#意味がないこと
ここは夢の中、だと思う。
時計の針が全てテッペンを指す頃、僕はベッドに入った。それからさほど時間は経っていないと思う。だから、今歩いている廊下は僕の住むマンションにそっくりだがきっと現実ではない。内廊下だから朝なのか夜なのかは不明なのだが、とはいえ両側の壁にあるドアについたプレートの文字はぐにゃぐにゃと歪んでいて何号室なのか読み取れない。昨夜は酒を飲まなかったから、酔っているはずはないので、夢うつつで廊下を歩いている可能性—尚、夢遊病だったことは人生で一度もない—を除けば、ここは夢の中だろう。
とりあえず、廊下を歩いてみることにした。ドアに注意を向けながら廊下を歩いて歩いて歩き続ける。行き止まりにある非常階段のドアは見えているのに、何分歩いても辿り着かない。誰もドアから出てこない。誰ともすれ違わない。物音ひとつ聞こえない。確実にここは夢の中だ。最近、運動不足なのは確かだから、僕の潜在意識はウォーキングでもさせたかったのだろうか。
無限に続くウォーキング。両隣の壁のドアは後ろに後ろに流れていくから進んでいるように錯覚する。とはいえ、ドアのプレートの文字は認識できないのだから、本当に僕が前に進んでいるのかはわからない。まるでハムスターが回し車を回しているよう、いや、僕は人間なのだからルームランナーのほうが正しい例えだろうか。僕はずっと同じ場所を歩いているだけなのかもしれない。
ハムスターのように一晩中走る体力のない僕は、疲れを感じて歩くのをやめた。ドアの流れが止まる。ルームランナーのように、じっと立っているからといって後ろに流されることはない。今の状況ならやはりハムスターの回し車のほうが例えとして適切だろうか。小学生の頃に飼っていたパールホワイトのジャンガリアンハムスターが頭の中で走り始める。あの小さくてふわふわな身体で一晩中、リビングの電気を消してから翌朝朝日が差し込んでくるまで走り続けていたハムスターの凄さを思い知る。今更どうでも良い、意味のない感動に変な笑いが漏れた。
疲れたな。足痛いな。喉が渇いたな。なんかお腹減ったな。夢の中だというのに、きっと現実では寝返りしたとしても50cmも動いていないのに、身体は疲労や生理的欲求を訴えてくる。僕はドアを見つめてどうしようかと逡巡した。夢の中とはいえ、他人の部屋かもしれないドアを開けるのは怖い。とはいえ、この不気味な廊下に居続けたいわけではない。部屋番号のプレートは読み取れないが、ドアを開けたら案外僕の部屋だったりするかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、ドアノブに手をかける。右側のドアはびくともしなかった。左側のドアもびくともしない。少し歩いて次のドアを試す。次、その次。4部屋目でやっとドアが開いた。
「ごめんください……」
玄関を見る限り僕の部屋ではない。なぜなら、玄関に靴がない。靴箱のドアノブには靴べらがかかっているから、靴を履かないわけではないのだろう。となると、この部屋に住むのは几帳面な人なのだろうか。もし、実は僕が夢遊病で、現実世界でドアを開けているとしたら、ここから一歩入れば確実に不法侵入で怒られるだろう。もう一度ごめんくださいと声をかけたが、返事はない。
(どうしよう……でも……)
夢の中とはいえ、もし中で人が倒れているなら放置するのは寝覚が悪い。そもそも夢の中なら不法侵入として咎められることはない。他の部屋には鍵がかかっていたのだから、鍵がかかっていない時点で入って良いということなのだろう。もしダメだったら、鍵をかけていない住人が不用心なのだ。そう納得して、部屋の中へと入る。きちんと靴を揃えて、もう一度「誰かいませんか」と声をかけながら部屋の中を歩く。
