終わらない物語
永遠を、探している。
永遠に続くもの。永遠に終わりが来ないもの。永遠に消えないもの。勿論、そんな物はどこにもありやしない。この世にあるもの全て、消えて行くから価値があるのだ。それは、一応理解はしている。
ただ、探し求めている。ないと分かっても、何処かにひょっこりあったりしないかと。期待してしまう。それこそ、終わらない物語を。
なんてことはない、私よりも長く残るものを永遠と決めつけてしまえばいいのだ。それの終わりは見れない、永遠を証明することは誰にも出来ない。永遠二つで見合っていても、その状態はどちらか、又は両方が壊れるまで永遠に続くのだ。それがいつか不意に壊れてしまわないと誰が言い切れる? 終わりがない、なんて恐ろしいんだ。
それでも、なにか一つくらいはあってもいいだろうと、思ってしまうのはなぜだろう。永遠に終わらない物語をその身に刻み続ける、そんな物があったっていいだろう。もし見つけることができたら、私もそっとその物語の中に入れてもらいたい。永遠の中にほんの少し、残る事ができたのなら。それはきっと素晴らしいことなのだと思う。
『瞳を閉じて』
私は最近、ふと思う。
なんだか昼寝が多い気がする。夜はスマホばっか見てなかなか寝ないし。昼寝は私なりの鬱への対処法になっているため、そのあたりが大きいかもしれない。
昼寝への入眠はその日の体調次第だが、そろそろやり方が決まってきた。まず横になって目を閉じる。部屋を暗くすることを忘れずに。とにかく瞳を閉じて開けない。適当なことを考えておく。音楽を流しておけば余計な思考を排除できる。が、煩いと眠れないため音量注意。思考が消えてくればそのうち寝てる。起きるのは大体一時間後くらい。
どんなに鬱でも体が疲れていればこのやり方で昼寝に入れる。起きれば思考は完全リセット。最高の抗鬱剤である。薬は効くまでに時間がかかるから好きではない。が、よく考えてみればこれも眠るまでの間は延々と暗い思考を続けるので結局変わらない気もしてきた。
何はともあれ、今日は早めに寝ようと思う。
『あなたへの贈り物』
私は時々、ふと思う。
誰かに贈り物を贈るのは苦手だ。人の心とはわからないものだから。何を贈れば喜ぶのか、いや、いらないと思われないのか、のほうが大きい。
でも、贈るならばやはり喜んでほしい。でも、私が貰って嬉しいものがあなたが貰って嬉しいものとは限らない。というか、多分違う。わたしの感性は特殊なのだ。自分基準で考えると痛い目を見る。
誰かに贈り物、なんて実のところほとんどしたことがないのだ。両親の誕生日に趣味のハンドメイド品をあげたことくらい。それは、きっと喜んでくれたのだろう。そうだと思っておく。
いつか贈り物をしたくなった何処かにいるあなたへ。私の気持ちが届きますように。
『羅針盤』
私は最近、ふと思う。
人生の羅針盤という言葉がある。あるはずだ。人生において進むべき道を教えてくれるもの。物理的にあるものではない。恐らくは心のなかにでもあるのだろう。
こんな書き方をしているのは、私には人生の羅針盤がないからだ。当然である。何をするのか、何になりたいのか、どうなりたいのか。これっぽっちも分からない。お先真っ暗だ。
羅針盤を持つ人々はきっと、お先真っ暗な中で進むべき方向が何となくわかるのだろう。羅針盤とは本来そういう物のはずだ。なんとも羨ましい。
私という人間は、苦手な物はあまりないが過敏に反応してしまう嫌いな物が多すぎて、出来ることが少ない。やりたいことは多いが、どれも何処かで嫌いにぶち当たる。それ故、進路を定めることができずにいる。
まあ、深く考える必要はないのかもしれない。羅針盤なんて無くても、この世界は人だらけでどこにでも場所がある。これは父の言葉だが、「基本的に生きていくことくらいはどうとでもなる」そうだ。
つまり、羅針盤が必要なのはそれより上を目指す場合だ。私なんか、普通に生きようとすれば精神的に参ってしまうので、やはり世間の『普通』とはズレた生き方をしたい。となると、結局のところ私には羅針盤が必要だと言う話になる。
なかなか難しい世界だ。今の時代、普通から逸れた者にも楽しく生きる術はあるのだろう。だが、そこにたどり着くまでに必要になるものが多すぎる。人生の羅針盤を見つけ出し、それに従って努力を続けて進み、それでも辿り着けなかったりする。運要素も強い。正直なところ、やってらんない。
楽しく生きたいだけなんだけどなぁ……
『明日に向かって歩く、でも』
私は時折、ふと思う。
時とは、一体どんなものだろう。明日に向かって歩くと言うが、わざわざ歩かずとも明日は勝手にやってくるものだ。
私の感覚としては、自分というものがあって、それを時がどんどん通り越していくような。なくなれば世界はその瞬間を永遠に保持するのだろう。
だが、同時にこうも思う。もしかしたら、時と言うのは自分から流れ出しているものではないかと。自分が存在することで、次の瞬間が生まれて来るのではないかと。
どちらの場合でも、時というものは死ぬその瞬間まで勝手に流れ行くものである。
だが、ここまで書いてこのお題の『明日』とは、時の流れにおけるものとは違う気がしてきた。それはきっと、自分で作っていく『理想の未来』を指しているのではないか。
未来は誰にも分からないし、私の考えでは分かるも何もまだ存在しないものだと思ってるため、自分の行動で幾らでも作れるもの。の筈だ。だが、それはつまり自分で作らねばならないものである、という意味になる。
作るのは大変だし、間違った場所に城を作り上げても理想の未来とは言い難いだろう。最適な場所で、最適な努力を積み重ねることで理想の未来に近づくことができる。と、私は思っている。
まあ、そのための努力は大変だし、間違ったかどうかなんて作り上げるまでわからなかったりもする。それゆえ、踏み出せない人が多い筈だ。
私は、踏み出す勇気よりも努力が出来ないため何もない。だが、努力出来ればそれなりのことは出来るはずだ。間違った城も、住めば都だったりする。もう一つ城を建てることも、できる人には出来るだろう。
明日へ一歩、歩みだしてみればいい。私はしないけどね。