“私の日記帳”
日記帳を買った。
文字やラインが黒ではなくて、水色に近いグレーカラーだったのが珍しく気づけば手に取っていた。お目当てだった何冊かの本と一緒に袋に入れてもらって店を出る。外で待っていた男が差し出す手に、いつもの様に預けようとしてから、なんとなくそういう気分になれずに伸ばした手を引っ込めると男は不思議そうに眉をハの字にした。
何を買ったの?穏やかな声が降ってくる。今日はヒールのある靴を履いていないから、やけに上から声がする気がする。荷物を受け取るために伸ばされた手は、そのまま私が袋を持っていない手の方に伸ばされた。その手を受け入れて、握りしめながら対した物じゃない。と答える。我ながら嫌な返事をしてしまったものだと思ったけれど隣を歩く男は対して気にする様子もなく、そうかとやっぱり穏やかに笑う。
穏やかに笑う男と私は、数年前までは人殺しの仕事をしていた。人を殺せば殺すほど英雄と讃えられた。人を殺さなければ自分が死ぬような、そんな場所で生きていた。私が初めて日記帳を手にしたのはそんな戦場へ赴く直前のことだった。母に手渡されたその白い日記帳には、気づけばこの男の愚痴ばかりが綴られていって、そして最後まで書き切ることなく宇宙のチリになった。
その時母に手渡された日記帳に似ていた気がしたのだ。きっとそこまで言っても彼はやっぱりそっかとだけ言うのだろう。もしかしたら少しだけ寂しそうに眉をハの字にするかもしれないけれど。でもやっぱり穏やかに笑うだけだろうから。
家に帰ったら、そうしたら少しだけ話をしようか。ぎゅうと傷だらけの手を握るとややあってから同じくらいの力で握り返される。
私がそこら辺の小さくて柔らかい女のコだったら痛みで泣いているぞと思って少し笑う。俯いて笑ったつもりだったのにしっかり気づいたらしい男がやっぱり穏やかに何さと覗き込んできた。
覗き込んでくる顔がやけに可愛くみえた。きっと今日買ったこの日記帳には最後のページまでびっしりこの男との幸せな毎日が綴られていくのだろう。
“やるせない気持ち”
失礼いたしました。明らかに緊張した様子で慣れない敬礼をした新人がロボットの様に執務室を出ていく背中が自動ドアの向こうに消えていくのを見送って、はあと思わずため息をついた。
大きな戦争を何度も繰り返し、ようやく掴み取ったはずの平和はもう既に当たり前のものになったらしい。数年前までは、生き残るだけでどんどんと昇進していったものだが、今はそうもいかないらしい。先ほどの新人の歳の頃の自分は既に何人もの部下を率いて前線で文字通り命懸けで戦っていたというのに。
「……これも老害、というやつか……?」
一人きりの執務室で呟いても返事があるわけもなく、俺はまたため息をついた。老害、というほど歳を取ったつもりはないけれど、どうにも世の中は大戦の経験者かそうでない者かで価値観が大きくズレているらしく、偉そうに語る大戦の経験者のことを、若者たちは裏ではそう呼んでいるそうだ。
平和になったのだな、やるせない気持ちで机の引き出しの鍵を開ける。この机の引き出しは特別に注文して鍵をつけてもらったものだ。今どき指紋認証だのカードキーだのともっとデジタルな方法もあるが、この引き出しには鍵を差し込んであける鍵を付けてもらった。
小さな鍵をかるく捻ると、カチャと音がする。引き出しの中には色々なものが入っている。ネックレスにチェスの駒たちに、プラスチックのケースに入った錠剤に、隅の隅まで書き込まれたノートに、楽譜に、写真の入っていない割れた写真立て。そして大量の、遺書の束。
最初は自分の直属の上司の形見だけだったのが、見送った部下のものが増え、気づけば他に引き取り手のいない曰く付きの形見まで引受けることになっていた。中には一言二言交わしたか交わしてないか、なんて者もいるが仕方ない。何せ生き残るだけで昇進するほど人が死んでいく世の中だったから、一言二言交わしただけで生き残った中で一番近しい者に選ばれてしまうのだ。
トントンと部屋の扉がノックされた音にふと我に返る。入ってもよいかと尋ねる数少ない同期の声に無言で答えて引き出しを閉めた。
どうかこれ以上、引き出しの中身が増えることがないように。同期がドアのロックを解除する音を聞きながら、コーヒーを淹れるために立ち上がった。
“海へ”
君が突然、海へ行こうと言うから私はとてつもなく渋い顔を作って立ち止まってやった。君はそれも想定していたのだろう。立ち止まった私の二歩くらい前からヘラヘラした顔で振り向いた。
「いいだろ、行こうぜ。最後の夏なんだから」
「……最後かどうか、まだわからないだろ」
誰かさんが受験に失敗するかもしれないからな、と思ってもない憎まれ口を叩く私を見て、やっぱり彼はヘラヘラ笑って髪をかきあげた。