間取りは僕の部屋と変わらない。2LDKの部屋。玄関ドアから見て手前の部屋、基本的にはリビングダイニングとして使われる広めの部屋には誰もいない。意を決して奥の小さめの部屋、寝室として使われる想定の部屋に向かう。そっと、静かに、僕の寝室と同じ淡いクリーム色の木目調のドアを開ける。
部屋の片隅。壁に向かって蹲るようにして座る背中が見えた。髪は長いし、着ている服は淡いピンク色で、上衣の裾にはヒラヒラとしたフリルが見える。おそらく女性だろう、と判断して嫌な汗が出てくる。お願いだから、何が何でも夢の中であってくれ。気づかれないうちに退散すべきか。しかし、何をしているのか気にはなる。人の声が聞こえないほど、壁に向かって何に熱中しているのだろうか。
僕はそっと近づいて、女性の手元を覗き込んだ。女性が手に持っているのは細い糸と、元はお菓子の缶に入った色とりどりのとっても小さな、ハムスターの食道を余裕で通るであろう小さなビーズ。照明が一部遮られて影ができたのに、全く気にせずに女性はただ淡々と、縫い糸に小さなビーズを通し続ける。ビーズは様々な色があるので、何か法則に従って糸に通しているのかと思ったが、既に1m近くビーズが通された糸を見る限りてんでバラバラで、女性は特に気にせずつまめたビーズを糸に通し続けているらしい。
意味がないことをしているな、というのが女性の作業を見ての感想だった。特に法則性もなくただただ糸にビーズを通し続けている。その乱雑さが良いというのでなければ、女性はアクセサリーを作っているわけではないのだろう。仮に自分用だとしても玄関に靴を置かないような几帳面な人が、成り行き任せで雑多な色のビーズが通されているだけのアクセサリーを身につけるとは思えない。
僕はぼんやりと意味のない作業を眺め続ける。一粒、また一粒とビーズが糸の上を流れた。ビーズの通った糸はだんだん長くなっているように見えるが、缶の中のビーズは減らない。僕が本当の意味で前に進めなかったのと同様、この人も本当の意味でビーズを通せていないのかもしれない、とふと思う。
永遠に続く単純作業。小さなビーズがコロコロと糸の上を伝っていくのを見ていると、だんだん頭がぼんやりしてくる。焦点が合わず、目の前が霞みがかっており、自分の身体なのに呼吸をしているのかしていないのかも定かではない。トランス状態とはこういうことを指すのか、と思ったのが、記憶の最後だった。
ジリジリジリ、と目覚ましが鳴る。けたたましい音が鳴る目覚まし時計の在処は、ベッド下の収納スペース。僕はのそのそとベッドから出て、ベッド下に手を突っ込み、目覚まし時計を引っ張り出す。朝7時に鳴るようにセットしたアラーム機能そのもののスイッチを切った。これで、また寝る前にスイッチを入れない限りジリジリと金属音が鳴ることはない。ほっと一息ついて、ふと思う。
(あの夢は、なんだったんだろうか)
細部は覚えていない。とにかく意味がないことばかりしていた気がする。ぼんやりとした感覚だけが鮮明だ。あの何も考えられないような、思考がまとまらず全てが混濁していき脳に霞みがかかるかのような、そんな感覚だけが頭に残っている。それでいて気分は清々しい。寝起きの眠気を差し引いても頭はぼんやりしているのに気分は落ち着いていて、不思議な感覚だ。
(たまには意味がないこともしろってことか)
毎日、仕事仕事仕事、自己研鑽自己成長、存在意義を示せ、とせっつかれる日々。何もかもに意味を付与して、意味を見出して、どう頑張っても意味のないものは切り捨て続けてきた。そうしないと頭が壊れていただろう。そうでなくてもずっと頭がパンクしそうな感覚を持ちつつ騙し騙し過ごしていた。
