茜は正義を信じていた。たとえその手を血で染めても、その先は正義へと続く道だと信じていた。だからこそ、過酷な訓練にも耐えてきたし、今も日常の鍛錬を欠かさない。どんな事態でも動じない心と、何が起こっても対応できる身体を作り上げてきた。任務の途中で何を見ようと、目前の光景に惑わされずに完遂できる。惨たらしく死んでいく人々も、その先の正義への犠牲であると確信していた。
その日の任務は組織への侵入者の排除だった。厳重である筈のセキュリティをくぐり抜け、張り巡らされた監視網をも突破していた。侵入者は一人だが、個人で行えるものではない。捕まえても背後について口を割ることはないだろう。通信手段も確保しているだろうから、既に内部の情報は送られていると考えられる。本来ならば捨て置いて、却って泳がせて網に掛けることがセオリーだ。組織の内部は移転させ、古くなった情報を利用して、背後組織の裏を突く。
それなのに、茜に出動命令が出た。背後組織の警戒も省みず、侵入者を確実に抹殺させるということだ。よほど隠したいものがあるのか。
司令される情報をもとに、侵入者に向かって茜が進む。組織の建物の奥、セキュリティで限られた職員しか乗せないエレベータで地下に降りる。この先は茜も知らないエリアだ。緊張が走る。
エレベータが着きドアが開くと、その先には大きなドアが迫っていた。予め渡されていたセキュリティキーとパスワードでドアを開ける。ご丁寧に二重ドア、それも鍵もパスワードも別のものだ。
ドアの先は、静寂に包まれた部屋だった。
茜は最初、ロボットの置き場だと思った。だが違った。小さな子供たちの群、頭にはコードが繋がっていた。
その光景に戸惑っていると、部屋の奥から怒鳴りながら向かってくる男がいた。
「由実を、娘を、なんでこんなことにした!治療だなんて、よくも騙したな!」
男の傍らには、髪を切られて白い服を着せられていた小さな子供が座っていた。無表情で、目は開いているが何も映していないようだった。男児か女児かは判然としないが、男の言う通りならば女の子なのだろう。
激昂して向かってくる者には銃を使え。ほとんど無意識に普段の教えを実行していた。血飛沫が辺りを染め、赤く染まっても子どもたちは動かなかった。
駆け付けた警備員に男の死体は運び込まれ、白衣の職員が部屋を清掃しに到達した。
茜は正義を信じていた。その過程の犠牲も正義のためだと思っていた。
本当に?
その日のうちに、グリーンメディカルファクトリーの本社移転が報道された。
掏摸なんてチャチなものじゃない。強盗なんて品がない。
僕には矜持がある。
狙うのは大富豪だ。どんなセキュリティだろうが、下調べや準備を怠らず、完璧なプランを立て、誰にも気づかれることなく侵入して盗みだす。相手は大金持ちだから、少しぐらい無くなっても気にもされない。去るときも僅かな跡も残さない。相手は盗まれたことにすら気づかれない。
盗んだものを売るのだって足がつくようなヘマはしない。どだい売る相手だって後ろ暗いんだ。こちらを検索することもない。
そんなことを続けているから、もうだいぶ稼いできた。ただ生きていくだけなら、死んだあとに一財産残せる程には稼いでいる。盗みに入る準備をしても道具にしても、資金繰りに苦労もない。あまり派手な資金運営なんて足がついて危ないからやらないけど、そもそも必要がない。
普通ならば、生きていくためだけならば、安穏としていればいいはずなのだが、僕はまだ盗みを続けている。
誰かに頼まれるわけでもない。金持ちに怒りや恨みがあるわけでもない。社会なんてどうだっていい。そもそも、盗むことだってそんなに好きなわけではないのだ。
自分でも不思議なのだが、特段の理由もなく富豪をピックアップして下調べも十分にして完璧な計画を立てて実行する。
その日もそんな盗みを行うべく屋敷に侵入していた。室外機の調子が悪いことは下調べでわかっていたから、社員証を偽造してエアコンの修理を名目に侵入した。僕に対応したのは大柄の男で、事前に入手した名簿からその男が執事であることがわかっていた。
該当の部屋に通され、調子が悪いエアコンを示され、僕は一人で作業をした。エアコンの電源にカメラを仕掛け、エアコンは完璧に直した。
あとは1週間ほどカメラを監視して、従業員が少なくなるタイミングで再度侵入するだけだ。逃走経路も確認した。
修理が終わり退散しようと廊下に出ると、少女がいた。豪奢な屋敷の造りに似つかわしくない、素朴で草臥れた生地の白いワンピース一枚を身に着けていた。髪は梳かされているがそのままで、緩くウェーブがかかって背中ぐらいまでの薄茶色をしていた。
緑の目が真っ直ぐ僕を見つめる。
瞬間駆け込んできて僕に小声で訴えた。
「私を連れて行って、この家から出して!」
面食らった僕は少女を軽く押し戻し、そのまま退散した。
1週間後、従業員の会話や動きから屋敷が手薄になるタイミングを計り、僕は再び侵入した。盗むものはもう決めている。
部屋にはあの少女がいた。
用意した大袋に彼女を入れ、誰にも気づかれることなく屋敷をあとにした。
流石に彼女がいなくなったことには気づかれただろう。
それから、僕は盗みをすることなく、彼女と暮らしている。
あんなに盗みを繰り返していたのに、ぱったりとやめてしまうとは。本当に欲しかったのは形の無いものだったのか。
