『夜景』
見下ろした夜の街で数万人が生を全うしている。
山を下れば、途端に自分もその一員になるというのが不思議で堪らない。
白い息の行方を目で追うと、燦然と輝く無数の星が夜空に散らばっていた。そのうちの一つを摘んで口へ運ぶ。そんなふりをする。
さらに山を登れば、さらに街は縮こまる。
星は大粒になったかと見上げたが、変わっていなかった。
いつかもっと高い山に登ろうと思った。
頬張る星が飴玉くらいの大きさになるまで、登ろうと思った。
そうして街が見えなくなった頃、世界に忘れられたい、と思った。
その日が来るまでは、この夜景の一部として生きよう。
最後、見下ろす世界が美しいものであるよう、努力をしよう。
そう心に誓い、私は山を下った。
『花畑』
塔風車の下、一輪の花を手に歩く人の姿が見えた。
私はふと声を上げた。否、上げようとしたその次には人影は消えていて、喉元にとどまった。
あれは誰だろうか。私はなぜ声を掛けようとしたのだろうか。
思えば、私はなぜこの懐かしい花畑に足を運んだのだろうか。
あの人が胸元に抱えていた花を知っている。
──ダリア。
私は回想した。雲隠れを繰り返す満月の鬱陶しい夜のこと、あの花畑に立つ。数多の色と香りに包まれ、誰一人もいない空間をふらり散策するのが好きだった。
風車の佇む小高い丘に座り一望していると、傍らに寂しく純白のダリアが咲いていた。
風もない静寂の中、私は一輪の花と不思議な夜を過ごした。時折、ダリアはその華奢な体を揺らしてみせた。風は吹いていない。
それ以来、あの花と私が邂逅を果たすことはなかった。ダリアは姿を消してしまったのだ。
気づけば、あの花畑に行くことも少なくなっていた。
今朝は久々の晴れだった。私は半端に開いたカーテンの隙間から覗く陽光に目を覚ました。散歩の用意を整えて玄関を出ると、庭の隅に浮いた色を認める。近づくと、それはあの夜に出会ったダリアだった。
私はその姿をじっと見つめ、しばらくして歩き出した。
花畑に着いた。あの夜から半年が経っていた。私は消えた人影を追って塔風車のもとへ駆け寄る。そこには幾人かの作業員がいた。
聞けば、風車は老朽化のため、取り壊されるらしい。
単調な心持ちで帰途に就く。家に辿り着いた私が唖然としたのは、先刻のダリアを持ったあの人が庭に立っていたからだ。
人と形容することを躊躇うほど、神秘的な雰囲気を纏っている。
その人は優しい笑みを浮かべたかと思うと、たった一言を残し消え去ってしまった。
私はその言葉を幾度か反芻すると、庭の隅に植わった白のダリアのもとに寄り、こう告げた。
「こちらこそ」
『本気の恋』
戻らない恋の儚いことを知ったのは学生時代のことである。
散り切った桜の行方はここなのだと思った。彼女は、美麗であった。美麗さを振り撒かないある種の信念すらも美しく感じた。後に恋と知るその感情は私の心に介入するばかりに留まらず、瞬く間にほとんどすべてを占領した。
私を火照らすのは夏ばかりではなかった。彼女の心を震わすような言葉が欲しかった。彼女の笑みを絶やさないよう懸命に生きた。彼女の見えない部分がゆっくりと移ろい始めたのがこの頃であったのは、後に彼女から聞いたことだ。
短すぎる長期休暇が終わり、食欲や読書よりも優先したいことが私にはあった。彼女もきっとそうだろうと思っていた。そうして見上げた彼女の顔が、寂しかった。互いに見据えた近い未来に相手がいないであろうことを悟ったのは、紛れもない私たちであった。
凍てつくような吹雪が二人の距離を縮めていた。触れていたいと、君といたいと、未だ知らない何かに埋もれた心が呟いていた。彼女は言った。「二人して泣いてバイバイなんて、私たちが本気の恋をしてた一番の証拠だよね」
去り際の抱擁を、笑みを含んだ別れの挨拶を、今もよく憶えている。