それが今はない。頭が軽くて、妙にスッキリしている。こんな感覚、何年ぶりだろうか。
(意味がないことそれ自体に意味があるってこと、か)
僕は頭を掻く。同僚との話のネタにも資格取得の役にも立たない、と数年前に切り捨てた羊毛フェルトの趣味を再開したほうが良いかもしれない。
#命が燃え尽きるまで
命が燃え尽きるまで、眺めていようと思った。
ヨーロッパに網戸という文化はない。よって、フランスにも網戸はない。窓を開ければ虫は入り放題で、ハエも、蚊も、ユスリカも、ハチも羽音を鳴らして入ってくる。ホームセンターで買ってきた窓に貼るタイプの虫除けは全く意味をなさず、外からアパルトマンを見上げた時に自室がどこかわかるだけの、ただの目印となっている。
だから今日、再びホームセンターに行って蚊除けキャンドルを買ってきた。マグカップくらいの大きさの青いガラス容器に入った、燃焼時間50時間のキャンドル。マッチを擦ってキャンドルの芯に火をつけて、細く開けた窓のそばに置く。そよそよと入ってくる風が、炎を揺らす。炎の高さが青いガラス容器の中に収まったのを見ていた安心する。これならカーテンに引火しないだろう。カーテン越しでも、炎がゆらゆらとゆらめいているのが見える。
蚊除けキャンドルはシトロネル、日本ではレモングラスと呼ばれる植物のアロマオイルが入ったキャンドルだ。アロマキャンドルの一種だがあまり香りは強くなく、鼻を近づけてやっとレモンに似た爽やかな香りを感じる程度だ。店にはティーライトのような小さなものから、バケツに入ったキャンプ用の大型のものまで、売り場一面にたくさん並んでいた。逆に蚊取り線香やノーマットのような電気蚊除けはほとんど見かけない。売り場の隅に申し訳程度に置いてあるだけであるから、蚊対策の主流はキャンドルなのだろう。
ただ、効果があるのかは、正直よくわからない。蚊"取り"線香のようにピレスロイドが入っているわけではないから、蚊を殺す効果はない。蚊"除け"キャンドルは蚊に避けてもらうのが目的だからだ。だが、そんなに都合よく匂いだけで蚊が避けてくれるのだろうか。そもそもこんな風の吹く夜では、こんなほのかなキャンドルの香りもどこかに流れてしまうのではないか。
歯磨きなどのナイトルーティーンを終え、ベッドにしばらく転がっていた。うとうとしてはいたものの、どうにもキャンドルの様子が気になって眠れない。今のところ蚊は入ってきていないと思うが、それがキャンドルのおかげなのか、たまたまなのかはわからない。ゆらゆら、ゆらゆらと揺れるカーテンと共に炎が踊っているから、風に負けずキャンドルは順調に燃えている。火をつけて既に3時間ほど経っただろうか。様子を見てみようと身体を起こす。
窓辺に立って、そっとカーテンを開けた。キャンドルは、勿論ちろちろと燃えていた。アロマオイル入りの白い蝋は炎に近いところから溶けて、透明になった蝋が池を作っている。その池の中に黒い点がぽつん、とあった。ゴミでも入っているのかと思ったが、よく見ると6本、いや、7本の線が伸びている。黒白の縞縞模様。
ヒトスジシマカ、通称ヤブ蚊、フランス語ではmoustique tigre、訳すと虎蚊。なぜかヨーロッパの蚊はデカいので、虎蚊と言われても違和感がない。蚊除けばかりで蚊に対する有害物質が少ないからだろうか。それともヨーロッパの血を吸うと蚊もマッチョになるのか。想像する蚊よりも大きすぎて、ただのゴミに見えてしまった。
飛んで火に入る夏の虫、という諺が頭に浮かぶ。シトロネルの香りよりも、火の誘惑の方が強かったのだろうか。じーっと眺めていると、まだ蚊は死んでおらず、足をウゴウゴと動かしていた。なんともしぶとい蚊だ。もう羽は蝋に濡れて使い物にならないだろう。蝋の上に立てるわけもあるまい。それでも落ちてしまった罠から逃れようと、必死に細い足を動かして暴れていた。
