#世界に一つだけ
学期初め、ホームルームの時間。いのちのホットラインやチャイルドラインといった名前のついた電話番号のカードが配られる。
「あなたという存在は世界に一つだけです。とても大事な存在です」
その言葉を聞くたびに、私は「そんなことはないけどな……」と思いながら、隣を盗み見る。真剣な顔で黒板を見つめている姉の視線は揺らがない。私の視線に気がついていないだろう。
一卵性双生児、遺伝子も顔も身長も体重も成績も体力テストの結果も声の周波数も全く同じ。数値で測れるものは全て同じで、違うのは性格だけ。優等生で明るく、多趣味で、誰からも好かれて人気者の姉と、先生に迷惑をかけないという点で優等生は優等生だけど何にも興味を持てず、無口で、ひっそりと生きている私。まぁ、一応違いはあるのだから世界に一つだけの存在と言われればそうなのかもしれないけれど、正直私が存在する必要はあるのだろうかと思う。なにせ、数値で測れるスペックは全て同じ。それなら、人に好かれ、頼りにされ、愛されている姉だけで十分ではないかと思う。
そんなことを考えるからといって死にたいとか、消えたいとか、そんなことを思っているわけじゃない。ただ、世界に一つだけというのが本当なのかを私は考えている。
チャイムが鳴った。今日の授業はこれで終わり。姉は友達と遊んだり、部活があればそっちに行くかもしれないけれど、私は家に帰るだけ。声をかけられないうちに教室を出たい。
「悠妃(ゆうひ)、帰るの?」
そう思っていたのに、姉——悠莉(ゆうり)に声をかけられる。
「帰るよ」
「えー、悠妃も吹奏楽部、入ってよ。悠莉が上手いんだから悠妃も上手いって」
いつのまにか悠莉の隣に、別の生徒が立っていた。悠莉と仲の良い子だった気はするが、夏休みを挟んだせいで名前が出てこない。今日も一日、授業の指示以外で誰とも話はしなかったし。
「そうだよ、今なら3rdトランペットが空いてるし。悠莉と同じ身体なんだから、悠妃ならすぐ吹けるようになるって」
「悠莉がいるから、うちが弱小吹部なのわかってるでしょ?別に厳しいことなんてないから。みんなで演奏したい曲を演奏しよう!って部なんだし、悠妃なら今から入っても全然いけるよ」
「……ごめん、休み明けだからか若干頭痛くて。今日は帰る」
「あ、ごめん」
「ううん、また明日」
力なく首を振って教室を突っ切れば、特に止められることもない。何回か使っている手なのでそろそろ仮病とバレていてもおかしくはないが、それを追求してくるほど性格が悪い人がいなくて何よりだ。
重たいスクールバッグを肩にかけて家に向かって歩く。はやく帰りたいような、帰りたくないような。どちらにも傾き切らない微妙な気持ちのせいで足が重い。
(悠莉と同じなんだから)
頭の中でぐるぐると「同じ」という言葉が回る。親も同級生たちと同じことを思っている。悠莉と私は同じだから、同じようにして、同じものを与えていれば不具合はない。食べ物も同じもの、服も同じもの、習い事も同じもの、部活も中学時代は強制だったから悠莉に連れられてテニス部に入った。私は何も選ばないので、親は悠莉が選んだものを私にも与える。否、私が何も言わずとも平等にちゃんと与えてくれて、なぜだかうまくいく。
かといって、親が私に悠莉と同じようにしろ、と強制してきたことはない。高校生になって、私が悠莉と同じように部活に入らなかった。それだけが、これまでの人生と違うが、別にそれを咎めたりはしなかった。返ってきた言葉は「あ、やらないの」の一言だった。ちょっと意外そうな顔はしていた。姉の真似をしなくなっただけとでも思っているような様子だった。
同じ年の同じ日に生まれたのに姉も妹もないと思うのだけれど、一応生まれた順でそういうことになっているから、私は悠莉を姉だと紹介する。悠莉も私を妹と紹介する。スペックは何一つ変わらないのに。違うのは性格だけだが、性格が違うというよりは個性のある姉と無味乾燥な妹という組み合わせであり、陽と陰というべきか。それとも最近、情報で習った現用系と待機系というのが正しいか。
まぁ、要するに。スペアとしての扱いが否めない。自分でもスペアだろうと思う。世界に一つだけの存在はスペアにならない。同じだからスペアになるし、スペアになれる。
