二人はソファに並んで腰掛けて分厚い動く写真集を開いていた。
大きな白い雲がゆっくりと流れている青空の下で、広大な砂浜に波が押し寄せ、やがてまた静かに引いていく。
「ねえ、サーシャは海へ行ったことある?」
「あるよ。オーギュは、
……覚えてないか。」
「うん、絵や写真では見たけどね。
私が海に行ったことあるかサーシャには読み取れない?」
「無理だよ。私の特性〈のうりょく〉のことを言うとよく間違えられるけど、私が読み取るのは感情だけ。
考えや記憶を読み取る能力がある魔法使いのことは、本で読んだことならあるけど実際に会ったことはないよ。
もしそんなことまで読み取れてしまうなら、その人は私よりもっとしんどいだろうね。
……私にわかるのはオーギュが海の記憶がなくて悲しんでるってことだけ。」
そう言うと、サーシャはそっと抱き寄せると私の頭を肩にもたれさせ、髪をやさしく撫でてくれた。
「オーギュは海に行ってみたいの?」
「うん……絵や写真で見た記憶だけだから、一度実際の海を見てみたいな。」
「…….海っていうものは凶暴だよ。
私の好きな泉や湖や小川なんかとは全然違う。怒りにまかせて荒れ狂って何もかもを飲み込んでしまう。
水の精霊が、海の精霊と湖の精霊と……って役割を分けたようにね、同じ水でも違うものなんだよ。
海は、オーギュも前会ったマリエルみたいなもの——あるときは荒れ狂って手がつけられないけど、またあるときは不思議なくらいに優しく穏やかでね……。
マリエルのことを嫌いなわけじゃないけど、彼といたらさんざん振り回されるからね。」
そう言ってサーシャは写真集のページをめくり、雷を伴う激しい嵐に猛り狂う海の写真を見せた。
「私は嵐なら止められる。」
オーギュが呟くように言うと、写真の激しい雷雨がすーっと止まり、吹き荒れる風も止んでしまった。
「今何やったの!?これ写真だよ?」
サーシャが驚いてオーギュを見た。
すると、オーギュは驚き怯えた目でこちらを見ていた。
「……私はただ、嵐を止められるって言っただけだよ。今は何もしてないのに……。」
サーシャは動く写真集をぱたんと閉じると、オーギュをそっと抱き寄せた。
「他者の感情がそのまま入り込んでくるなんて、ただ厄介なだけだったけど、これのおかげでオーギュのことをわかってあげられるね。
……大丈夫。何も心配いらないよ。
いつだって私がそばにいるからね。」
(フリートフェザーストーリー いつかのできごと篇 #3 : お題「海へ」)
「今日の課題は目の前のコインを裏返すことだ。
ただし、杖は使ってはいけない。
もちろん、コインに直接触れてもいけない。
さあ、やってみなさい。」
「……杖なしでなんてできるわけないじゃんね。」
ミアはイゾルトの方を見てぼやくように言った。
「前の授業聞いてなかったの?とにかく集中することだよ。物質を構成するプリマ・マテリアを見通して、マナの流れに干渉するの。『杖を使っている時もやっていることは同じだ。杖なしでできないわけはない。』ってね。」
イゾルトは少し呆れた様子で言った。
「イゾルトは教授の声真似は上手いけどさ、それってちゃんと理解して言ってるの?」
ミアの言葉には答えず、イゾルトは手をかざしてコインを裏返そうと躍起になっていた。
しかし、コインはカタカタと震えるだけで裏返る様子はまったくない。
「なんだ、偉そうなこと言っても結局裏返せないんじゃん。」
「……ミアは1ミリも動かせてないくせに威張らないで。」
「だってこんなの、いきなりやれってほうが無理じゃん。」
「そこまで!」
教授は手に持った杖を高く振り上げて言った。
「とても残念だ。今回できたのは二人だけだった。私の授業を聞いている者であれば、当然に全員できると思っておったが。」
教室の黒板の前にはサーシャとオーギュが立たされていた。
「できなかった者は次の授業までに練習してきなさい。
ゴブストーンやチェスなんかで遊んでいないで、もっと自然の中に行きなさい。
そよ風を浴びて、湧き水の音を聴いて、大地の温もりを感じなさい。
そうすることもせずに、マナを感じ、捉え、操ることなどできはしない。いいね?
……では本日はここまで。」
教授はそう言うと分厚く重そうな本をするりとマントの中にしまい込んで颯爽と教室を去っていった。
(フリートフェザーストーリー いつかのできごと篇 #2 : お題「裏返し」)
私は飛行訓練を終えて箒の手入れをしていた。
教授に小言を言われるのは何度目だろうか?