暴れる足がキャンドルの火に触れた。ぽうっと、蚊の足に小さな炎が移る。蚊はジタバタと暴れ抵抗するが、暴れた足に火が燃え移る。火は燃え盛り……ということはなく、思っていたよりもじっくりと、しかし確実に、じわじわと蚊を燃やしていく。
その様子に、なぜだか目が奪われた。緩慢で、じれったい、目怠い光景。蚊は人間には聞こえない断末魔の叫びを上げながらのたうち回っている。エンディングは死だとわかりきっている。蚊は今晩のうちに焼死する。決定事項だ。それなのに目が離せない。目の前で燃えていく命を見るという趣味の悪いエンターテインメントに、訳がわからないほど魅了されている。
だから、命が燃え尽きるまで、眺めていようと思った。
#世界に一つだけ
学期初め、ホームルームの時間。いのちのホットラインやチャイルドラインといった名前のついた電話番号のカードが配られる。
「あなたという存在は世界に一つだけです。とても大事な存在です」
その言葉を聞くたびに、私は「そんなことはないけどな……」と思いながら、隣を盗み見る。真剣な顔で黒板を見つめている姉の視線は揺らがない。私の視線に気がついていないだろう。
一卵性双生児、遺伝子も顔も身長も体重も成績も体力テストの結果も声の周波数も全く同じ。数値で測れるものは全て同じで、違うのは性格だけ。優等生で明るく、多趣味で、誰からも好かれて人気者の姉と、先生に迷惑をかけないという点で優等生は優等生だけど何にも興味を持てず、無口で、ひっそりと生きている私。まぁ、一応違いはあるのだから世界に一つだけの存在と言われればそうなのかもしれないけれど、正直私が存在する必要はあるのだろうかと思う。なにせ、数値で測れるスペックは全て同じ。それなら、人に好かれ、頼りにされ、愛されている姉だけで十分ではないかと思う。
そんなことを考えるからといって死にたいとか、消えたいとか、そんなことを思っているわけじゃない。ただ、世界に一つだけというのが本当なのかを私は考えている。
チャイムが鳴った。今日の授業はこれで終わり。姉は友達と遊んだり、部活があればそっちに行くかもしれないけれど、私は家に帰るだけ。声をかけられないうちに教室を出たい。
「悠妃(ゆうひ)、帰るの?」
そう思っていたのに、姉——悠莉(ゆうり)に声をかけられる。
「帰るよ」
「えー、悠妃も吹奏楽部、入ってよ。悠莉が上手いんだから悠妃も上手いって」
いつのまにか悠莉の隣に、別の生徒が立っていた。悠莉と仲の良い子だった気はするが、夏休みを挟んだせいで名前が出てこない。今日も一日、授業の指示以外で誰とも話はしなかったし。
「そうだよ、今なら3rdトランペットが空いてるし。悠莉と同じ身体なんだから、悠妃ならすぐ吹けるようになるって」
「悠莉がいるから、うちが弱小吹部なのわかってるでしょ?別に厳しいことなんてないから。みんなで演奏したい曲を演奏しよう!って部なんだし、悠妃なら今から入っても全然いけるよ」
「……ごめん、休み明けだからか若干頭痛くて。今日は帰る」
「あ、ごめん」
「ううん、また明日」
力なく首を振って教室を突っ切れば、特に止められることもない。何回か使っている手なのでそろそろ仮病とバレていてもおかしくはないが、それを追求してくるほど性格が悪い人がいなくて何よりだ。
重たいスクールバッグを肩にかけて家に向かって歩く。はやく帰りたいような、帰りたくないような。どちらにも傾き切らない微妙な気持ちのせいで足が重い。
(悠莉と同じなんだから)