私がスペアにならなければならない出来事が、きっとこの先起きるのだろう。
「わっ」
ギュッと後ろから急に抱きつかれた。感触で、相手はすぐにわかる。毎日触っている私の身体と全く同じ身体を持つ人間はこの世界に1人しかいない。
「悠妃、本当に大丈夫?」
「部活行ったんじゃないの、悠莉」
「いやぁ、だってガチ顔色悪かったよ?」
「照明の当たり具合じゃない?」
「じゃあ、頭痛くないわけ?」
「……心配されるほどじゃないよ。音のデカい部活に行けるほど元気じゃないってだけで」
ふぅん、と納得したのかしていないのかよくわからない声で相槌を打って、悠莉が私の手を握った。
「早く帰ってアイス食べよ?」
「別に1人で帰って食べれば?」
「えー、どうせ家に帰るんでしょ?」
「頭痛い人間にアイスなんて食わせる?」
「熱中症かもしれないじゃない。悠妃は夏休みろくに家から出ないかったから、身体が暑さを忘れちゃってるんじゃないの?」
ほら帰ろ、と悠莉が私の手を引っ張っていく。
「気が向いたらでいいからさ、吹部来てよ」
「……なんで?」
「落ち着かないもん。悠妃がいないの変な感じ」
「今までが異常なんだよ、なんでも一緒で。それに、悠莉は私がいてもいなくても変わらないでしょ」
「変わるよ。今までは悠妃がいるから大丈夫でしょって色々冒険できてたけど今はそうはいかないもん」
悠莉の言葉に私はため息をつく。ナチュラルにスペア扱いされた気がしてならない。数値はピッタリ同じなのに、どうにも心がシンクロしている、なんて事態は私たち姉妹には起きないらしい。
「悠妃?」
「……気が向いたらね」
私はそれだけ返した。目の前に伸びる、全く同じ長さの影を恨めしく思いつつ、家に向かってひたすら足を動かした。
#香水
高校世界史。普仏戦争。フランス第二帝政が崩壊し、ドイツ帝国が樹立された。ドイツ皇帝の戴冠式が行われたのは、ヴェルサイユ宮殿、鏡の間。ドイツ帝国の樹立と同時期にイタリアの統一がなされる。なぜなら普仏戦争で負けたフランス軍がローマ教皇領から撤退したから。
明日のテストに向けた居残り勉強。高校で世界史を選ぶ生徒は少なく、一学年300人、うち160人が文系のこの高校でも、世界史を選んだのはたったの6人。うち4人が女子であり、世界史の授業で男子は圧倒的なマイノリティである。
色白、細身、銀縁メガネ、図書委員の裕一郎と日に焼けた肌、マッチョな体格、ラグビー部の紘也。普通だったら交わることのない2人だが、親しくなるのに時間はかからなかった。なにせ、希望者のほとんどいない世界史を選ぶ変わり者である。
2人とも興味もそこそこに面白半分で、2年の終わりの社会科科目希望調査で世界史探究に丸をつけた。なにせ毎年希望人数が少なく、開講基準の10人を下回ると聞いていたから、希望したところで実施されないだろうと思っていたのだ。それなのに、たまたま今年度赴任してきた教師が世界史を専門としていたから、例外的に開講されてしまった。
共通テストまで1年もないのに先史時代から21世紀まで学ぶ無茶苦茶なスケジュールも、Xデーまであと4ヶ月。少人数なのを良いことに飛ばしたペース進められる授業により、2学期中間テストの範囲はナショナリズムまでである。期末テストで帝国主義、植民地化、世界大戦、戦後をやるのだろうが、これらは歴史総合とも被っている範囲だから、多少の余裕が生まれているとも言える。
「いつも絵を見て思うんだけどさ」
資料集を見ていた裕一郎がつぶやきに、単語カードを捲っていた紘也は手を止める。
「ヴェルサイユ宮殿、めちゃくちゃ臭かっただろうな」
「……は?」
裕一郎の発言は用語とも歴史の流れとも全く関係のない内容で、紘也は思わず間抜けな声を上げた。
「絶対臭かったと思う」
「いや、待って、いきなり何。俺なんか今日臭う?」
「なんでそっちに思考が飛ぶの?絵を見てって言ったじゃん」
「そうだけど。いや、なんで?どういう思考でヴェルサイユ宮殿が臭いって話になるの」
