シュグウツキミツ

Open App
10/8/2024, 11:44:46 PM

その日は朝から大変だった。電話番の三輪ちゃんは風邪で休むし、依頼の電話は次々かかるし、昨日の仕事の書類もあるし、そういう時に限って滅多に来ない警察の見回りも来るしで、自分が今何をやっているのかもわからないほどだった。
すこしだけ休むことにする。
溜まった作業は取りあえずは置いといて、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。ちょっとした茶菓子を持って、仕事スペースから離れて、一杯飲む。コーヒーの香りに没頭している時間が束の間の休憩である。
ふ、と顔を上げて天井を見る。天井にはいくつかの穴が空いている。一つや二つは屋根まで通っているんじゃないかな。リフォームを勧められるが、この跡だけは取っておきたい。
銃なんて本物を目の前にするのはあれが初めてだった。
まだ素人だったころ、散歩の途中で逃げてしまった飼い犬が見つからず、いよいよこの探偵事務所のドアを叩いた。
綾乃がいた。
背の高いスラリとした細身の女で、体の線がわかるようなスーツを着ていた。眼鏡の奥にはキツい目が光っていた。
中学生だった俺はすっかり魅せられてしまい、押しかけるように事務所に通うようになった。
あの日、逃げた俺の犬が見つかった。保護していた家取り戻した綾乃だったが、だがその家が不味かった。御礼参りとかで武装した男達が事務所に押しかけ、俺から強引に犬を取り上げようとしたところで、綾乃と乱闘になった。
綾乃は強かった。
だが、俺がいた。俺をかばいながらは戦いにくかっただろう。
とうとう相手は銃を取り出し、綾乃と天井を打ち抜いた。

そうまでしてどうして俺の犬が狙われなければならなかったのか。綾乃はなぜ撃たれなければならなかったのか。
獣医に犬を診てもらってもわからなかった。

俺は手掛かりを見つけなければならない。あの事務所が、どうやら女衒みたいなことに手を出しているっぽいところまではわかった。三輪ちゃんに一晩粘ってもらって、ようやく尻尾を掴めた。無理をさせてしまい、三輪ちゃんは今日は風邪だ。この女衒稼業がヒントになるかは分からないが、まずはここから。

気合を入れて、俺は電話が鳴る事務所へと戻っていった。

10/8/2024, 12:24:19 AM

サマンサは気のいい少女である。いつも笑顔で周囲を温かくさせる。サマンサが困っていたり悩んでいたり、怒ったりしているところをブライアンは見たことがなかった。
「サマンサ」
「ブライアン、ほら、これがその葉っぱだよ」
笑顔で教えてくれるが、「その」がどれだかは分からない。頭の中での想像は他人とは共有できない、という理解がいまひとつできないのだ。
「風が冷たくなってきた。中に入ろう」
それでもブライアンは、サマンサが自分の大事なものを教えてくれたのは分かった。それが嬉しかった。

その施設には、程度が様々な障害がある子供が暮らしていた。訓練を受けて自立を目指せる子もいれば、一生にわたってサポートを必要とする子もいる。
サマンサは運動能力は問題なく、手先も器用で、人とのコミュニケーションも取れる。
だが、他人の怖さを知らない。
それはそれで、彼女のこれまでの人生の幸福さと幸運さを表すものなのだが、世間というものがそれだけで済まないことは自明である。彼女の明るさを損なわずに世間の荒波を越えられるようにしてあげられるのか。