頭の中でぐるぐると「同じ」という言葉が回る。親も同級生たちと同じことを思っている。悠莉と私は同じだから、同じようにして、同じものを与えていれば不具合はない。食べ物も同じもの、服も同じもの、習い事も同じもの、部活も中学時代は強制だったから悠莉に連れられてテニス部に入った。私は何も選ばないので、親は悠莉が選んだものを私にも与える。否、私が何も言わずとも平等にちゃんと与えてくれて、なぜだかうまくいく。
かといって、親が私に悠莉と同じようにしろ、と強制してきたことはない。高校生になって、私が悠莉と同じように部活に入らなかった。それだけが、これまでの人生と違うが、別にそれを咎めたりはしなかった。返ってきた言葉は「あ、やらないの」の一言だった。ちょっと意外そうな顔はしていた。姉の真似をしなくなっただけとでも思っているような様子だった。
同じ年の同じ日に生まれたのに姉も妹もないと思うのだけれど、一応生まれた順でそういうことになっているから、私は悠莉を姉だと紹介する。悠莉も私を妹と紹介する。スペックは何一つ変わらないのに。違うのは性格だけだが、性格が違うというよりは個性のある姉と無味乾燥な妹という組み合わせであり、陽と陰というべきか。それとも最近、情報で習った現用系と待機系というのが正しいか。
まぁ、要するに。スペアとしての扱いが否めない。自分でもスペアだろうと思う。世界に一つだけの存在はスペアにならない。同じだからスペアになるし、スペアになれる。
私がスペアにならなければならない出来事が、きっとこの先起きるのだろう。
「わっ」
ギュッと後ろから急に抱きつかれた。感触で、相手はすぐにわかる。毎日触っている私の身体と全く同じ身体を持つ人間はこの世界に1人しかいない。
「悠妃、本当に大丈夫?」
「部活行ったんじゃないの、悠莉」
「いやぁ、だってガチ顔色悪かったよ?」
「照明の当たり具合じゃない?」
「じゃあ、頭痛くないわけ?」
「……心配されるほどじゃないよ。音のデカい部活に行けるほど元気じゃないってだけで」
ふぅん、と納得したのかしていないのかよくわからない声で相槌を打って、悠莉が私の手を握った。
「早く帰ってアイス食べよ?」
「別に1人で帰って食べれば?」
「えー、どうせ家に帰るんでしょ?」
「頭痛い人間にアイスなんて食わせる?」
「熱中症かもしれないじゃない。悠妃は夏休みろくに家から出ないかったから、身体が暑さを忘れちゃってるんじゃないの?」
ほら帰ろ、と悠莉が私の手を引っ張っていく。
「気が向いたらでいいからさ、吹部来てよ」
「……なんで?」
「落ち着かないもん。悠妃がいないの変な感じ」
「今までが異常なんだよ、なんでも一緒で。それに、悠莉は私がいてもいなくても変わらないでしょ」
「変わるよ。今までは悠妃がいるから大丈夫でしょって色々冒険できてたけど今はそうはいかないもん」
悠莉の言葉に私はため息をつく。ナチュラルにスペア扱いされた気がしてならない。数値はピッタリ同じなのに、どうにも心がシンクロしている、なんて事態は私たち姉妹には起きないらしい。
「悠妃?」
「……気が向いたらね」
私はそれだけ返した。目の前に伸びる、全く同じ長さの影を恨めしく思いつつ、家に向かってひたすら足を動かした。
#香水
高校世界史。普仏戦争。フランス第二帝政が崩壊し、ドイツ帝国が樹立された。ドイツ皇帝の戴冠式が行われたのは、ヴェルサイユ宮殿、鏡の間。ドイツ帝国の樹立と同時期にイタリアの統一がなされる。なぜなら普仏戦争で負けたフランス軍がローマ教皇領から撤退したから。
明日のテストに向けた居残り勉強。高校で世界史を選ぶ生徒は少なく、一学年300人、うち160人が文系のこの高校でも、世界史を選んだのはたったの6人。うち4人が女子であり、世界史の授業で男子は圧倒的なマイノリティである。
