっていく。木の色、梅花の紅色、一面雪の三色だけの世界。から、ふらり、きらきら。明るい金色、木の影から現れた。
僕はこれを完全に夢か幻か何かだと思っていたもので、自傷気味に「つかれてるんだな」と呟いた。途端そこに現れた金髪の人がくるりと振り返って僕を見たから驚きのあまり心臓が止まるかと思った。叫び出しそうになるのを必死に堪え、飲み込み、そっと息を吐く。吐いた息が白く吹き上がっていく。すると彼も僕と同じように目を見張って、真っ白な息を吐いた。彼はギュッと目を閉じ、それから開き、また緩慢なまばたきをして呆けた顔でこちらを眺めてくる。
なぜこんな所にいるのだろう、夢なのだろうか、だって都合が良すぎる、夢に決まっている、そうだ、夢だ、これは。
何度見ても忽然と消えてしまった彼にしか見えず、夢だ夢だと思っておきながら現実かもしれないと確信に近い期待をしていた。そして同時に、やはりどこかで都合の良い幻覚を見ているのだと思った。とうとう脳が変になったのかもしれないとか、ウメを見ている間に実はあっさり死んでいてここは死後の世界であるとか、また布団の中であんなことをしなければ彼はまだここにいたかもしれないのにともしもの世界を夢に見ているだけなのかもしれないとか、この際どうだっていい。
「きみ」
震える声で呼びかけながら一歩雪を踏みしめた瞬間、彼はパッと顔を輝かせ、かと思えばふわりと綻ばせ、さくりさくりと雪を踏み分けながらこちらへ向かって来る。
「お前を、探してたんだ、ずっと……会いたかった」
心臓が跳ねる、跳ねる。銀世界に輝く金の髪が眩しいと思った。
掴んだ彼の手は、冷たかった、気がする。
12/15/2024, 10:34:31 PM