夜の帳が落ち始めると、彼はやって来る
チラホラと灯り始めた街の明かりを背に受けながら、彼はやって来る
指先から足元から私の体に絡みつくように彼は私の体を包み込む
待ちに待った彼との逢瀬の時間は毎回こうして始まるのだ
春には少し肌寒い空気に身震いしながら夜の桜を楽しみ、
夏には夜の海へ小さな小舟で繰り出してみたりする
秋にはくっきりと空に浮かんだ月を並んで見上げ、月明かりが眩しいほど美しい彼が愛おしい
冬には着ぶくれして大きくなった私を更に大きな体で彼が覆いかぶさって来る
そのどんな時でも私達は離れる事はなく、迫り来る別れの時までの濃密な時を紡ぎ合うのだ
こんな私達を引き裂けるものは存在しない
例えお互いが別れを決意したとしてももはや、それは不可能なほど私達の絆は深く強い
唯一、私達を分かつもの…
それは夜明け、だ
私達の逢瀬は日が落ちてから夜が明けるまでの間の、日の目を浴びることのない睦みなのだ
空が白み始めている
夜が明ける
どれだけすがって泣いても、あれほどまでに私に纏わりつくように私と重なり合っていた彼は、淡々と、未練ひとつ残さず去っていく
「また、明日も会える?」
そう呟く私に彼は言う
「天気次第だね」
幾度交わした言葉だろう
私はこの夜明け前の時間が恨めしい
そんな彼を世の中では、『影』と呼ぶらしい
『夜明け前』
心躍る楽しい予定があると、あと何日…♪とワクワクしながら眺めては、すでに付いていた◯印にさらに花びらを書き足したりしてみる
月が終わってその頁をめくる時も躊躇はない
ところが、大切な大切な人の命の期限がそれを何枚かめくった先にあると、月が終わってもめくって新しい月を迎えることが辛くてたまらない
出来ればその日が訪れないで…とありもしない架空の日付をつけ足してみたくなる
宣告された日が過ぎ、胸を撫で下ろすのも束の間、それからは毎日が宣告の日のようなもので、1日が無事に終わることの重みは言葉には代えられないほどだ
やがて、涙を流しながらめくった頁が数枚たまった頃、その日は訪れる
それ以降、そのカレンダーの頁はめくられることもなく未だに壁にかかったままだ
絶望と希望の涙で重くなったそれは、もうカレンダーの機能はとうの昔に終えてしまっている
こうしている今も、あちらこちらで色々な人々の色々な思いを預かりながら日々の暮らしを見つめている
新しくめくられた今日はどんな1日になるのだろうか…
『カレンダー』
この人がいなくなってしまったら、どうしよう?
これが失くなってしまったら、どうしよう?
と、どれだけ心の準備をしたところで、喪失感というものは感じずにいられることはない
失ってからしか感じられないものだから、予行演習は無意味なのだ
喪失感に襲われない為に、愛する人を持たず、大切なものを持たず、すべてのことへの執着を捨てて生きれば良いのだろうか…
例え喪失感からは免れたとしても、そんな味気ない人生、私はご免だ
喪失感は彩り深い人生の代償のようなもの
喪失感が深いということは、その人への、その物への愛が深かったことの何よりの証
喪失感とは限りあるものの宿命なのだ
『喪失感』
「嫌だよ〜!こんなの格好悪いよ!
皆が持ってるみたいなアンパンマンとかのがいいよ〜!」
と、息子の智哉は尚美のお手製のトートバッグを払い除けた
手先の器用な尚美は、智哉が誕生した頃から身に付ける物はほとんど手作りをしてきた
材料費や手間を考えたら買った方が断然安上がりだ
それでも尚美は自分の母親がそうしてくれたように、我が子にはなるべく手作りの物を持たせたいと思っていたのだ
智哉もついこの間までは大人しく尚美の作った物を文句も言わずに着たり使ったりしていたのに、ここのところの自我の芽生えで自分の気持を主張するようになってきていた
「ママが作ったのなんて嫌だよ…
お店屋さんで売ってるのがいいの!皆と同じのがいいの!」
と泣きじゃくりながら、尚美の作ったトートバッグを投げたり足で蹴ったりした
そんな智哉をなだめながら尚美はそのトートバッグを拾い上げ、智哉を膝の上に座らせた
「そうね智ちゃん、お店屋さんで売っているバッグはとっても素敵よね!
でもね、ママの作ったこのバッグは、ママが世界一大好きな智ちゃんのためだけに一生懸命作った世界にひとつだけのバッグなのよ 世界中のお店を探したってどこにも売ってないんだから!誰も持っていないのよ!」
「ボクだけ…?どこにも売ってないの?ボクしか持って無いの?」
「そうよ、智ちゃんだけ特別よ」
「ボクだけ特別?スゴいね!」
「そうよ、ひとつしか無いのだから大切に使ってね 」
「分かった!大切に使う!」
そんな昔の智哉とのやり取りを、尚美は断捨離をしながら懐かしく思い出した
智哉が大学入学と共に自宅を出てからすでに10年が経つ
智哉の部屋は当時彼が出てからほとんど手つかずにそのままにしてある
「勝手に処分してくれていいよ」と言われてはいるが、どこかでこのままにしておきたい気持ちも未だ捨てきれずにいた
ようやく重い腰を上げ少しずつ処分していこうとクローゼットを開けると、「宝物」と張り紙のついたプラスティックケースが出て来た
中からは当時智哉が夢中で集めていたカードゲームやフィギュアが次々に現れた
そのどれもが懐かしく、智哉の幼い頃の顔が目に浮かんだ
その箱の1番下には、丁寧に畳まれたあのトートバッグが入っていた
その他にも尚美がその後も作り続けたアイテムがすべて納められていた
物の価値の分かる子に、物を大切にする子に育って欲しいという思いは、どうやらしっかりと智哉に伝わっていたようで、尚美は温かな涙が次から次へと溢れ出た
「捨てられるわけないじゃない…」
大切なものには大切な思い出が沢山詰まっているのだ
「この箱の中には世界でひとつだけのものだらけだもの…」
尚美はその蓋を丁寧に閉め、元のケースがあった場所にふたたび納めた
智哉がまたその子供たちに、この思いを伝えていってくれることを願いながら…
『世界にひとつだけ』
「胸の鼓動」このお題を見て、胸がドックン!とした
ちょうと先日夫とそんな話をしていたからだ
韓流ドラマを見ながら、見目麗しい推しの俳優が画面いっぱいに映し出されると
「胸がキュンキュンする〜」
と悶える私に夫が冷ややかに言い放った
「それを我々世代は胸のトキメキではなく『動悸』と言うんだ」
な、なんて事を!
と思いながらも、思い当たり過ぎて笑ってしまった
そんな、切ないお題に私の胸は動悸、いや、ドクドクと鼓動したのであります
『胸の鼓動』