:特別な存在
特別な存在、というと、真っ先に思い浮かぶ人がいる。その人は酒を片手に暗がりでへたり込んで項垂れしくしく泣いていて、僕がどうしたのと声をかけると「何でもないよ」と慈しみに溢れた笑みをこぼす。何でもないならじゃあ、と目を逸らすと、またしくしくと泣き出す。どうしたの、死なないで、と言うと「どうして?私が死んだら困るの?嫌なの?どうして?」と笑って尋ねてくる。
僕は未だその正しい答え方を探している。今更考えても手遅れで、無意味で、自責することで安心を得たいだけの、奇妙な自傷行為をしているのだ。
そういえば先日もこんな話を書いた。ああ、なるほど、あの人は僕の文章に多大なる影響を与えていたのか。
脳をえぐっている感覚がする。心臓にスプーンを突き刺して、回転させて、穴を開けているみたいだ。スプーンでオムライスをすくうみたいに。
暴力と支配こそ愛情だとどこかで期待している。そのほうが、幾分か飲み込める気がする。
:二人ぼっち
姉弟の孤独と愛情が書かれた日記である。ペンを置いたとき、シーツに身を包むとき、日記を見つけたとき、そのすべてが弔いとなる。
題:親愛なる独白へ
僕の日記
ペンがこのインクを飲み干したらやめ時にしよう。日記を書くことも、姉さんから逃げることも、叶いもしない夢を見ることも。
姉さんが僕の部屋へ来ることが増えた。きっと限界なんだろう。僕と違って常に親から期待され、完璧を求められ、正しく優等生を演じ。学校でもそうらしい。僕も見かけたことがある。姉さんの人柄に惹かれて人が集まっていて、休む暇もなさそうだった。親、友人の圧に耐えられない、恋人にこんな姿は見せられない、頼れる先がない、そう思い溜め込んでいる。恋人にすら頼れないなら僕じゃ駄目だろうにと思う。荷が重い。
僕の性質からかこの部屋はどこか空気が暗い。良く言えば落ち着いている。暗闇に包まれて消えたい、そんな姉さんには確かにピッタリだ。だからだろう、姉さんが初めて扉をノックしたあの日、恐怖と不安、それから安堵の色を見せたのは。もう随分昔の話に思える。
「私の空洞にはあなただけが住んでいるの」。もう何度目か数えるのはやめた。変なことを言いながらべそべそ涙をこぼしていじける姉さんを慰めるのもルーティンと化し、最早“慣れ”と“飼い”だった。僕は僕のことで忙しいんだと言ってしまえばあまりにも簡単に終わるようなルーティンで、呆気なく死ぬ命がここにはあった。命が手に乗っているようだった。
今日はどうしたのと尋ねるとボロボロこぼし始めた。僕が姉さんに負担を掛けているはずなのに、姉さんは僕に夢を抱き僕を拠り所とする。僕のせいで親の期待を分散できていないから姉さんばかりがプレッシャーを浴び続けているというのに。
50mLボトルの中にはもう3割程しか残っていない。きっともうすぐ無くなるだろうから、そうしたらきっとこの部屋は役目を終える。漸く安心できるはずだ。
皆にとって姉さんは宛ら天使のような人だ。明るく優しいお利口さん。けれど日の暮れた僕の部屋で姉さんは天使ではなくなる。しわくちゃのシーツの上に蹲る姿は天使が堕ちるという表現そのままだ。馬鹿らしいと思う。でもこうやって天使だとか言っておかしな考えをしていないと正気が保てそうにない。
天使だ何だと言って月明かりだけならどこか非現実的で美しいとさえ思えたかもしれない。フィクションで夢だと思えないのは、机に置いた照明という人工物を使っているからか。ジジジ、と白く光っているのを見るとどうも口内に砂の味が広がる。嫌な味だ。
姉さんの調子が良さそうだったから紅茶を淹れた。僕の紅茶を好んでいるらしく嬉しそうに受け取ってくれる。紅茶を飲むといつもより肩の力が抜けるみたいだ。この瞬間だけでも安心できるならたくさん紅茶を淹れてあげたい。けれど、ただのルーティンになってしまうことが怖い。