時々、真面目そうな顔で——否、本人は至って真面目なのだが——周りからすればぶっ飛んだ発言をするのが裕一郎だ。エリート風味の優男な見た目なのに彼女がいないのは絶対こういうところが玉に瑕なんだろう、と爆弾発言が出るたびに紘也は思っている。
「いや、姉ちゃんが最近フランスに行ってたんだけど」
「あぁ、うん。それって大学生の姉ちゃん?」
「そうそう。短期留学で3ヶ月。結婚した方の姉ちゃんは名古屋にいる」
裕一郎は3人姉弟の末っ子ゆえ、家族の話題になるとよく姉2人の話が出てくる。しかし紛らわしいことに裕一郎はどちらも「姉ちゃん」としか呼ばないので、どちらの姉の話をしているのか確認しておかないと、前情報との齟齬が起きて紘也の頭が混乱する。
「OK。で、なに。ヴェルサイユ宮殿行ったの?」
「それはまぁ、行くよね。そこでの詳しい話は帰り道にする。ここじゃスマホ出せないから。でも、今言いたいことは別に宮殿で何かあったってわけじゃなくって、その道中」
「道中。そもそも行き方がわからん」
「パリからだから鉄道で行く。で、その鉄道。真夏に行ったらしいんだけど臭いがやばいんだって。たまたま姉ちゃんが乗ったところが悪かったのかもしれないけど、汗、体臭、腋臭、それから香水の匂いが混じって、車の中で本読んでも酔わない姉ちゃんですら気分悪くなるくらい臭かったらしい」
「へぇ」
「ピンと来ない?」
裕一郎がニヤッと笑って首を傾げる。紘也は眉を顰めた。集中力が切れたからなのか、腹が減ったからなのか、頭が働かない。
「……何にピンと来たらいいの?」
「ヴェルサイユ宮殿が臭いってこと」
「あぁはいはい、ってならないよ。説明」
「フランス人ってあんまり風呂に入らない、というか、姉ちゃんが言うにはシャワー浴びても頭洗わないことがあるらしくってさ。あと、服の洗濯頻度が低い。加えて、一般的にアジア系よりヨーロピアンもアフリカンも体臭とか腋臭とかキツイらしい。まぁ、この絵の時代だとヴェルサイユ宮殿に入れるアフリカンはほとんどいないだろうけどさ……」
「まぁ、植民地化はもうやってるから兵士にはいるけど」
「そうだね。で、そもそも香水って単体で嗅げばいい匂いだけど、混ざると臭いじゃん。香水じゃないけど、体育の後の教室とかさ」
「それはわかるけど……あ、そういう?」
やっと言いたいことがわかったと紘也が軽く首を振れば、裕一郎は満足そうに頷く。
「そもそも香水って体臭消しとして発展してきたもののわけ。とはいえ消せるレベルに限度はある。そりゃ、昔はこの夏みたいには暑くなかっただろうけど、人間、生きていれば何かしら体臭はあるし、汗かくし、うっかり服汚したりもするし。消せない悪臭と香水、しかも数種類混じったのを想像したら……」
「ウゲェ……」
「トイレとかも整備されてないしね。18世紀が舞台だけど、パトリック・ジュースキントの『香水』でもパリは悪臭の街として書かれてるし……まぁ、今も場所によっては悪臭の街らしいけどさ。少し離れているとはいえヴェルサイユも例外じゃないと思う、宮殿が使われている時代なら特に」
「なるほど。今回は割と妥当な話だった」
「ちなみに、姉ちゃん、電車の中での出来事があまりにもトラウマすぎて、香水買って帰るって言ってたのに一瓶も買わずに、むしろデオドラント買ってた。姉ちゃんから臭いしたことないのに」
「そっか」
「香害のヤバさを知った、香水なんて公共の場でつけるもんじゃない、とかなんとか」
「よっぽどだったんだな……」
紘也と裕一郎は顔を見合わせて苦笑いする。従業員の制服の柔軟剤の匂いですら揉める日本だ。香気も臭気もない空気で育った鼻には耐えられない臭さだったのだろう。
「俺たちが香水を使う日、来るのかな」
紘也は言った。ファッショナブルと言われるほど見た目に頓着しているタイプではない、というよりかは洒落た服には身体が入らないのでオシャレのしょうがないのだが、その分アクセサリーだとか、香水だとか、身体のサイズが関係ないものには興味があった。
「いやぁ……どうだろう。女の人だとつけてるかもしれないけど、男で香水つけてるのってホストくらいじゃない?」
「イメージ的にはそう」
「僕は姉ちゃんを泣かせないように、無臭になるよう努める気だけどね」
「下手に匂うよりは無臭が良いか」