色白、細身、銀縁メガネ、図書委員の裕一郎と日に焼けた肌、マッチョな体格、ラグビー部の紘也。普通だったら交わることのない2人だが、親しくなるのに時間はかからなかった。なにせ、希望者のほとんどいない世界史を選ぶ変わり者である。
2人とも興味もそこそこに面白半分で、2年の終わりの社会科科目希望調査で世界史探究に丸をつけた。なにせ毎年希望人数が少なく、開講基準の10人を下回ると聞いていたから、希望したところで実施されないだろうと思っていたのだ。それなのに、たまたま今年度赴任してきた教師が世界史を専門としていたから、例外的に開講されてしまった。
共通テストまで1年もないのに先史時代から21世紀まで学ぶ無茶苦茶なスケジュールも、Xデーまであと4ヶ月。少人数なのを良いことに飛ばしたペース進められる授業により、2学期中間テストの範囲はナショナリズムまでである。期末テストで帝国主義、植民地化、世界大戦、戦後をやるのだろうが、これらは歴史総合とも被っている範囲だから、多少の余裕が生まれているとも言える。
「いつも絵を見て思うんだけどさ」
資料集を見ていた裕一郎がつぶやきに、単語カードを捲っていた紘也は手を止める。
「ヴェルサイユ宮殿、めちゃくちゃ臭かっただろうな」
「……は?」
裕一郎の発言は用語とも歴史の流れとも全く関係のない内容で、紘也は思わず間抜けな声を上げた。
「絶対臭かったと思う」
「いや、待って、いきなり何。俺なんか今日臭う?」
「なんでそっちに思考が飛ぶの?絵を見てって言ったじゃん」
「そうだけど。いや、なんで?どういう思考でヴェルサイユ宮殿が臭いって話になるの」
時々、真面目そうな顔で——否、本人は至って真面目なのだが——周りからすればぶっ飛んだ発言をするのが裕一郎だ。エリート風味の優男な見た目なのに彼女がいないのは絶対こういうところが玉に瑕なんだろう、と爆弾発言が出るたびに紘也は思っている。
「いや、姉ちゃんが最近フランスに行ってたんだけど」
「あぁ、うん。それって大学生の姉ちゃん?」
「そうそう。短期留学で3ヶ月。結婚した方の姉ちゃんは名古屋にいる」
裕一郎は3人姉弟の末っ子ゆえ、家族の話題になるとよく姉2人の話が出てくる。しかし紛らわしいことに裕一郎はどちらも「姉ちゃん」としか呼ばないので、どちらの姉の話をしているのか確認しておかないと、前情報との齟齬が起きて紘也の頭が混乱する。
「OK。で、なに。ヴェルサイユ宮殿行ったの?」
「それはまぁ、行くよね。そこでの詳しい話は帰り道にする。ここじゃスマホ出せないから。でも、今言いたいことは別に宮殿で何かあったってわけじゃなくって、その道中」
「道中。そもそも行き方がわからん」
「パリからだから鉄道で行く。で、その鉄道。真夏に行ったらしいんだけど臭いがやばいんだって。たまたま姉ちゃんが乗ったところが悪かったのかもしれないけど、汗、体臭、腋臭、それから香水の匂いが混じって、車の中で本読んでも酔わない姉ちゃんですら気分悪くなるくらい臭かったらしい」
「へぇ」
「ピンと来ない?」
裕一郎がニヤッと笑って首を傾げる。紘也は眉を顰めた。集中力が切れたからなのか、腹が減ったからなのか、頭が働かない。
「……何にピンと来たらいいの?」
「ヴェルサイユ宮殿が臭いってこと」
「あぁはいはい、ってならないよ。説明」
「フランス人ってあんまり風呂に入らない、というか、姉ちゃんが言うにはシャワー浴びても頭洗わないことがあるらしくってさ。あと、服の洗濯頻度が低い。加えて、一般的にアジア系よりヨーロピアンもアフリカンも体臭とか腋臭とかキツイらしい。まぁ、この絵の時代だとヴェルサイユ宮殿に入れるアフリカンはほとんどいないだろうけどさ……」
「まぁ、植民地化はもうやってるから兵士にはいるけど」