その日は外出日だった。付添人とともに街に出て、物を買ったり喫茶店に入ったり、観劇することもある。
丁度市場が開かれる期間だったので、ブライアンはサマンサに付き添って市場へ向かった。
物を買う人や売る人が集まり、ざわめきが地鳴りのように響いていた。
サマンサは臆することもなく、楽しそうにあちこち店を眺めていた。
「やあ、可愛いお嬢さんだね、買っていかない?」
恰幅がある男が笑顔で誘う。
サマンサは店先の帽子を眺め、
「これにする!」
と一つの帽子を選んだ。
つばの広い、往年の女優が被っていたような、白い優雅な帽子。
鏡を眺めてうっとりしているサマンサをよそに、ブライアンが値段を確かめると目が飛び出そうな価格。サマンサが自由に使える予算を遥かに越えている。見るとどの帽子もそれなりの値段だった。
店主にひっそりと予算オーバーであることを伝えるが、
「知らねぇよ、買うのはそっちのねぇちゃんだろ。足りなきゃあんたが肩代わりしろよ」
とにべもない。呼び込みの態度とは打って変わり、気怠そうに答える。目の奥の蔑むような色を見て気が付いた。
サマンサに冷静に物を選ぶ能力が無いと察して呼び込んだんだ。ブライアンは指を力を込めて握り込む。思いを外に出さないで、拳に溜め込むかのように。
努めて冷静にサマンサに話しかける。
「サマンサ、その帽子は君に合って素敵だけど、予算が足りないんだ。残念だけど」
サマンサの笑顔はみるみる萎み、俯いてブライアンの後を付いて行った。

結局市場では何も買わず、施設に帰ってもサマンサは呆けたように座り込んでいた。
いつもとは異なる様子に、他のスタッフも入居者達も心配を隠せなかった。
しばらく部屋を後にしていたブライアンが戻ってきた。手にはボール紙と白い布。サマンサの頭にボール紙を巻き、サイズを合わせて布を被せる。ボール紙の円周にさらにボール紙を巻き、外側に広げ、布を垂らす。
と、どうだろう。つばの広い帽子が出来上がった。
サマンサは顔を輝かせて帽子を被る。売り物の品質には遠く及ばないが、それでもサマンサは嬉しそうにクルクルと回っていた。
「ありがとう、ブライアン、ありがとう!」
満面の笑みに、ブライアンは自分の方が何かをしてもらったかと思うように、嬉しかった。
このまま、彼女のサポートを続けていくのも悪くないな、とどこかで思っていた。

10/7/2024, 12:01:31 AM

どうしてこんなことになったのだろう。このままここを立ち去って、無かったことにできればまたあの日常に戻れるのではないかと一瞬望みを抱いてしまう。そうなればどれだけ助かることか。
だが。
既に目の前には死体があって、僕の両手は血に塗れている。ナイフの柄には指紋が付いているだろうし、僕の左手の傷の血だってここに残っている。彼女が来たのは他の部屋の住民の誰かが見ただろうし、何よりこの部屋は僕の部屋だ。
これで逃げても、部署の皆は彼女が僕に迫っていたのは知っていたし、科長に相談もしてしまっていた。彼女がこの場所で死んでいて、それが僕と結びつかない筈はない。
なにより、ミカが。ミカには知られなくなかった。些細なことでもすぐに傷付き何時間でも泣き出すミカに知られることが怖くて、また必死に宥めなければならないことを恐れて、彼女のことも必死に隠していた。それがどうだ。こんな形で露見してしまうとは。
彼女が悪いのだ。僕がここまでするとは思わなかったんだろう。スマホを取り上げ、ミカのアドレスを示し、電話をしろ、別れろ、さもなければ殺すと。
ナイフは彼女が持ってきた。本当に振りかざすとは思わなかった。咄嗟に庇った左腕を切り裂き出た僕の血に、彼女は一瞬躊躇した。そこからナイフを奪い、気づいた時には滅多刺しにしてしまっていた。
殺すと、言われた。だがそれは二人きりの時だった。その発言さえ証明できれば或いは、と思うけど、証拠となるものは何も無い。

過ぎた日を思うと、なんと眩しいことか。不満はあれども仕事があり、心が不安定な恋人は居て、友達も、両親も何時でも僕の帰りを歓迎してくれる。
その全てをこの手で壊してしまった。
彼女が僕に好意を寄せていたのは気づいていた。一緒に食事に誘われた、あの時にはっきりと断っていさえすれば。飲みになんて誘わなければ。そのままホテルに行きさえしなければ。
彼女の笑顔が可愛かった。何時でも明るく、なんの気遣いもしないで済むのが楽だった。あの笑顔に癒され、もっと見ていたかった。
ミカに別れを切り出すなんてできなかった。そんなことをしたら、また傷付き落ち込んで、僕に縋り付いてくる。
何とか、何とかこのまま、などと考えていた僕が愚かだった。
何時までもこのままなんて出来っこないのに。
職場のみんなに、友達に、両親に、怒られるだろう、呆れられるだろう、心配かけるだろう。
それが怖かった。