「多分」
紘也が自身のリュックサックに視線を向ける。裕一郎も少し体を曲げて紘也の視線を追う。サイドポケットには黄緑色のシーブリーズが刺さっている。
「……無香料、買おう」
「それが良いよ」
#言葉はいらない、ただ・・・
朝6時15分。
3年2組の教室で、2人の女子生徒が向かい合っていた。朝練がある部活のために校門は6時に開けられる。とはいえ、それは運動部のための措置であって、教室に生徒がいるのは異常だった。
「そういえば、よく鍵を開けてもらえたね」
机に軽く腰をかけたボブヘアの生徒、ナナミが言った。
「……開けてもらってなんかない。私が昨日、閉めずに帰っただけ」
壁に寄りかかっている、耳の高さで長髪を一つに縛った生徒、ヒナノが目線を蛍光灯に向けて言った。電気はつけていない。教室は薄暗いが、教師や他の生徒にバレたら面倒だから明かりはつけない。
そもそも明かりなど、2人には必要なかった。
「優等生なのにそんなことしていいんだ」
「優等生だからできるの」
「それもそうだね。アタシがやったら……というか、アタシが鍵閉め当番になったら絶対担任のやつ、確認しにくる」
「ふっ、容易に想像がつくわ」
「鼻で笑いやがって」
ナナミが笑う。白い小さな歯が赤い唇から覗く。自然の血色ではない、ルージュを塗った唇。目元も、肌も、髪の色だっていじっていない、生まれ持った造形のままだが、唇だけ、違う。上下の唇は人工の赤で彩られていた。
ヒナノも同じだった。一文字に結ばれた唇は真っ赤だ。ネクタイを緩めているナナミとは違い校則通りに真面目に着こなした制服、キーホルダー一つ付いてない鞄、磨かれたローファー。優等生然とした佇まいの中で唇だけが異質だった。
2人の唇を染めた有名ブランドのリキッドルージュは、窓枠に転がっている。明るいところで見れば目を引く熟れたリンゴのような赤色は、薄暗い教室では赤黒く毒々しい色に見えた。まるで血液、さらにいえば静脈血のような赤黒さだ。
この赤い液体を持ってきたのはヒナノだ。午前6時10分、ナナミが教室に着いた時にはもうヒナノは来ていて、ナナミを手招きして机に座らせると、無言でペンケースからルージュを取り出し、ナナミの唇にチップを乗せた。ナナミも無言でされるがままに、薄く唇を開いてチップが唇から離れるのを待った。
ナナミにルージュを塗り終わると、ヒナノはナナミにルージュを持たせた。やることは一つしかない。ナナミもヒナノの唇にチップを這わせて、紫がかった桜色を赤く染めた。そして、そのまま互いの唇が乾くまで、ナナミが言葉を発するまで沈黙していた。
「で、何がしたいの?優等生さん。こんな時間に約束だなんて、アタシの生活態度わかってるくせに」
「……正直、来てくれないだろうって、思ってた」
「なんでよ。ヒナノのためなら起きますよ。夜更かしだって飽きるし」
「夜遊びじゃなくて?」
「んー、まぁ、火遊びはしてないかな」
「どうだか」
「本当だよ。飽きたもん」
うーん、とナナミは伸びをしながら言う。どんな見た目をしていようと、IQがどのようであろうと、人間は所詮人間だ。誰と遊んだところで同じことの繰り返しにしかならない。何もかもマンネリで、もうお腹いっぱいだ。依存する人もいるというが、ナナミは何にも依存できない。快楽にさえも。
「飽きた、か。私も飽きた」
「何に?」
「人生に」
「優等生さんは毎日堅苦しくて人生の楽しみを知らないように見えるけど」
「そうでもないよ。だって、なんでも想像がつく。やってみたところで、全てがデジャヴュ。結果も感想もわかりきってる。新鮮さも驚きも何もない」
ヒナノは目を閉じる。何もかもが想像の範囲内の世界で、これ以上、何をどう楽しめば良いのだろう。今までやったことのない物事に挑戦したところで、湧き上がってくる感情はお馴染みのもの。知識や体験としては新しいものを獲得するかもしれないが、情緒には何一つ追加要素がない。退屈な喜怒哀楽のサイクルに辟易する。
「あー、ね。頭が良すぎるのも大変」
「ね、わかってくれると思った」
「あはは、まーね。何年隣にいると思うの?」
「なら、もうわかるでしょう?」
