神宮前駅を午前八時に出る。ファミリーマートの前を通り、暗いエスカレーターに乗って下まで降り、ロータリーに出る。この駅を使う人々は皆、ちょっとだけ意地悪そうな顔をしている。
横断歩道を二回渡って、熱田神宮の中を通っていく。鳥居の前ではきちんと頭を下げる。通る前も、通った後も。横着してすみません、でもここを通るのが一番早くて、正規の道で行くと五分から十分は変わってしまうので、すみません、しょうがなくなんです。目一杯言い訳をする。
馬鹿丁寧に頭を下げる私を横目に、ここを通い慣れている大人たちは颯爽と先を行っている。スマホを見ながら堂々と鳥居の真ん中を行くおじさんもいた。信じられん。無礼というか、厚顔無恥すぎる。
最後の鳥居を出て、振り返って頭を下げた後、今度は歩道橋を上がっていく。カンカン音が鳴るのが小気味よい。階段を上がるのはしんどいけれど、上から街を見渡しながら歩くのは気持ちいい。
そうして幼稚園だか保育園だかを横目に裏路地を進む。そこは緩い斜面になっていて、帰りは上る羽目になるのできつい。駅から会社まで、私は念の為三十分は歩くだろうと見積もっている。工事なんかしてたら遠回りしなくちゃならないし、体調が途中で悪くなることなんかもあるかもしれないからだ。
そうしていくと、大通りに出る。右に進み、長くて広い横断歩道を急ぎ足で渡る。するとまたすぐに横断歩道に行き当たる。それも渡る。したら左手に噴水付きの公園が見えてくる。そこでは毎日同じホームレスが寝泊まりしていて、朝そばを通ると、その人が鳩と戯れている姿を見ることができる。
ホームレスのそばには自転車があり、そのカゴには布がかけられ、ちらちらと何かが詰まっているのが見える。荷台には雑誌や新聞を紐で束ねたものが自転車用のロープで固定され、それが今の彼のすべてなんだろう、と感じさせる。
公園を通り過ぎると橋にかかる。私は水場が好きだ。水を見ながら歩くのが好きだ。今の職場でなんとか働いてこられたのも、この道のりのおかげだった。
橋は長いけれど、楽しんで渡る私にとっては、あっという間に終わってしまう。橋が終わるとマンションがある。その前を通ってずーっと行くと、私の職場がある。
さあ、今日も嫌々働かなくてはいけない。
菖蒲の花が咲く。
俺の心を天へ押し上げる。広い庭に敷かれた石畳で犬が寝ている。雨上がりで濡れているだろうに、それでも構わず寝転がる。
門の修繕費用は予想以上にかかった。侵食が激しく、まるごと取り替えた方がいいと業者に言われた。断らなかった。何も断らなかった。この家の管理を任されてきたのは俺だった。
娘が嫁に行ったのは三年前のことだ。この家を建てたとき、俺の頭に浮かんでいた将来像に映っていたのは、娘ではなく息子だった。その頃はまだ若かったのだ。第二子、第三子に期待していた。俺が建てた家が代々受け継がれることになったらと思うと、自分が誇らしくて、限りない妄想に勤しんだ。
息子は生まれなかった。娘一人以上の子宝には恵まれなかった。だけど娘はいい子だった。悔いはない。強いて言うなら、俺たちが死んだあと、一人残してしまうことが可哀想だ。兄弟がいたら違ったろうに。いい婿に恵まれているとはいえ、肉親にしか話せないこともあるだろう。
妻だって、俺が死んだらあいつはどうなるのだろう。この大きく作ってしまった家に一人で住むのか。いつまで。ぽつんと生きるのは寂しかろう。散々持て余すだろう。娘が彼女を引き取ってくれるだろうか。でもそうしたら、この家は空っぽになってしまう。
俺の魂の行きどころがこの家であったらいいのに。死んでも、ここを離れたくない。この居心地のいい家から旅立つなんて恐ろしいことだ。若いときの独り立ちとは違う。俺は年を食ってしまった。見つめることの厳しさをもう十分に知っている。悠久のときを馴染みのない場所で過ごすなんてまっぴらだ。
/ 思いつかなくなっちゃった
風で糸が泳ぐ、手袋。赤い毛糸。白い毛糸。冬って、なんでこんなに赤が似合うのかな。
自分で編んだから少し緩いし、柄も頑張ったけどよれちゃった。でもその不格好な部分がかえって愛しい。
空に手をかざしながら歩いていたら、背後から背中を叩かれた。
大地がわたしを追い越していく。地面、凍結してるのに。今はもう降ってないけど、昨日の夜から今朝まで降っていた雪が、まだ街を白く染めているのに。
マフラーも巻かずに笑ってる。今朝は、耳が緊張するほど寒いのに。強いなあ。元サッカー部だから寒さには慣れてるのかな。
坂本くんが軽装の大地を見て呆れてる。風邪ひくよって言ってあげてほしい。そこまで言っても、大地はどうせ聞かないんだろうけど。
高校生活はあと3ヶ月で終わってしまう。3年生でやっと同じクラスになれて、心底嬉しかったのに。いつの間にかお別れが近づいている。
あっという間だった。
大地と、前よりは仲良くなれたと思うけど、期待していたほどは仲良くなれなかった。
麻子はわたしに、バレンタインに勝負しろって言った。でも、勇気が出ない。自分が大地の特別になれるなんて思えない。
大地が話しかけてくれるたびに、わたしはいっそ今言ってしまおうか、と思う。でもいつも言えない。気持ちを告白してぎこちなくなってしまうくらいなら、このまま、楽しく話せる距離感を維持していたい。
臆病だなあ、わたし。
窓の外を雪が落ちていく。また降り始めた。わたしは机に頬杖をついて、白に支配されていく校庭を見る。寒がりだから、冬はあんまり好きじゃない。なんとなく寂しくなるし。遊びに行くのだって大変だし。
