キトリ

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#言葉はいらない、ただ・・・

朝6時15分。
3年2組の教室で、2人の女子生徒が向かい合っていた。朝練がある部活のために校門は6時に開けられる。とはいえ、それは運動部のための措置であって、教室に生徒がいるのは異常だった。

「そういえば、よく鍵を開けてもらえたね」

机に軽く腰をかけたボブヘアの生徒、ナナミが言った。

「……開けてもらってなんかない。私が昨日、閉めずに帰っただけ」

壁に寄りかかっている、耳の高さで長髪を一つに縛った生徒、ヒナノが目線を蛍光灯に向けて言った。電気はつけていない。教室は薄暗いが、教師や他の生徒にバレたら面倒だから明かりはつけない。

そもそも明かりなど、2人には必要なかった。

「優等生なのにそんなことしていいんだ」
「優等生だからできるの」
「それもそうだね。アタシがやったら……というか、アタシが鍵閉め当番になったら絶対担任のやつ、確認しにくる」
「ふっ、容易に想像がつくわ」
「鼻で笑いやがって」

ナナミが笑う。白い小さな歯が赤い唇から覗く。自然の血色ではない、ルージュを塗った唇。目元も、肌も、髪の色だっていじっていない、生まれ持った造形のままだが、唇だけ、違う。上下の唇は人工の赤で彩られていた。

ヒナノも同じだった。一文字に結ばれた唇は真っ赤だ。ネクタイを緩めているナナミとは違い校則通りに真面目に着こなした制服、キーホルダー一つ付いてない鞄、磨かれたローファー。優等生然とした佇まいの中で唇だけが異質だった。

2人の唇を染めた有名ブランドのリキッドルージュは、窓枠に転がっている。明るいところで見れば目を引く熟れたリンゴのような赤色は、薄暗い教室では赤黒く毒々しい色に見えた。まるで血液、さらにいえば静脈血のような赤黒さだ。

この赤い液体を持ってきたのはヒナノだ。午前6時10分、ナナミが教室に着いた時にはもうヒナノは来ていて、ナナミを手招きして机に座らせると、無言でペンケースからルージュを取り出し、ナナミの唇にチップを乗せた。ナナミも無言でされるがままに、薄く唇を開いてチップが唇から離れるのを待った。

ナナミにルージュを塗り終わると、ヒナノはナナミにルージュを持たせた。やることは一つしかない。ナナミもヒナノの唇にチップを這わせて、紫がかった桜色を赤く染めた。そして、そのまま互いの唇が乾くまで、ナナミが言葉を発するまで沈黙していた。

「で、何がしたいの?優等生さん。こんな時間に約束だなんて、アタシの生活態度わかってるくせに」
「……正直、来てくれないだろうって、思ってた」
「なんでよ。ヒナノのためなら起きますよ。夜更かしだって飽きるし」
「夜遊びじゃなくて?」
「んー、まぁ、火遊びはしてないかな」
「どうだか」
「本当だよ。飽きたもん」

うーん、とナナミは伸びをしながら言う。どんな見た目をしていようと、IQがどのようであろうと、人間は所詮人間だ。誰と遊んだところで同じことの繰り返しにしかならない。何もかもマンネリで、もうお腹いっぱいだ。依存する人もいるというが、ナナミは何にも依存できない。快楽にさえも。

「飽きた、か。私も飽きた」
「何に?」
「人生に」
「優等生さんは毎日堅苦しくて人生の楽しみを知らないように見えるけど」
「そうでもないよ。だって、なんでも想像がつく。やってみたところで、全てがデジャヴュ。結果も感想もわかりきってる。新鮮さも驚きも何もない」

ヒナノは目を閉じる。何もかもが想像の範囲内の世界で、これ以上、何をどう楽しめば良いのだろう。今までやったことのない物事に挑戦したところで、湧き上がってくる感情はお馴染みのもの。知識や体験としては新しいものを獲得するかもしれないが、情緒には何一つ追加要素がない。退屈な喜怒哀楽のサイクルに辟易する。

「あー、ね。頭が良すぎるのも大変」
「ね、わかってくれると思った」
「あはは、まーね。何年隣にいると思うの?」
「なら、もうわかるでしょう?」

ずっと天井を見ていたヒナノの目線がナナミに向く。左側だけ耳が出るように髪を留める、金色のアメピンが昇ってきた朝日を受けて眩く光る。

「あと10分でタイムリミット」
「ふーん?」
「言葉はいらない。ただ・・・」

ナナミは頷いた。正直、ナナミもヒナノと同じ気持ちだった。だから今朝、行事の時ですらしない早起きをして学校に——自身の教室から2つ離れたヒナノのクラスの教室に——来たのだ。

ヒナノは窓を開けた。窓の先のテニスコートにはまだ誰も来ていない。窓の真下、豆柘植の植栽に向かってルージュを投げ捨てる。こんもりと丸い低木の中に、細長い直方体のルージュが消えた。

ナナミはヒナノのネクタイに手を掛けるとグッと引っ張る。ヒナノもナナミの緩んだネクタイを握って勢いよく引っ張った。互いの首がギリギリと締まる。歪む視界の中、ナナミは自身のネクタイをヒナノの手から奪うと、手に持っていたヒナノのネクタイと結んだ。首元で結ばれる2本のネクタイ。身体が密着する。互いの肩に顎が乗る。

せーのっ

声にならない、唇だけの掛け声。首に触れる頬の動きでタイミングを測る。

同時に窓から身を乗り出した。日光が眩しい。2人は目を閉じて、重力に引っ張られるまま落ちていった。



8/29/2024, 3:38:41 PM