ずっと天井を見ていたヒナノの目線がナナミに向く。左側だけ耳が出るように髪を留める、金色のアメピンが昇ってきた朝日を受けて眩く光る。
「あと10分でタイムリミット」
「ふーん?」
「言葉はいらない。ただ・・・」
ナナミは頷いた。正直、ナナミもヒナノと同じ気持ちだった。だから今朝、行事の時ですらしない早起きをして学校に——自身の教室から2つ離れたヒナノのクラスの教室に——来たのだ。
ヒナノは窓を開けた。窓の先のテニスコートにはまだ誰も来ていない。窓の真下、豆柘植の植栽に向かってルージュを投げ捨てる。こんもりと丸い低木の中に、細長い直方体のルージュが消えた。
ナナミはヒナノのネクタイに手を掛けるとグッと引っ張る。ヒナノもナナミの緩んだネクタイを握って勢いよく引っ張った。互いの首がギリギリと締まる。歪む視界の中、ナナミは自身のネクタイをヒナノの手から奪うと、手に持っていたヒナノのネクタイと結んだ。首元で結ばれる2本のネクタイ。身体が密着する。互いの肩に顎が乗る。
せーのっ
声にならない、唇だけの掛け声。首に触れる頬の動きでタイミングを測る。
同時に窓から身を乗り出した。日光が眩しい。2人は目を閉じて、重力に引っ張られるまま落ちていった。
#やるせない気持ち
山間の田舎、国立大学があるおかげでかろうじて就職前の若者ならいる町。とはいえ夏休みの今は皆帰省しているのか、あるいは旅行に行っているのか、普段なら盛況だと記憶している金曜の居酒屋も人が少ない。料理や飲み物を持ってあくせく動いているのはパートのおばさんか、どこか諦めた顔をした若者だ。きっとこの町出身なのだろう。帰省する先はないし、遊びに行く相手もいない。暇つぶしに働いている、と言ったところか。若者は失礼します、と身に覚えのある表情で座敷に上がり、カプレーゼ—それはデザートじゃないだろとツッコまれながら私が頼んだ料理—を運んできてくれた。
「あぁ……なんで彼氏できないんだろう」
佳澄はカプレーゼをつつきながらため息をついた。私は何も言えずに曖昧な笑みを浮かべてジャスミンティーを飲む。恋愛は私に向ける話題としては一番不毛な部類なのだけれど、お酒が入った佳澄はそのことを忘れているらしい。
「夕実乃はどうなの?なんかそういう話ないの?」
「ないかな。そもそも家から出ないし……。でも本当に不思議。佳澄、彼氏いそうなのに」
「よく言われる。彼氏いない歴イコール年齢なんだって」
そう言って佳澄はグラスを煽った。本日3杯目の白ワインーアルコールとしては5杯目ーが空になる。下戸な私とは異なり酒豪な佳澄だが、食事が始まってまだ1時間も経っていない。流石に飲み過ぎではなかろうか、と思ったが口には出さなかった。
佳澄と私の関係は大学時代まで遡る。出会ったのは地元の大学のゼミで、同時期にイギリスに留学した際に仲良くなった。いや、仲良くなったというよりは佳澄が仲良くしてくれたと言う方が正しい。国内だろうと国外だろうと、別に望んだわけではないのに気がついたら独りで過ごしている私は、ゼミでも学生の輪からやや離れた、一匹狼のようなポジションでいたのだが、留学中は佳澄が友達の輪に私を入れてくれた。おかげで無事に乗り切れた場面も多く、ゆえに私は佳澄に心の底から感謝を捧げている。
だから、「お盆とは少しずれてるけど、予定が合えば久しぶりに帰省するから会わない?」という連絡が来た時は二つ返事で了承した。恩人、佳澄からの誘いを断るわけがないし、現実問題としてもリモートワークフレックスタイム制の私が、予定を合わせられないわけがないので。朝7時から仕事をすれば16時には上がれるのだから、ディナーに遅れるわけがない。まぁ、素敵なディナーができる店なんてないので、行き先は学生の時と変わらず居酒屋だが。
「出会いが欲しい」
「この山ばかりの地元でそれならわかるけど、佳澄は都会で働いてるんだし、遊びにだって出かけるし……出会う環境はあるでしょ?」
「それはそうなんだけどさぁ」
「そうなんだけど……どうしたの?」
私は首を傾げてみせた。あくまでも軽やかに、深刻にはならないように。とはいえ、話を逸らされないように口調と仕草に気をつける。輪切りにされたトマトからモッツァレラチーズが滑り落ちた。あぁ、もう。