早く帰って家で温まりたかったのに、長引いた委員会で、先生にさらに用事を言いつけられてしまった。
やっと終わって下駄箱にたどり着いたのに、雪の勢いがますます強くなっているのを見て、がっくりしてしまう。
「はあ」
誰もいないと思って、ため息を落とした。すると名前を呼ばれた。びっくりして顔を上げると、大地がわたしを見て立っていた。
もうとっくに帰ったもんだと思ってた。
大地が見るからに雪を嫌がってるわたしを見て笑った。わたしは言い返した。また笑われた。
大地の手は寒さで白くなっている。マフラーも手袋もないなんて信じられなくて、見ているだけでこっちが寒くなって、わたしは自分の手袋を大地に貸してあげた。
サイズは少し大きめに作ったので、大地の手でも十分に温めることができた。大地は温かいと喜んだ。ほら寒かったんじゃん、ってわたしも笑った。
わたしはマフラーを少し引っ張って、首元をしっかり隠して外を見据えた。大地はわたしの隣に立って、鞄をゴソゴソ探っている。
飴でもくれるのかな、と期待した。それより、わたしの方こそ、この手袋を大地にあげてしまおうか。でも持って帰られて、不格好さに気づかれたら恥ずかしいな。
ちらちら見ているわたしに気づいて、大地は仕方ないなあと言った。はてなを浮かべるわたしを置いて、先に外へ立った。
音が消える雪の中で、バサリと傘が開いた。ほろほろと白が振り落ちていく外で、大地は黒い傘を差して、わたしに入っていけよと言った。
家まで送ってくれるという大地に甘えて、わたしはその傘に入れてもらった。肩が触れ合って、少し歩きづらくて、静寂の中で、大地の声しか聞こえなくて、緊張した。
世界が遠ざかる。わたしたちだけしか存在していないみたいだ。大地の声にもどこか硬い響きがある。言いたくて言いたくてしょうがない言葉が、喉まで出かかっている。
傘は持ってるんだね、とおどけたら、大地が止まった。つられてわたしも立ち止まった。見上げた先にある大地の瞳が、真剣な色を映している。
回転、回転、目が回る、空と地面が交互に視界を支配する、ぐるぐるぐるぐる回る勢いで、過去と現在が繰り返される。
北海道に行くはずだった。行けなかった。中部国際空港、セントレアで待ち合わせをしたその人は、6月24日、姿を見せなかった。
飛行機に乗ろうか、ギリギリまで迷った。搭乗手続きを待つ列から外れ、係の人に相談した。時間は遅らせられない、と当然のことを言われた。ギリギリまで待った。待っている間、徐々に考えは変わっていった。楽しみな気持ちは失せていった。その人が来るかというより、自分はどうしようか考えた。
ずっと北海道に行きたかった。シフト制で、月給の少ない仕事をしているわたしにとって、飛行機を使う遠出は痛手だった。それでも行きたかった。小樽に。オルゴールを作ったり、運河を見たり、雪景色を見つめ、澄んだ空気を吸うことで、体の中に溜まっている澱を浄化したかった。
行かなければお金が無駄になる。このお金があったら、日々の暮らしにちょっとだけど楽しみをプラスすることができた。毎日仕事帰りにお菓子を買ったり、バスキューブなんかを買って、入浴時間を贅沢なものにしたり、できたはずだったのだ。
それらを上回る楽しみを北海道旅行に見出していたのに、分かち合っていたはずの相手は来なかった。
係の人が見兼ねて声をかけてきた。いかがされますか。知らない、そんなの。わたしが聞きたい。
飛行機への乗り口を見た。あそこに行けば、一人でも北海道へ行くことができる。小樽に行ける。新千歳空港に行くのも楽しみだった。テーマパークのようになっているのを、以前からテレビで見て知っていた。
どうしましょうか。
行った方がいいって、今日を楽しみにしていた自分が言っている。でもわたしは立ち上がれなかった。裏切られた思いが全身に伸しかかり、指一本動かせる気がしなかった。
どうして来なかったのか考えるのは恐ろしかった。無理だった。寝坊ならまだいい。むかつくけど。でもそれならまた機会があると、自分に希望を持たせられる。
もしも、「終わった」のだとしたら?
結局わたしは一人、空港にぽつんと残されてしまった。
わたしの席がある飛行機は、たぶんいつの間にか飛んでいった。気付くと、とうに出発時刻を過ぎていて、大きな窓から茜色の空が見えた。
それでもまだ来ていない。彼は来ていない。わたしを選んではくれなかった。それどころか見捨てられた。
手を伸ばしている自分に気づく。窓の外で煌々と広がる茜色を押し上げて、午前中に戻りたい。空港へ着く前まで戻りたい。こうなるとわかっていたらもっと早く起きて家を出て、相手の家まで殴り込みに行き、首根っこ捕まえて無理やり連れてきたのに。
それほど行きたかったのに。
北海道へ行きたかったのに。
わたしはくだらない絶望に屈して行けなかった。行くと決心できなかった。悔しい。
好きにならなければよかった。北海道の話なんて出さなければよかった。あんなに楽しみを語り合ったのに。職場に嫌な顔をされながら、なんとか3泊4日の休みをとって、このために贅沢を控えて、楽しい時間になりますように、ってただそれだけを願って、我慢に我慢を重ねて、期待に胸を膨らませていたのに。
大きな金槌で殴り殺された気分だ。頭と心に大きな空洞ができたのを感じる。わたし、落ちてる。ぐるぐるぐるぐる回りながら、暗くて深い場所へ落ちていっている。
もう何もがんばれる気がしない。