……まあ気にしてもしょうがない。教授にいくら言われたところで、私にはこの飛び方しかできないのだ。
「オーギュ、うちのチームに入りなよ。」
階段から降りてきたイゾルトが唐突に話しかけてきた。
「教授はあんなふうに言うけど、普通と飛び方が違うのは強みだと思うよ。
みんな普通の飛び方の人しか相手してないんだからさ。
オーギュならすぐにエースになれるよ。」
私は少し考えてから答えた。
「……私は争いごとは好きじゃないから。」
イゾルトは少し呆れたような顔をして言った。
「争いったってスポーツだよ。ゲームだよ。
あんなふうに鳥みたいに飛べるのは君以外に見たことない。
それって才能だよ?
使わないのはもったいないと思うな。」
「……まあ、気が変わったらいつでも言って。」
そう言ってイゾルトが去っていったところに、魔法史の授業を終えたサーシャが入れ違いにやってきた。
「オーギュ、イゾルトは何て?」
私はサーシャにイゾルトが言ってきたことを説明した。
「たぶんイゾルトはただ強いチームメイトが欲しいんだよ。
でも、オーギュはそんなことしなくていい。
さ、今日の授業はもう終わったし、行こっか。」
サーシャは箒に跨ると、後ろに乗るように箒をとんとんと叩いた。
空中をそよ風のように優雅に飛びながら、サーシャは楽しそうに笑って言った。
「それにしてもイゾルトは鋭いよね、私達は〝鳥〟だもんね。」
(フリートフェザーストーリー いつかのできごと篇 #1 : お題「鳥のように」)
別れはいつもゆるやかに訪れる
さよならを言う間もなく
気づいたときには既に終わりを迎えている
衝撃を与えない優しさと
無言で去っていく残酷さ
気づいたときにはもう遅いんだ
さようなら、わたし
死はいつだってあなたのそばに
「鏡の向こう側」
-1-
なぜそんなことになったのか、きっかけになるできごともそんな兆候も何も思い当たることとはなかったのだけれど、私はある日を境に自分の姿が鏡に映らなくなった。
私はもともと鏡が大嫌いで、それを見ずに済むのなら一生見ずに過ごしたいというくらいだった。
だが、いざ鏡に映らなくなってみると、それはそれで不便というかなかなか困ったことになったと思った。
何しろ自分の姿が自分で確認できないので、身だしなみを整えることが難しい——とりわけ顔周辺に関しては。
他の鏡なら映るのではないかと色々試してみたが、自分の姿が映る鏡は一つも見つけることができなかった。
インターネットでガザの虐殺の様子や、政府に放置された能登の被災地の惨状なんかを見ていると、姿が鏡に映らないなんて、自分となんてくだらないことで悩んでいるんだ、となんだか落ち込んでしまった。
だからこんなこと大したことないさ、と楽観的に思えればいいのだけど、鏡に映らなくなって以来私の心はいつも今日の薄暗い鈍色の空のようにどんよりとしていた。
ある日他の人から見ても鏡に映っていないのかが気になって、恋人に聞いてみることにした。
しかし恋人には、何を言っているの、そんなことあるわけないじゃないかといった感じで怪訝そうな顔をされてしまっただけだった。
そして、私が見た鏡には変わらず私の姿は映っていなかったが、恋人の姿だけは昔と同じように映っていた。
-2-
自分の姿が鏡に映らなくなって半年後、私はようやく解決策を見つけた。
私には自撮りという習慣が全くなかったので、この方法を見つけるまで随分時間がかかってしまったが、どうやら鏡には映らなくともスマホのインカメラには映るようなのだった。
ともかくこれでとりあえず日常の生活には支障はなくなったが、それはつまり大嫌いだった鏡を見る暮らしと同じような暮らしに戻ることを意味していた。
しかしそうして暮らしていると、自分の姿が鏡に映らないということなどすっかり忘れて過ごすようになっていた。
そんなある日、Sky -星を紡ぐ子どもたち-というゲームのフレンドさんと『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』という映画の話をした。
この映画の原題は “Alice Through the Looking Glass”、つまり〝鏡の国のアリス〟だ。
その話から思いついたのが、鏡に姿が映らないのなら鏡の中に入ることができるのでは?ということだった。
そして部屋の姿見に手を突き出してみると、ぶつかるはずの場所をするりと通り抜けて鏡の中に手が入っていた。
そのまま鏡の中に全身を通すと、そこは鏡を通り抜ける前と全く同じ世界だった。すべてのものの左右が入れ替わったことを除けば。
私の脳の左右も入れ替わったせいか、実際のところそのことに気づくことすらなかったのだが。
-3-
鏡を抜けた先で、私は変わらない日々を過ごしていた。
というのも、もう一度鏡を通って元の世界に戻ろうとしたところ、私の姿が鏡に映っていて通り抜けることができなくなっていたのだ。
それは鏡に姿が映らなくなる前と何も変わらない日常だった。
そうして私は次第に鏡に映らなかった日々のことを忘れていった。
……元いた世界とは全く別の世界に来ていることに気づくこともないままに。