そうして逃げに逃げた結果がこの有様だ。彼女の両親や友達から、彼女を奪ってしまった。僕の人生もこれまでとは違ってしまうだろう。
これでいいのだろう?君は僕の人生に大きな傷跡を遺したのだ。
昏く振り切れた気分で、僕はスマホの番号を押した。

10/2/2024, 12:03:46 AM

残暑の昼も過ぎ、太陽が西に沈まんと傾いていた。それにつれて周囲の色も明るさをなくしてゆき、目はだんだんと物の境界を見失っていった。
いよいよ空も暗くなり、空に少し残った雲に、波長の長い赤を中心とした色が映っていた。
たそがれどき。他は誰そ。彼は誰そ。
「そちらに行くと危ないよ」男の声に引き止められた。
川の土手、誰もいないはずだった。
声の方に目を向けると、丁度沈みかけた太陽の方向だった。逆光で容貌がわからない。若い男のようだが、どうか。
「蟹でも捕るの?あっちの橋桁の方が良さそうだけど」
「べつになにも……」洋子は俯いて答えていた。「なにもかも、もういいかな、って」
終わらない家事、考え続けなければならない献立、パートでは最初の話とは違う仕事もさせられていた。疲れているのに家では何もしない夫と子供が、やりきれなかった家の管理に文句を言う。洋子の疲労は察してくれない様子だった。自分の現状を伝えようにも、家族の役割を変革する過程で起こる面倒に、洋子の気力は耐えられなさそうだった。
「このまま川に入れば、楽になるかなって」
虚ろな眼差しで川を見る。2キロほど下れば海に届くこの川は、川幅が広く流れも緩やかだった。川面を魚が跳ねる。
「ふぅん、楽にはなれないと思うけど」
声をかけられたせいで、先ほどまで僅かにあった気力も失われていた。近くの大石に腰を掛ける。空は黒さを含み始めていた。
「あれ、入らないの?」なんてとぼけたことを言う。
「その気も無くなっちゃった」と呟く。
遅かれ早かれこの世を去るだろう。今回は止められてしまったけど、また気力が増えた時に誰もいなかったら、わからない。
「寿命の前に死んじゃうとさ、どうなるか知ってる?」
え、と顔を上げる。角度の下がった太陽はもう彼を照らさず、闇が落ちかけているのでやはり顔は判然としない。
「そんなこと考えたこともなかった…どうなるの?」とにかく目の前から逃れたい、その一心だった。
「漂うのさ、その辺に。誰にも気づかれずにいつまでも」
ざあ、と風が木を揺らす。昼の暑さが幻だったかと思うような冷たい風。
「自分が知ってる誰か、そうだな、例えば君の息子とかが、なにかに挫折して川に来る。でも漂う君がそれを見つけたとしても、彼は君には気付かないし、君だって何一つしてやれない」
ああ、そうか。助けてあげられないんだ。そう思うと、ふいに家に帰りたくなった。
「例えば君の夫が洗濯物を取り込まないうちに雨が降っても、君は取り込めないし」
そうだね、私がいないとあの家は滅茶苦茶になるだろう。これまで必死に維持していたあの秩序が、易易と崩壊してしまうのは悔しい。
「ありがとう、少し落ち着いた」
「それは良かった。和史くんと大和くんにも話をするといいよ。君の負担を少しでも減らすんだ」
え、なぜ夫と子供の名前が、それよりも私、この男に息子がいるなんて話をしたっけ、とハッとして顔を上げると、そこには誰もいなかった。
すっかり日が暮れて、あたりにはまだ少し明るさが残っている。彼のいたところには窪みすらない。
そうだ、あの話し方。大事な時に限って茶化すような話し方をする。覚えがある。あの日は大雨だった。
「兄さん……」洋子が呆然と呟き、やがてどっぷりと日が暮れ光が差さなくなった川面から腰をあげた。

9/30/2024, 10:07:49 AM

このお題では、鬼滅の刃の愈史郎さんの
「珠世様は今日も美しい。きっと明日も美しいぞ」
が真っ先に浮かんでしまう……
最終決戦を思うと、切ないね、愈史郎さん……

Next