卒業後、東京都内の会社に就職した佳澄は盆も正月も地元に帰ってこなかった。某SNSでの様子を見る限り、イベントにライブにバンド活動に、と休日も忙しい日々を送っているようだったのでさもありなん、暇がないのだろう。趣味に全力の明るいオタク、それが佳澄であるので帰省しないこと自体は気にしていなかった。逆に今年、社会人4年目の今年、最盛期は過ぎたとは言えまだまだイベントやフェスの多い8月中に地元に帰ってきた佳澄が気になった。
「……別にね、仲良くはなれるの。でも、友達止まりというか、異性だと思ってもらえてないというか」
「そう?こんなにかわいいのに?」
思わず私は食い気味に言った。佳澄はかわいい、と思う。私が友達全員をかわいいと思っているタイプの人間なので、友達フィルターがバチバチにかかっているのは否めないが、それでも佳澄はかわいい、と思う。色白の肌、明るめの髪色、少し柴犬っぽさのある三角形に近い形の目、いつもニコニコと笑っているかのような口元、柔らかな丸い輪郭。いつまでも見ていられる愛嬌のある佳澄のかわいさは、唯一無二だと私は思っている。
「別にかわいくはないよ。やっぱりあれかな、長女かつ下が弟ばっかりだとそうなるのかな。甘え下手だし、可愛げはないし、下手に男子側の話題がわかっちゃうから」
「さぁ、一人っ子にはなんとも……。でも、佳澄がかわいいのは確かだよ。自然体っぽく見せてるけどファッションだって気を使ってるし、アクセサリーだってセンス良いし、声とか雰囲気もかわいいのに。ぱっと見でわかるくらい人の良さ、性格の良さ、美的センスの良さが滲み出てるもん」
「そんな言うの、夕実乃だけだよ」
「そうなの?魅力の塊なのに?」
私はファッションに疎いので詳しいことはよくわからないが、佳澄の服装は佳澄に合っていてかわいい、と思う。なんと言ったら良いのかわからないが、とにかく佳澄らしいのだ。モスグリーンに小花が散るシフォンのワンピースも、耳にぶら下がる雫型のピアスも、手首の銀色のバングルも。座敷に入るまではラフなグラディエーターサンダルからのぞいていたペディキュア、手元を彩るネイルチップ、手羽先を食べる時に髪を縛っていた飾り付きのヘアゴム……どれもが佳澄と調和して、愛らしい。無理な背伸びもなければ、身をやつしているわけでもない。自分にぴったりな服を選ぶのに長けているな、といつも思う。
「みんなが夕実乃みたいに思ってくれればいいんだけどね。っていうか、夕実乃こそ都会に出ればいいのに。磨けばすぐ彼氏できると思うよ」
「いや、求めてないし……」
「まぁ、そうだろうけどさ。私なんて見た目は並みオブ並みな人間だから、中身で勝負ってなるけど、中身で勝負になると恋愛枠に入れてもらえなくなるというか」
「うーん、なんでだ?」
「わからない。趣味の合う人が良いからって趣味から関係に入るのが良くないのかな。友達になっちゃって」
「趣味、割と定番だと思し、それ以外って社内恋愛でもない限り思いつかないんだけど」
「社内恋愛は嫌だ、面倒くさいし。それに前に話したと思うけど、高校の時とかも同じバンド内で付き合って関係悪くしたらどうしようとか思っちゃって結局一歩踏み出せなかった人間だから、社内恋愛はできない。無理だもん、破局した後のことを考えると」
「それはそうか……?いや、会社の人に直に会うことほぼないからあんまりイメージが湧かなくて」
「リモートならいいかもね。……って、この山の中からじゃ他県になるだろうから、実現したらネット恋愛にならない?そうそう会えないでしょ、リアルで」
「多分。ほぼネット恋愛だね」
「うわぁ……それを社内恋愛と称するのはやるせない気持ちになるわ。社内じゃないじゃん」
「そうね……。物理的には社内じゃないけど、VPN繋ぐとネットワーク的に社内だからバーチャル社内、みたいな」
同じ建物にいるわけではないが、VPNを使えば社内のネットワーク、会社の社屋にいる時と同様のネットワークになるわけで、それは社内と言えるのか、否か。言い換えるならVPNを繋いだパソコンがある自室はオフィスと言えるのか、否か。
(いや、社内恋愛の社内って人に対してかかってるよな?)