「遠い世界へ行きたい」と言われた。いつもに増して暗く重い色を放ち、じっと一点ばかり見詰め、とても真剣そうに。今回ばかりはただの戯れとは思えない。普段はおちゃらけてすぐに「なんてね」と握り拳をパッと離すのにそれをしなかった。何と声を掛ければ良いのか分からなかった。
ときに、解釈と理解は全くの別物だ。判断材料を元に自己解釈できたとして、それが理解に繋がるとは到底思えない。ペン先が潰れることを知っているのに変えられない筆圧、というものに近いかもしれない。裏写りが酷い今の僕みたいな。
泣き疲れて眠ってしまったようだ。夢を見ているのかうなされている。ブランケットを掛けるとき、僕は何か言おうとするのに、喉がつっかえて出てこない。肝心なその言葉の正体が分からない。僕は何が言いたいのだろう。
この日記はまるで捌け口だ。直接言えないこと、抱えきれないこと、それらを書きなぐるための。こんなつもりで書き始めたわけではなかったはずなのに。なぜ日記を書き始めたのか書いておけばよかった。というより、書いていたはずなのに無くなっている。筆圧が強いせいかすぐ紙が弱って抜け落ちるし、何処かへ滑って捨ててしまったのだろうか。
紅茶を淹れた。ミルクティーの気分だったらしい。姉さんはミルクの中に紅茶を注ぎながら慈しむように「愛しているわ」と言った。こちらを見上げて、また、もう一度。ミルクティーの優しい味が腹の中で回っている。
「愛している」というのは親愛でも兄弟愛でもなく自己愛だろう。親しい位置に居る僕に己を重ね、巡り巡って自己愛となる。
今朝まであったはずの照明が無くなっていた。姉さんが部屋に来たら訊いてみよう。不思議なことといえば最近インクの減りが遅い気がする。相変わらずボトルの中は3割が残ったまま。
姉さんが部屋に来ない。ここのところ毎晩来ていたのに、こんなことは初めてだ。自室で眠っているのだろうか。
彼女は言うなれば天使だった。何度も書くが彼女は神ではなく天使だったんだ。堕ちると書いたあれは撤回する。あれは……いいや違う、彼女は間違いようもなく人間だ。そうだ、人間だったんだ、神様でも天使でもない、姉さんは確かに人間で、だから、でも、違う僕の前ではだから。駄目だ、今日はもう眠ってしまおう。
神様、天使、悪魔、太陽、月、星? 何でもいい、人を形容するときはいつだってそうだ。気取った表現は解釈でしかない、理解ではない。君と僕は血を分けた姉弟だ。君は一人の人間だった。君は、本当に遠い世界へ行ったんだね。
姉さん、僕は未だに理解できずにいる。姉さんのことをよく知らないままだ。あれだけ泣いていたのに僕は姉さんの涙を拭ったことがなかった。姉さん が 死ぬ直前 僕は相変わらず、字を書いていた 姉さんのことを、書いていた。姉さん。まってくれ。
手紙
日記を始める理由を書いておこう。これから綴る僕の独白。そのすべては僕の為、ひいては姉さんの為になるだろう。そうなることを祈っている。笑い合える日を夢見て。
私の日記
日記を見つけた。やっぱり私達は似ているのね。嬉しくて戸惑いも躊躇いもなく表紙を開いたの。そうしたら日記を書き始めた理由なんてのが律儀に書かれていて。内容があまりにも嬉しかったから取って来ちゃった。あの子は忘れっぽいしきっと気が付かないよ。気が付いたとしても言及はしない。あの子はそういう子、私のすべてを呑み込んでくれる子、私の空洞に住んでいる子、だから……この際なんだっていいの。今日はとってもいい日。
あれから何度も何度も読み返してる。ただの日記の切れ端ではなく愛を綴ったラブレターのようにさえ感じてくる。だってこんなにも想いが込められているんですもの。
やっぱりあなたはずっと優しい子だった。あなたと同じで白い照明が嫌いだった。あなたの紅茶が好きだった。あなたの使うインクの匂いが大好きだった。おやすみなさい。私の愛しい弟。それから、親愛なる独白へ。