「そうだね。で、そもそも香水って単体で嗅げばいい匂いだけど、混ざると臭いじゃん。香水じゃないけど、体育の後の教室とかさ」
「それはわかるけど……あ、そういう?」
やっと言いたいことがわかったと紘也が軽く首を振れば、裕一郎は満足そうに頷く。
「そもそも香水って体臭消しとして発展してきたもののわけ。とはいえ消せるレベルに限度はある。そりゃ、昔はこの夏みたいには暑くなかっただろうけど、人間、生きていれば何かしら体臭はあるし、汗かくし、うっかり服汚したりもするし。消せない悪臭と香水、しかも数種類混じったのを想像したら……」
「ウゲェ……」
「トイレとかも整備されてないしね。18世紀が舞台だけど、パトリック・ジュースキントの『香水』でもパリは悪臭の街として書かれてるし……まぁ、今も場所によっては悪臭の街らしいけどさ。少し離れているとはいえヴェルサイユも例外じゃないと思う、宮殿が使われている時代なら特に」
「なるほど。今回は割と妥当な話だった」
「ちなみに、姉ちゃん、電車の中での出来事があまりにもトラウマすぎて、香水買って帰るって言ってたのに一瓶も買わずに、むしろデオドラント買ってた。姉ちゃんから臭いしたことないのに」
「そっか」
「香害のヤバさを知った、香水なんて公共の場でつけるもんじゃない、とかなんとか」
「よっぽどだったんだな……」
紘也と裕一郎は顔を見合わせて苦笑いする。従業員の制服の柔軟剤の匂いですら揉める日本だ。香気も臭気もない空気で育った鼻には耐えられない臭さだったのだろう。
「俺たちが香水を使う日、来るのかな」
紘也は言った。ファッショナブルと言われるほど見た目に頓着しているタイプではない、というよりかは洒落た服には身体が入らないのでオシャレのしょうがないのだが、その分アクセサリーだとか、香水だとか、身体のサイズが関係ないものには興味があった。
「いやぁ……どうだろう。女の人だとつけてるかもしれないけど、男で香水つけてるのってホストくらいじゃない?」
「イメージ的にはそう」
「僕は姉ちゃんを泣かせないように、無臭になるよう努める気だけどね」
「下手に匂うよりは無臭が良いか」
「多分」
紘也が自身のリュックサックに視線を向ける。裕一郎も少し体を曲げて紘也の視線を追う。サイドポケットには黄緑色のシーブリーズが刺さっている。
「……無香料、買おう」
「それが良いよ」
#言葉はいらない、ただ・・・
朝6時15分。
3年2組の教室で、2人の女子生徒が向かい合っていた。朝練がある部活のために校門は6時に開けられる。とはいえ、それは運動部のための措置であって、教室に生徒がいるのは異常だった。
「そういえば、よく鍵を開けてもらえたね」
机に軽く腰をかけたボブヘアの生徒、ナナミが言った。
「……開けてもらってなんかない。私が昨日、閉めずに帰っただけ」
壁に寄りかかっている、耳の高さで長髪を一つに縛った生徒、ヒナノが目線を蛍光灯に向けて言った。電気はつけていない。教室は薄暗いが、教師や他の生徒にバレたら面倒だから明かりはつけない。
そもそも明かりなど、2人には必要なかった。
「優等生なのにそんなことしていいんだ」
「優等生だからできるの」
「それもそうだね。アタシがやったら……というか、アタシが鍵閉め当番になったら絶対担任のやつ、確認しにくる」
「ふっ、容易に想像がつくわ」
「鼻で笑いやがって」
ナナミが笑う。白い小さな歯が赤い唇から覗く。自然の血色ではない、ルージュを塗った唇。目元も、肌も、髪の色だっていじっていない、生まれ持った造形のままだが、唇だけ、違う。上下の唇は人工の赤で彩られていた。
ヒナノも同じだった。一文字に結ばれた唇は真っ赤だ。ネクタイを緩めているナナミとは違い校則通りに真面目に着こなした制服、キーホルダー一つ付いてない鞄、磨かれたローファー。優等生然とした佇まいの中で唇だけが異質だった。