よく晴れた真夏の太陽の光を浴びて、彼のご自慢の金髪がキラキラと輝いている。中学卒業と同時に黒髪って似合わないんだよねオレ、なんてドラッグストアで買ったらしいブリーチ剤で脱色したっきりずっと金髪だったその髪もきっとそろそろ黒く染めてしまうのだろう。
もしかしたらもう金髪の彼は見納めなのかもしれない。一足先に推薦で進路の決まった私と違い、彼はこれから暫く試験勉強だったり面接だったりときっと忙しくなる。そして受験が終われば卒業がやってきて、私と彼は離れ離れになる。
「最後じゃなくてもさ、今お前と海がみてぇの」
いいだろ、私が断るなんて微塵も思ってないって顔をした彼が自転車にまたがった。夏の生温い風に、金髪が揺れている。大学に行ったら、彼はまた髪を染めるのだろうか。もう、会えなくなるんだろうか。
私が後ろに乗ることを少しも疑っていないどっしり構えた広い背中が無性にムカついた。
「仕方ないから、付き合ってあげる」
「最初っから断るつもりなかったくせに」
“裏返し”
ドスドスと必要以上に響き渡る、聞き慣れた足音が聞こえた途端クラスメイトの憐れみの目が一斉にこちらに向くのが、顔をあげなくてもわかった。俺はため息を付く暇もなく、慌てて持ち帰るべきノートや筆記用具をカバンに詰めて立ち上がった。
足音が聞こえなくなると同時に、手をかけていた目の前のドアが勢いよく開いて、目の前には見慣れた顔。いつにも増して不機嫌そうな顰めっ面をしている彼は何も言わずにただ顎をクイと動かして教室を出るように促した。
まるで決闘でも始まるのではないかというほどピリついた空気にクラスメイトの不安そうな視線が背中に突き刺さる。ほぼ毎日のことながら、怖い怖いと噂の先輩に呼び出されては怒鳴られている俺の心配半分、こんなところで暴力沙汰でも起こされては堪らない、という心配半分のその視線たちにハラリと手を振るだけで答えて、俺は教室の外へ出た。
週末の放課後に浮足立った下級生を蹴散らすかの様に、肩で風をきって歩く彼の斜め後ろをついていく。蹴散らされた彼らからみれば、怒り狂った先輩に呼び出されてついて行く何かをやらかした後輩に見えているんだろうかと思うと笑いがこみ上げてくる。
一瞬振り返った彼は、笑いを堪えて口をムズムズしている俺に呆れているようだった。
「随分と間抜けなツラだな」
「ちょっと、おかしくなっちゃってさ」
「……はぁ?」
声を荒げた彼を、すれ違った名も知らない同学年の生徒たちがギョッとした顔で顔色を伺うように覗き見ているのがおかしくて、思わず笑いがもれてしまった。
俺に向ける彼の不機嫌そうな態度も顔も、本当は全部優しさの裏返しなのに。道行く生徒皆に大声で言ってやりたい様な、彼の優しさをずっと独り占めしておきたい様な、複雑な気分だ。
“夜の海”
付き合って、とおもむろに言われてそっけないふりをして頷いた俺は、そのまま彼女に手を引かれ夜の海まで自転車を走らせていた。
日が落ちてもなお、茹だるように暑い。海沿いまで走らせてやっと風を感じるようになったが、それでも暑いものは暑い。こめかみや背中を汗が伝っていく感触が気持ち悪い。俺はなんでこんなに必死にペダルを漕いでいるんだっけ?現実から目を逸らすように俯いた視界の先に、自分の腹に回された彼女の腕を見つけた。じわりと更に暑さが増したみたいだった。
彼女はあれから一言も喋らない。顔を合わせれば憎まれ口の応酬となるのが常の俺達がこれほど長い時間無言を貫いているのは多分出会ってから初めてのことだ。
なんで俺を誘ったのか、なんで海なのか、なんで喋らないのか、聞きたいことは山程あった。重たいと、疲れたと、なんで後ろに座ってるんだと言ってやりたいことも山程ある。だけど一言でも口にしてしまったら何かが終わってしまう気がして、何も言えずにただひたすらペダルを漕いでいた。
やっとたどり着いた目的地で自転車を降りる。一足先に降りていた彼女が浜辺への階段を降りていくのにただ黙ってついていく。日中は家族連れや学生でごった返す浜辺も夜は流石にほとんど人影はなかった。
人のいない浜辺に、俺達二人の足音と波の音ばかりが響いていた。湿気で跳ねる癖っ毛を必死に撫でつけている俺とは裏腹に彼女は肩まで伸びたストレートヘアを惜しげもなく海風に靡かせていた。そろそろ聴いても許されるだろうか。こわごわ口を開くと、見透かした様に彼女が振り向いた。
「……好きなの」
「……えっ、と……」
「私ね、夜の海好きなの」
だからずっと来てみたかったのよ。あっけらかんと彼女が笑った。こっちの気も知らないで。モヤモヤとした気持ちを踏み潰す様に俺は大きく一歩を踏み込んだ。やっぱり彼女は見透かしていたみたいににんまり笑う。
「ね、期待した?」
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尻切れトンボ(恒例)