明日世界が終わるなら
もう、貴方に嘘をつかなくていい。
もう、貴方に罪悪感を持たなくていい。
もう、貴方を諦めなくていい。
それは、なんて……。
ああ、それでも。
それでも、貴方に生きていてほしい。
――たぶん、夢を見ていた。
とても温かい場所にいて、辺りには何もない。
がらんと、すべてが白くひらけた場所だった。
地表も白くて何かの跡のような、隆起なのか陥没なのかはっきりしないものがところどころ足もとに現れている不思議な場所だ。
でも美しいと思った。
何もない、白くぼやけた空間なのに、とても美しいと。
その、淡く柔らかな空気が全身を包みこんで温かい。見上げると、空から音もなく何かが降ってきている。
濡れることは無かったが、その雫のようなものが周りに落ちて地面に染み通っていく。時折、地表に薄く浮かぶあの跡のようなものと結びついて、いっそう濃くなる。あの雫は何処からきて、何処へ還るのだろう。そんなことを思いながら地表を眺めていると、視界の端に見慣れた靴が映る。
彼はすぐ近くにいた。顔がすぐそばに。けれど逆光なのか、表情がよく見えない。口元だけがかろうじて見て取れる。
その唇が、ゆっくりと弧を描いた。
意味もわからず胸がキュッと締まって、それから奥深い場所からじわじわと温かいものが染み出してくる。
ああ、笑ってる。笑っている。良かった。
#こんな夢をみた
久しぶりに降りた駅は、懐かしい香りがした。
そう思ってしまった自分に驚く。敵地といってもいいはずの場所に安堵を覚えるなど――まったくどうかしている。
だが、そんな思考とは裏腹に、身体は自然と大きく息を吸い込んだ。
一度、どうしても自国に戻らねばならない任務ができた。現在進行中の任務にも関わりがあるため、他者に任せられなかった。二週間ぶりに戻って来た地だ。
いつの間にか、列車は次の駅にと去っていた。
一緒に降りた乗客たちも我先にと改札へと流れていく。
だが何となく足が動かなくて、その場で視線を上に向ける。ドーム型の巨大な屋根。幾何学的に交差する鉄枠に嵌め込まれたガラス。その先にある空はいつもと変わらなかった。
空は、ただ空だ。どこにいようと変わらない。当たり前だ、ひとつしかないのだから。
地上とて変わらない。陸続きであるならば、どこにいようと変わらないはずだ。国境やテリトリーなど、人間が作ったまやかしの結界に過ぎない。
仕事で訪れたかつての故郷には、驚くほど何も感じなかった。訪れる前は、柄にもなく少し緊張したのに。
ずっと帰りたくて、同時に避けてもいた場所だ。
復興が進み、町並みや行き交う人たちが変わったせいかとも思った。もしくは、もうそんな心も失くしたのかと。
過去を振り返る時に感じる痛みはまだある。ただ、その痛みと降り立った場所は紐づかなった。
――場所、ではないのだ。たぶん。
あの場所が壊されたことにあんなに憤ったのは。
あの場所を取り戻したいと走り続けた日々は。
必ず一緒に浮かぶ人たちを思い出したくなくて蓋をしたのは。
そして、今。
故郷を捨て、過去も捨てても、なおも進もうとする心は――。
「あー! いたー! もう、さがしたー!」
ホーム中に響き渡るような大声を出しながら、少女がこちらに大きく手を振りながら駆けてくる。その少し後から、穏やかな笑顔で歩いてくる人影も見えた。
肺に充満した空気が、かつて無いほど身体に馴染じんでいく。
同じ空。
同じ空気。
同じ地上。
けれど、ここが「ここ」だと。他の何にも代え難いと思わせるのは、きっと大切な人たちがここにいるからだ。
そんな当たり前のことに気づくのに、随分時間がかかってしまった。
……気づいてよかった。
新しい故郷に向かって少し低い声で応える。
「ただいま」
#君に会いたくて
その「日記」には、かつて鍵がかかっていた。そんな形跡があった。南京錠を通すための取り付け金具が付いた表紙。だが鍵はかかっていない。代わりに引きちぎられた錠の残骸が床に転がっていた。
――持ち主の亡骸と共に。
別任務として侵入したとあるオフィス。表向きは健全でホワイトな企業を装っているが、その実かなり悪どい手で勢力を伸ばしているマフィアの本拠地だ。薬物、違法カジノ、売春、盗品、臓器、人身販売はいうに及ばず、あげればひと通りの悪事は行っている。それでも、自国だけで満足していれば問題にすることも無かった。議題にもあがらなかっただろう。だが勢い付いた組織は拡大の手を我が国まで伸ばしてきた。それでも、そこまではただの犯罪でしかない。そんなものは警察や公安の仕事だ。たが、そいつらの取り扱いに大量の武器の密輸入が入ってきた時点でさすがに動くことになった。第三国から輸入した粗悪な武器を、自国と我が国のテロリストに巧妙に売りさばいている。そんな情報が入ったからだ。両国の悪感情を肴に私腹を肥やしている。
その先に待っているものが何であるかも考えずに。
――本来の任務は、その武器売買の証拠を掴むことだけだった。かなり大きな組織になっていて、ボスや幹部なども慎重になっているため、まずは情報を持ち帰ってきてほしい――そんな内容だ。
与えられた任務は絶対だ。例えこの組織に何某かの感情を持とうとも、そんな個人的なことは戒めるべきだ。
目を閉じて、ひとつ大きく息を吐く。
感情を殺し、沈め、ただ目の前の「任務」に集中する。
目を開いて、すぐに行動に移した。体勢を低く取り、壁伝いに侵入口まで進む。辺りはしんと静まり返っていた。健全な企業を装っているため、とっくに無人になっている時間だ。静かなのは当たり前だが……違和感が浮かぶ。ただの勘に過ぎないが、従った方が良いと長年の経験も警告をした。
情報屋からは、監視カメラさえ壊すか誤作動を起こさせれば誰に見咎められる心配は無いと言っていたが……そこまで考えて、ハッと思い当たる。監視カメラが作動していない……?