日記
遺品整理が終わった。無くなっていたはずの照明、インク瓶多数、たった3ページだけ書かれた日記帳を見つけた。日記帳のその他のページは破られた痕跡がある。
見つかったインクボトルは15mLのミニボトルが20本、そのうち8本は空、10本は新品、中途半端に残っている物が2本。僕が使っている物と同じブランド同じ色で違うのはサイズだけ。姉さんの日記に使われているインクは恐らくこれだろう。同じ色のミニボトルを大量に買うならサイズを変えればいいのにとか、劣化してしまうのにわざわざ2本も開けて使っていたのかとか、疑問が耐えない。僕自身あの照明が嫌いだったなんて無くなってから自覚した。このペンは姉さんの前で使ったことなんてない。照明もインクも、姉さんが知っているはずがない。
僕と親愛なる独白って。
姉さんのことが分からない。
僕の日記の切れ端をラブレターと書いていた。「この際なんだっていい」と見ないふりをした文章から、姉さんの不器用さが窺える。思うに、彼女は自分の感情をよく理解できていなかったのだろう。そうだ、そうでないとすれば姉さんはあまりにも僕を過大評価している。だって僕は姉さんに対して不満を抱いていたし、親身になって話を聞いてもいなかった、涙を拭ったことも、気が付いたら姉さんは眠っていて、僕はただ、ただ、ぼくは。
僕は本当に、笑い合える日を夢見ていたのだろうか。今となっては それすら、もう。
気分が悪い。
姉さんがいなくなってからインクの減りが早い。僕はそれほど傷心しているのか。
分からない。理解できない。
僕を買い被りすぎていて、僕に夢を抱いていて、僕のことを愛していると思い込もうとしていた。そのはずだろう?
姉さんがシーツの上で蹲っていた。髪が伸びたね、もう寝るのかい、久しぶりに紅茶を淹れようか。一つ浮かんでは消えを繰り返し、掛ける言葉を見失っていた。そうしているうちにいつの間にか姉さんは消えていた。
布団の温もりも、紅茶の味も、姉さんも、記憶から取り出したものは結局すべて形骸なのだと知った。
空っぽみたいだ。しばらくご飯も食べていない。ずっとシーツに埋もれる日々。ぽっかり穴が空いて何もかもが抜け落ちている。空っぽなはずなのに、それでも姉さんだけはいる。おかしな具合に姉さんがいる。この感覚を知っている気がする。
怖い、知りたくない、気付きたくない。
ここのところ「おやすみ」と姉さんの声が毎晩聞こえる。おかしくなるんじゃないかと思っていたが不思議と平常だ。いやどうだろう、もうどこからが夢なのか分からない。理解できないしたくない。
「あなたの空洞には何が住んでいるの」。宛ら天使のように微笑んでいる。彼女はインクの残りを気にしているようだ。「なくなってしまうのは寂しいね」。いかないで、僕はずっと、ずっとずっ、と。
姉さん、が、いなくなったとき、本当は、ほっとした。その事実を受け入れたくなかった。僕はずっと逃げてばかりで、見ないふりばかりしてきた。
閉じられた目蓋は悲しい。なくなるのは寂しい。だから、ずっと。
インクも残り少ない。
愛しているわ。私の愛しい
もう 分かった。
姉さんが残したインクを僕のボトルに移し替えた。このインクすべて、僕が飲み干してしまおう。
親愛なる独白へ
夢見たあの日から僕らへの弔いだったんだ。僕らの空洞には二人ぼっちの独白だけが住んでいた。日記だけが住んでいた。
僕はずっとこのときを待っていたのかもしれない。ずっと、言いたかったよ。おやすみ。姉さん。良い夢を。
:泣かないよ
泣かないよ、泣かないから
弱音も、涙も、暴力も、ちゃんと受け入れるから
独りぼっちは、寂しいよね
だから、理解者になりたかった
だって、あたなの寂しさが好きだった
あの夜、二人で、孤独だった