そんな考えが頭をよぎるが、口にしない。相手はほろ酔いだ。真面目な返しをし求められているわけではないだろう。やっとのことでモッツァレラチーズをトマトに乗せ直すことに成功し、急いで口に入れる。もう一度滑り落ちられても困るので。
「バーチャル社内……せめてバーチャルリアリティ使ってからにしよう?」
「VRかぁ、あれ酔うんだよね。長時間やるものじゃないし、結局アバターだし」
「そうだよね。相手の顔は見えないわけで……でもバーチャル社内で恋愛したら教えて」
「いやいや、だから、しないって」
「わからないじゃない」
「わからないのは佳澄の方だよ。人付き合い上手いし、別に極端に男性が少ない趣味でもないし、なにより可愛いし、案外これから良い人ができてゴールインするかもよ?」
「無理無理。可愛くも可愛げもないもん」
「言ってもまだ26歳だし、佳澄は求めてるんだし」
「無理だよ……求めててこれなんだから……そろそろアラサーなのに」
そう否定する佳澄に、やるせない気持ちが湧いてくる。
(なんでかなぁ……)
佳澄、かわいいのに。付き合って損する相手じゃないのに。私のように引きこもり同然で人目に触れていないというわけじゃないのだから、世間の男の目は節穴なのだろうか。それとも、佳澄に相応しい人がまだ現れていないのか。わからない。わからないし、私が助太刀できる問題でもない。何せ彼氏を欲しいと思ったことがないし、友達も知り合いも少ないので。
私はグラスを口元まで掲げて、佳澄にはわからぬようため息をつく。ジャスミンティーを飲み干した。どうにもできないやるせなさで、爽やかなはずのお茶の味は苦く感じた。
#鏡
(この世に鏡なんてなければよかったのに)
洗面所で毎朝そう思う。鏡がなければ、自分の姿が見えなければ、人々は—特に女の子は—こんなに苦しむことはなかったのに。そう、娘が苦しむ姿を見て思う。
「……なんでママに似なかったんだろう」
それが中学2年生の娘の口癖だ。前々から鏡をじーっと見ていたが、この夏休みに入ってからはその行動がより酷くなった。暇さえあればずっと洗面台の前にいて、鏡で自分の顔を見続けている。
確かに娘は父親似で、それでも私からみれば可愛いのだけれど、客観的に描写するなら目は奥二重だし、眉の長さが短くて麻呂眉っぽいし、鼻が少し幅広だし、口は小さめで、丸顔で、背も低めだが、だからと言って悲観するほどの顔でもスタイルでもないし、そもそも人生、容姿で悲観する必要は特にない。気にすべきは表情であり、身だしなみであり、所作振る舞いであり、教養であり……とりあえず言いたいこととしては、顔の造りやスタイルではない。
そう言い聞かせ続けているのだが、娘には「ママは生まれつき美人だからわからないよ」と言われてしまい、ここ最近はもう黙るしかない。娘が言うには二重の大きな目、長いまつ毛、形の良い左右対称の眉、鼻は特別高くも低くもなく顔の中心にあれど主張せず、唇は程よい厚みで口は大きすぎず、顎は小さすぎず丸身を帯びていて卵形の輪郭というのを私の顔は兼ね備えており、それは美人の顔なのだと言う。顔面偏差値アプリだってS評価だと証拠のようにスマホの画面を見せてくる。そして背も平均より高く、ほぼ8頭身で、足の長さは身体の約47%と長いし、腕もそれに比例して長い、しっかりした肩とくびれのあるウエストの対比ゆえにエックス型の女性らしい体型でスタイルだって良い、と何やら私の身体をメジャーで測りながら主張していた。
「でもね、小雪ちゃん」
私は諦めつつ声をかけた。娘が洗面所に立ち続けて2時間が経つ。別に洗面所に用があるわけではないので邪魔ではないのだが、さすがに病的だ。
「私だって肌の色が浅黒く年中小麦色で、それが昔はコンプレックスだった。でも、陽菜乃ちゃんと同じくらいの歳の頃に、小麦色の肌だって健康的で素敵だと思うようになった。そもそも肌なんて歳を取れば黒ずみ、シワシワになり、シミが湧いてくるものだしね。こだわったところで仕方がないって思うようになったのよ。ありのままの自分で満足するようになったの。とはいえ、小雪ちゃんが色白に生まれた時はよかったなって思ったけど。何色の服を着せても似合うし」
「そりゃ、肌はパパに似て良かったかなって思った。でも、そのプラスをマイナスにするくらいそれ以外の要素が嫌い」
「小雪ちゃん、どうせ見た目は衰えるのよ。最終的にはどうでも良くなるの」