窓の外に取り付けられたカメラは、ただそこにあるだけで何も映していないようだった。念のために顔を隠して目立たないようにして潜入する。内部の通路に等間隔に並ぶカメラも同じように、ただのオブジェになっている。
ありとあらゆる監視カメラのすべてが機能していなかった。
「……こんなこと、あり得るのか」
目的の部屋まで難なく侵入して、思わず声が出る。
情報屋の言ったことに間違いはなかった。確かに見咎められること無く侵入は出来た。
だが、経緯はだいぶ違う。オフィスや通路には人の姿がうじゃうじゃといて、ターゲットのボスも自分のオフィスにいた。
ただ、全員死んでいたというだけだ。
心臓、こめかみ、喉仏、頸動脈。急所に鋭利な刺し傷があった。しかもそれぞれに一ヶ所ずつ。おそらく即死のため、それ以上は傷を付ける必要がなかったのだろう。
間違いなくプロの手によるものだ。しかも恐ろしく手練の。
眉を顰めながら、マホガニーのデスクの上にある冊子を手に取る。表紙には流麗な字で「Diary」と印字がされている。だが、中を覗くとやはりそれは日記などではなく、この組織の裏帳簿だった。
手書きのそれは、確かに証拠としては不十分かもしれない。けれど、逆に手書きだからこそ証拠ともいえた。
念のため、部屋の隅々も、足元の亡骸も調べる。たが、この日記以上の収穫は無かった。
何故、この証拠を残していったのか……到底理解の範疇を越えても、なおも考えずにはいられない。
証拠を掴んだからには長居は無用だ。だが、それでも動けずにいた。
もう一度部屋の中を見渡す。
……おそらく……ひとり。多くても二人だ。この死体の山を築いた人間は。痕跡がそれを物語っている。
なんの目的でここへ来たのか……マフィアの命ともいうべき証拠にも触りもせず。
ただ、ただ……殺しに来ただけなのだろうか。
首筋にフッと、死神の鎌を当てられたような気配がした。ゾクッとして思わず後ろを振り返る。
少しだけ開いた窓のから、生ぬるい風が入ってシェードカーテンを揺らす。
その風がこちらまで流れてきて、机の上のかつて閉ざされた日記のページがはためいた。
#閉ざされた日記
冬の知らせは足元から来る。
誰が言ったのかは知らない。何かの詩だったのか、あるいはただの広告か。ただ、そんな言葉が不意に浮かんだ。
何気なく歩いていた足元から、カサリと、軽くて乾いた音がした。立ち止まって見下ろすと、黄色く色づいた葉を革靴が踏んでいた。音の出所だ。足を退けると、落ち葉は何事もなかったように舗装された道路の上を滑るように動いていく。視線を辿ると、同じような葉が遊戯のように歩道一面をくるくると舞っていた。
その規則性のない動きを見て、思わず家にいる娘を連想して、ふ、と口角が上がる。
そういえばここ最近寝顔しか見ていない。別任務が立て込んでいて、帰宅は夜半になっているせいだ。
一瞬逡巡する。だが、いやいやと頭をふって思考を追い出す。今日もこれから戻って報告をする予定がある。ホリデーシーズンに入る前に、なんとかもう一歩、いや、半歩でも駒を進めたい。焦りは禁物とはいえ、のんびり構えていられる猶予もない。その思いは先日直接言葉を交わしたことでより一層濃くなっている。
今日中に帰れれば御の字だ。なにを悠長に「帰りたい」などと……。
――帰りたい? どこに?
途端、ザッと一回強い風が吹いて、被っていた帽子を抑えた。帽子のつばの隙間から、黄色く色づいた葉があとからあとから幹から離れていくのが見える。
彼女たちと出会った頃、木々はまだ青々としていた。それは覚えている。
いつの間にか、季節がこんなにも進んでいたのか。
「……」
もう一度、小さく頭を振る。
今まで持ったことの無い感情に蓋をして、腕時計で時間を確認する。
「……」
少しだけ。
1、2分会話するくらいの時間はある。
それくらいは許される……たぶん。
近くにある公衆電話から、慣れてしまった番号をプッシュする。
足元では、また小さい落ち葉がくるくると歌うように舞っていた。
#木枯らし