その「日記」には、かつて鍵がかかっていた。そんな形跡があった。南京錠を通すための取り付け金具が付いた表紙。だが鍵はかかっていない。代わりに引きちぎられた錠の残骸が床に転がっていた。
――持ち主の亡骸と共に。
別任務として侵入したとあるオフィス。表向きは健全でホワイトな企業を装っているが、その実かなり悪どい手で勢力を伸ばしているマフィアの本拠地だ。薬物、違法カジノ、売春、盗品、臓器、人身販売はいうに及ばず、あげればひと通りの悪事は行っている。それでも、自国だけで満足していれば問題にすることも無かった。議題にもあがらなかっただろう。だが勢い付いた組織は拡大の手を我が国まで伸ばしてきた。それでも、そこまではただの犯罪でしかない。そんなものは警察や公安の仕事だ。たが、そいつらの取り扱いに大量の武器の密輸入が入ってきた時点でさすがに動くことになった。第三国から輸入した粗悪な武器を、自国と我が国のテロリストに巧妙に売りさばいている。そんな情報が入ったからだ。両国の悪感情を肴に私腹を肥やしている。
その先に待っているものが何であるかも考えずに。
――本来の任務は、その武器売買の証拠を掴むことだけだった。かなり大きな組織になっていて、ボスや幹部なども慎重になっているため、まずは情報を持ち帰ってきてほしい――そんな内容だ。
与えられた任務は絶対だ。例えこの組織に何某かの感情を持とうとも、そんな個人的なことは戒めるべきだ。
目を閉じて、ひとつ大きく息を吐く。
感情を殺し、沈め、ただ目の前の「任務」に集中する。
目を開いて、すぐに行動に移した。体勢を低く取り、壁伝いに侵入口まで進む。辺りはしんと静まり返っていた。健全な企業を装っているため、とっくに無人になっている時間だ。静かなのは当たり前だが……違和感が浮かぶ。ただの勘に過ぎないが、従った方が良いと長年の経験も警告をした。
情報屋からは、監視カメラさえ壊すか誤作動を起こさせれば誰に見咎められる心配は無いと言っていたが……そこまで考えて、ハッと思い当たる。監視カメラが作動していない……?
窓の外に取り付けられたカメラは、ただそこにあるだけで何も映していないようだった。念のために顔を隠して目立たないようにして潜入する。内部の通路に等間隔に並ぶカメラも同じように、ただのオブジェになっている。
ありとあらゆる監視カメラのすべてが機能していなかった。
「……こんなこと、あり得るのか」
目的の部屋まで難なく侵入して、思わず声が出る。
情報屋の言ったことに間違いはなかった。確かに見咎められること無く侵入は出来た。
だが、経緯はだいぶ違う。オフィスや通路には人の姿がうじゃうじゃといて、ターゲットのボスも自分のオフィスにいた。
ただ、全員死んでいたというだけだ。
心臓、こめかみ、喉仏、頸動脈。急所に鋭利な刺し傷があった。しかもそれぞれに一ヶ所ずつ。おそらく即死のため、それ以上は傷を付ける必要がなかったのだろう。
間違いなくプロの手によるものだ。しかも恐ろしく手練の。
眉を顰めながら、マホガニーのデスクの上にある冊子を手に取る。表紙には流麗な字で「Diary」と印字がされている。だが、中を覗くとやはりそれは日記などではなく、この組織の裏帳簿だった。
手書きのそれは、確かに証拠としては不十分かもしれない。けれど、逆に手書きだからこそ証拠ともいえた。
念のため、部屋の隅々も、足元の亡骸も調べる。たが、この日記以上の収穫は無かった。
何故、この証拠を残していったのか……到底理解の範疇を越えても、なおも考えずにはいられない。
証拠を掴んだからには長居は無用だ。だが、それでも動けずにいた。
もう一度部屋の中を見渡す。
……おそらく……ひとり。多くても二人だ。この死体の山を築いた人間は。痕跡がそれを物語っている。
なんの目的でここへ来たのか……マフィアの命ともいうべき証拠にも触りもせず。
ただ、ただ……殺しに来ただけなのだろうか。
首筋にフッと、死神の鎌を当てられたような気配がした。ゾクッとして思わず後ろを振り返る。
少しだけ開いた窓のから、生ぬるい風が入ってシェードカーテンを揺らす。
その風がこちらまで流れてきて、机の上のかつて閉ざされた日記のページがはためいた。
#閉ざされた日記
1/18/2023, 5:31:17 PM