肌はともかく容姿全体、どんなに美人に生まれたとしても歳を取ればおばあさんにはなるし、どんなにスタイルが良くても歳を取れば縮むのだから、こだわったところでどうしようもない、と私が思うようになったのは娘に言ったように中学生の頃だった。確か女優のマギー・スミスの若い時を見た時に思ったのだったか。若い時は美人でも、歳を取ればどうしたってバランスは崩れる。肌はシワシワに、目は落ち凹むか飛び出るか、口元は間延びするし、輪郭だって変わる。それでも総合力があれば「美しい」のだと思った。
だから私は、人を見るときも容姿は気にしなくなった。どうせ生きている限り、容姿は移り変わるものなのだ。だから、文学という趣味が合い、会話を楽しめる夫を選んだ。初めて写真を見せたとき、両親には「……へぇ」と言われた。夫はイケメンとは言えない、背も高くない、と言うか私の方が高いので男性にしてはかなり低い。男性平均より10cmは低い。職業が医者でなければ、両親からはもっと酷い反応をされただろう。
それでも、いくら本を買っても怒らない、同人活動に参加するのを茶化さない、旅行の際に作家の聖地巡礼を組み込んでも嫌がらない人、というのを条件にして選んだ夫は私にとっては最高の人だ。夫婦で読書会ができるし、新刊のために書いた一次創作小説の原稿も楽しそうに読んでくれるし、頼めば本棚を増設してくれるし、旅行で観光地でもなんでもない場所に立ち寄るのも許してくれる、というか夫も乗り気でついてきてくれる。娘に対してだって、忙しくても一日一回は何かしら会話しようとしてくれるし、学校行事にはなんとか都合をつけて出てきてくれるのだから良い父親のはずなのだ—見た目を受け継いだと言う一点を除いては。
「はぁ……ママは本当にわかってない。歳をとった時のことは考えてないの。大事なのはこれから謳歌する青春、若者でいられる期間においてなの」
「仮に私が美人だとしても、若い頃に特に恩恵なんてなかったけれど……ノリの良い明るい子たちの方が断然楽しんでいたわ」
「違うの、生物として一番美しくいられる期間を目一杯、自分のために楽しみたいのに見た目のせいで楽しめないの」
「そこがよくわからないのよ。別に好きな格好をして好きな場所に行けば良いじゃない。美しさが何に影響するの?鏡を見る時間を好きなことをする時間に使いなさいよ、メイクしているわけでもないんだし」
私たちは一般人である。別に娘も芸能人になりたいと主張してきたことはない。だとしたらなぜ、美しい容姿が必要なのだろう。芸能人のような容姿が評価に加わる仕事が夢というのならまだしも。そもそも大人になればメイクでいくらでも化けられるし、娘が望むなら成人後に目を二重にするくらいなら止めはしない。眼瞼下垂症の治療のようなものだ。目がぱっちり開いた方が気持ちだけでも世界が見えやすくなるというのなら安い物だと思う。
だが、娘は「天然の美人」にこだわるらしい。可愛くはなりたい、美人にはなりたい、けれど、誤魔化したくはない。本人曰くナチュラルメイク以上のメイクや、整形、厚底ブーツ、写真の加工も誤魔化しなのだと言う。雰囲気可愛いや雰囲気美人も嫌いだと言う。娘の詐欺メイクや整形、カメラのフィルターや加工アプリに向ける視線は厳しい。それらは本物の美人ではない。不自然だ。人工物だ。
「生まれながらの美人、素材からして美人であることにこそ価値があるの!」
そう言って、鏡を見てはため息を吐く。こんな生活を夏休みに入ってずっと繰り返している。自分は美人ではない。顔面偏差値アプリではどうやってもBより上にはならないし、いくらまだ成長期と言ってももうあまり背も伸びないの身体における足の長さは46%になるかどうかといったところで7頭身がやっとだし……とぶつくさ言い続けている。
(どうしたらこの状況を打開できるのだろう)
娘には私の言葉が届かない。なぜなら私は娘にとって美人だから。かと言って、夫にはさすがに言えない。娘も、夫がいる日にずーっと鏡の前に立ち続けることはない。親族間の笑い話として「パパ似なのが嫌だ」みたいに言いはするが、それはあくまでも笑い話の文脈であって、さすがの娘も「心の底からパパ似なのが嫌で仕方がありません」という姿を本人に見せるのは悪いと思うのだろう。
そもそも娘は夫の素晴らしい頭脳を受け継いでいて、その点には感謝しているはずなのだ。別に私かて偏差値60の高校および大学の出身なのだから、仮に私の頭脳を受け継いだからと言って一般的には頭が悪いことにはならないけれど、偏差値68かつ理数系に強い頭脳を受け継いだ方が学業上は楽だ。娘はその頭脳を受け継いでいるにも関わらず、容姿に過度に執着している点が本当によくわからないのだけれど。なぜこの一点だけ、物分かりが良くないのだろうか。
(ねぇ、鏡よ、鏡さん)
私はほとほと困って、鏡に向かって心の中で呼びかける。
(世界で一番じゃなくてもいいから、娘に美人だって、生まれながらに美人だって言ってあげてよ)