2人の唇を染めた有名ブランドのリキッドルージュは、窓枠に転がっている。明るいところで見れば目を引く熟れたリンゴのような赤色は、薄暗い教室では赤黒く毒々しい色に見えた。まるで血液、さらにいえば静脈血のような赤黒さだ。
この赤い液体を持ってきたのはヒナノだ。午前6時10分、ナナミが教室に着いた時にはもうヒナノは来ていて、ナナミを手招きして机に座らせると、無言でペンケースからルージュを取り出し、ナナミの唇にチップを乗せた。ナナミも無言でされるがままに、薄く唇を開いてチップが唇から離れるのを待った。
ナナミにルージュを塗り終わると、ヒナノはナナミにルージュを持たせた。やることは一つしかない。ナナミもヒナノの唇にチップを這わせて、紫がかった桜色を赤く染めた。そして、そのまま互いの唇が乾くまで、ナナミが言葉を発するまで沈黙していた。
「で、何がしたいの?優等生さん。こんな時間に約束だなんて、アタシの生活態度わかってるくせに」
「……正直、来てくれないだろうって、思ってた」
「なんでよ。ヒナノのためなら起きますよ。夜更かしだって飽きるし」
「夜遊びじゃなくて?」
「んー、まぁ、火遊びはしてないかな」
「どうだか」
「本当だよ。飽きたもん」
うーん、とナナミは伸びをしながら言う。どんな見た目をしていようと、IQがどのようであろうと、人間は所詮人間だ。誰と遊んだところで同じことの繰り返しにしかならない。何もかもマンネリで、もうお腹いっぱいだ。依存する人もいるというが、ナナミは何にも依存できない。快楽にさえも。
「飽きた、か。私も飽きた」
「何に?」
「人生に」
「優等生さんは毎日堅苦しくて人生の楽しみを知らないように見えるけど」
「そうでもないよ。だって、なんでも想像がつく。やってみたところで、全てがデジャヴュ。結果も感想もわかりきってる。新鮮さも驚きも何もない」
ヒナノは目を閉じる。何もかもが想像の範囲内の世界で、これ以上、何をどう楽しめば良いのだろう。今までやったことのない物事に挑戦したところで、湧き上がってくる感情はお馴染みのもの。知識や体験としては新しいものを獲得するかもしれないが、情緒には何一つ追加要素がない。退屈な喜怒哀楽のサイクルに辟易する。
「あー、ね。頭が良すぎるのも大変」
「ね、わかってくれると思った」
「あはは、まーね。何年隣にいると思うの?」
「なら、もうわかるでしょう?」
ずっと天井を見ていたヒナノの目線がナナミに向く。左側だけ耳が出るように髪を留める、金色のアメピンが昇ってきた朝日を受けて眩く光る。
「あと10分でタイムリミット」
「ふーん?」
「言葉はいらない。ただ・・・」
ナナミは頷いた。正直、ナナミもヒナノと同じ気持ちだった。だから今朝、行事の時ですらしない早起きをして学校に——自身の教室から2つ離れたヒナノのクラスの教室に——来たのだ。
ヒナノは窓を開けた。窓の先のテニスコートにはまだ誰も来ていない。窓の真下、豆柘植の植栽に向かってルージュを投げ捨てる。こんもりと丸い低木の中に、細長い直方体のルージュが消えた。
ナナミはヒナノのネクタイに手を掛けるとグッと引っ張る。ヒナノもナナミの緩んだネクタイを握って勢いよく引っ張った。互いの首がギリギリと締まる。歪む視界の中、ナナミは自身のネクタイをヒナノの手から奪うと、手に持っていたヒナノのネクタイと結んだ。首元で結ばれる2本のネクタイ。身体が密着する。互いの肩に顎が乗る。
せーのっ
声にならない、唇だけの掛け声。首に触れる頬の動きでタイミングを測る。
同時に窓から身を乗り出した。日光が眩しい。2人は目を閉じて、重力に引っ張られるまま落ちていった。