テーマパークのガイドというのは長くやるものではない。決まった光景で決まった台詞を決まったタイミングで話さなければならない。客もそのことは承知の上で、決まり切った展開をただ楽しんでいる。安全で変化がなく、それでいて客に逸脱しないようにさりげなく求めることも重要だ。
ガイドになりたての頃は、仕事を覚えるのにのが精一杯で、それなりに充実していたんだと思う。だが5年も続けると仕事も覚えて新人に教えられるまでになり、多少のトラブルにも余裕で対応できる。トラブルも多少で済まないものなんて起こりようがなかった。
俺は冒険がしたかった。子供の頃から知らない場所で迷うことが好きだったし、新しいことを一つずつ理解していくことが楽しかった。
大人になって仕事をするならば冒険者ではいられないことは理解していた。だが少しでも冒険者に近いことをしたくて、この仕事に就いた。
だがどうだ、今や求められるのは決まり切った環境と人間関係の中で上手くやっていく能力だ。
こんなの冒険じゃない。
すっかり倦んでしまい、このごろせめて休憩時間は施設の外に出ている。客に見えない部分の、粗雑で始末の悪い配線などに心を休ませられるとは。
などと荒んだ気持ちでいると、急に強く風が吹いた。
帽子が煽られ、あ、と思う間もなく飛んでいってしまった。
飛んでいった先を見ると、蔦が絡まったフェンスの上に引っ掛かっている。
あれ、無くすと仕事にならないんだよな、と仕様がなくフェンスを登り始めた。
複雑に絡まった枝に手や足をかけて登っていく。
まるでジャングルジムだな、と独り言ちた。
登りきり、帽子を手にして、ふと前を見ると、眼前に山裾の紅葉が広がっていた。
職場の近くに低い山があることは流石に知ってはいたのだが、紅葉がこんなに見事だったとは、5年間気が付かなかった。
最初の頃は余裕がなかったとはいえ、ここ3年くらい、俺は何を見ていたのか。こんな近くの美しさにさえ気づけなかったことに、衝撃を受けた。
その足で辞表を出し、今は山岳ガイドをやっている。
「花畑!ちょっと待てよ」と坂本裕太の呼び声で、花畑圭介は振り返った。
「なんだよ、坂本」昇降口に向かおうとしていた花畑は訝しんだ。
花畑と坂本は、取り立てて仲の良い友人というわけではない。たまたま選択授業が重なり、週に2度ほど同じ教室で机を並べる程度だった。
「いいから来いよ」坂本は階段を上ろうと振り返り、仕方なく花畑は着いていった。
電車、逃しちゃうんだけどな、と内心で呟きながら、階段を上がる。
自分たちの学年の教室がある2階を通り越し、上級生たちの階をも通り抜けた。
この先は屋上だ。
「おい、どこ行くんだよ。屋上は鍵が閉まっていて行けないだろ」と呼びかけていると、階段の最上部に着いた。
屋上に通じる扉には鍵がかかっていた、筈だった。
その扉を坂本は難なく開いた。
え、と驚く花畑の目に広がるのは、一面の花畑。
コスモスや萩やススキといった秋の花だけでなく、百日紅やハイビスカスといった夏の花、バラや藤と言った初夏の花、椿やサザンカなどの冬の花もある。足元に咲くのはスミレや菜の花といった春の花だ。
花畑は何処までも広がり、ここが屋上だなんて一瞬忘れるくらいだった。
「どういう、ことだ」自分でも声が掠れるのがわかる。
「お前、気づかないみたいだからさ。残念なことに、俺も一緒なんだけど」
思い出した。俺は坂本の腰を掴みながら落ちたんだ。
選択授業が自習になり、俺は課題をこなしていたんだけど、坂本やその友人たちは騒いでいた。誰かが紙飛行機を飛ばし、それを受け取りながら別の誰かに投げる、という遊びをしていた。
別にいいけど、煩いな、と顔を上げると、逸れた紙飛行機を掴もうと、坂本が窓から乗り出していたところだった。バランスが崩れる。
咄嗟に坂本の腰を引いたが、俺よりも重い坂本を引き上げることなんかできなかった。
「悪かったな、巻き込んで」と顔を伏せる坂本に、「いや、いいんだ。俺、お前と死にたかった」と打ち明けた。
昼はまだ暑いが風が涼しくなってきた。日が暮れると過ごしやすい気温になる。
一人草原を歩く。背の高い穂をつけた草が茂る。
蝉に変わって、コオロギの鳴き声が辺りに響くようになった。空を見上げる。
煌々と月が照っている。明るい夜だ。
西の方に目をやると、空の色が暗くなってきているのがわかる。雲だ。風に乗って、みるみる月を覆い隠していく。
重い鉛色の雲が上空を覆っている。
額に当たるものがある。パラパラと周りの草を弾く音。降ってきた。大粒の雨。
最初は疎らだったが、どんどん体に当たるようになる。
そのうち、空が泣くような豪雨となっていった。
連続する雨粒に草々はすっかり頭をさげ、落ちてきた雨は全ての物に跳ね返り、辺りは雨飛沫で霞んでいた。
だいたい、この雨では目の前もあまり見えない。
気温も下がり、濡れた服が重く冷たく感じ始めた。当たる雨粒も痛い。
もう上も見上げられず下を向き、後頭部で雨の勢いを感じていた。
靴が濡れて、水が浸出してきた。
しばらく耐えていると、後頭部に当たる雨の勢いが減ってきたことに気づく。やがて雨粒も疎らになり、草も水滴を帯びながら頭を上げていた。
見上げると、雲が薄くなり、狭間から月が光るようになっていた。
雨が上がった。辺りはすっかりと涼しくなった。
いつの間にか鳴くのをやめていたコオロギが、再び鳴き始めた。
水を湛えてグチョグチョ言う靴で踏みしげながら、水溜りが多くなった草原を歩いて行く。