あなたと孤独になりたかった
独りぼっちは、寂しいよね
だから、あの夜を再生していたい
泣かないから
足りなかったこと、今なら、分かってるから
だから、どうか い ま さ ら
■■
何かに苛ついたような、怒ったような、焦燥感に駆られたようなあなたは、冷蔵庫から大量の缶ビールを持ち出してきて机に並べる。1本、2本、3本、4本、5本、どんどんと開けて胃に流し込んでいく。
奥にある新しい缶ビールを手に取って、他の空き缶を倒しながら手前に引きずる。空き缶がカラカラ机の下に落ちることなんて気にもせず、カシュッと軽快な音を鳴らして、あなたは楽しそうに笑うのだ。6本、7本、8本、どんどん開けて、飲んで。「あれがしたい」「これが楽しみ」「将来は――――」。
そうやって楽しそうに話したかと思えば、途端に泣きだしてしまう。「将来なんてない」「これからなんて」「逃げたい」「どうして」「生きてる意味なんて」「死んでしまいたい」。
わんわん泣いて、泣いて、テッシュを撒き散らしながら泣いて、泣いて、そうして横たわる。そのまま眠ってしまって、けれどずっとうなされている。
そんなあなたの姿を見ても泣かなかった。泣いても役立たずにしかならない。泣かなくとも役立たずなのに、泣いたら役立たず以下だ。どうあがいてもあなたの役に立てないなら静かにしておくのが一番だと、そう思っていた。ずっと。
あなたに何と声を掛けただろうか。背中を擦ってあげたことはあっただろうか。ティッシュを渡したことは?コップに水を注ぐのが正しかったのだろうか。抱きしめたことは?「味方だよ」と伝えたことはあるだろうか。話を聞いて頷いたことは?
ない。
少しはやっていたのかもしれない。話を聞いて、分かるよなんて言って、側にいたつもりで。声を掛けようとして「大丈夫だから気にしないで」と言うのを真に受けて、静かにしておくのが一番だなんて、そんなの保身でしかない。それが一番だなんてそんなわけなかったのに。やったつもりだっただけだ。だって実際あの人はいなくなった。それが何よりの証明。
今更泣いたってもう遅い。だから、泣かない。泣いたって取り戻せない。無意味だ、無駄だ。泣かない、泣かない、泣かないよ。泣かないから、迷惑かけないから、迷惑、違うか、あなたの望むこと出来るようになるから、だから、だから。だから?あの人はもうここに帰ってこない。
あなたの孤独はどれほど深く暗かったのだろう。気づかなかった、知らなかった。無知は罪だ。あなたを知らなかった。深い穴に落ちていく感覚がする。あなたはもっとずっと深く落ちていく感覚がしていたのだろうか。砂と鉄の味がする。あなたも苦い味が広がっていたのだろうか。あなたも、この恐怖と虚無の狭間にいたのか。
ティッシュをそのへんに撒き散らかして、貰った薬もその辺に放ったらかして、シャッターもカーテンも閉め切って、ただ布団に潜る。昔の記憶を再生している。酒を飲めるようになったらあなたと同じように缶ビールを転がして、アルコール依存症になったりするのかな、なんて夢想している。あなたと同じ道を歩めているなら、少し、報われるような気がする。だって今度こそ、あなたと孤独になれるのだから。
:星が溢れる
「もう嫌なの」「逃げたい」「もう耐えられない」「離れたい」「どこで間違えたの」と泣いているあなたの背中を撫でるわけでもなく、ライトに照らされたあなたの涙が星みたいだと思っていた。あなたの目から星が溢れ、流星となる。美しかった。鬱くしいともいえる。
泣いているあなたのことをほったらかしにして。ティッシュを差し出すこともハンカチで拭ってあげることもせず。
星を流すあなたのことを“儚い”と思い込んで美化した記憶は、星の輝きなど持っているだろうか。
あの人は美しかった 確かに。
未だ星を眺めている。
何か、きれいなものを浴びたい。