「幸せに……」
そこまで言って僕は言葉を止めた。桜舞い散る丘の向こう。ぽつりと立つ木が1つ。
この木の下で出会って、同じ時を過ごして、そしてそれからぱたりと姿を消してしまった君。メッセージアプリも、SNSも全て繋がらなくなってしまった。
握りしめた手紙は、君が好きだったシーリングスタンプで留められている。
淡いピンクの桜を象った、それ。桜がすきなんだと、この木の下で花が咲くかのように笑ってみせた君。
手紙の中身はまだ見ていない。見てしまえばこの関係の行方が決まってしまうから。
もしかしたら、と思わなくはないけれど、それなら君はこんな回りくどいやり方なんてしない。
だから、もうすでに決まってしまったのだろうけど、僕はまだ夢を見ていたかった。
「ねぇ、幸せに……」
そこでまた、はたと言葉が止まった。
その先の言葉が出てこない。僕は君に何を願っているのだろうか。
なってね? なりたい? それとも『ならないで』?
僕は深呼吸をして下唇を噛む。
君の隣にいるのは僕がよかった。僕だけを見ていてほしかった。
「僕じゃない人と、幸せにならないでよ。戻ってきてよ、ねぇ」
急に吹いた風が花びらとともに僕の手の中の手紙も攫っていく。僕は追いかけなかった。
桜は今年も、綺麗だった。
寝転がって夜の空を見上げた。
目の前に広がる星の海。溢れて、溢れて、そのうち空から落ちてしまうのではないかと思うほど。
あの海の中を泳いで、両手いっぱいに星を掬ってみたい。そのひとかけらを食べてしまいたい。
星は、どんな味がするのだろう。こんぺいとうのようにほのかに甘いのだろうか、それともぱちぱちと口の中で弾けるのだろうか。
三角形を指でなぞりながら、そんなことを考えた。
お祭りで金魚を見つけた。
水の中できらきらと輝く小さな赤い魚。
ぼくは綺麗なものが好きだった。だから、金魚を掬って、水をたくさん詰めた袋に泳がせて家へ連れ帰った。
明日から、綺麗なこの子と一緒に暮らせるのだと思うと、少し寂しくて振り返るはずの帰り道も、今すぐに走り出したくなった。
次の日、ぼくは連れて帰ってきた金魚にご飯をあげた。お母さんが買ってくれた、魚用のさらさらした粒のご飯。こんなものでお腹いっぱいになるのかと思ったけど、金魚は沈む途中のそれをぱくりと上手に食べてみせるのだった。
これからも、この子と楽しく過ごせたらいいな。光る鱗はまるで晴れの日の着物みたいで、ぼくはうっとりしながらスマホのカメラを向けた。金魚は、どうだとばかりにその尾びれを振って見せるのだった。
1週間くらいしたとある日。
金魚は、元気がなかった。底の方に沈んで、目もどこかどんよりとしてある。ご飯も食べてはくれなかった。いつもなら水から飛び出ちゃうんじゃないかと思うほど元気よく向かってくるのに。
その日の夜は金魚鉢を布団の隣に置いて寝た。お母さんはぼくが躓いたらと心配していたけど、しばらく話して、金魚が元気になるまでの間ね、と言ってくれた。布団に横になると、金魚と目が合った。明日は元気になっていてくれたらいいな。
その次の朝。
ぼくは起きてすぐに、金魚鉢を覗き込んだ。
金魚は、白い腹を見せてぷかぷかと浮いていた。なんだか嫌な感じがしたけど、ぼくはお母さんを呼んで、金魚を見せることにした。
お母さんは、金魚を見ると、ぼくの頭を優しく撫でてくれた。魚の病院に連れていこう、とぼくが言うと、お母さんは静かに首を横に振った。
金魚は、しんでしまったのよ、とお母さんは言った。
死ぬ、という事はよく分からない。きょとんとするぼくに、お母さんは、あの金魚にはもう会えないことを教えてくれた。
ぼくは静かにお母さんの話を聞いていたけれど。
急にぽたり、と涙が零れた。
ひく、と声が漏れて、それから。僕はわんわんと、もう涙が出ないんじゃないかってくらい泣いた。
もう金魚に会えないなんて考えたくなかった。
お祭りの金魚はこのくらいで死んじゃうものだから、ぼくは悪くないのだと、お母さんは背中をさすってくれた。
ぼくはその日、命、という言葉の意味を知った。
大きな命、小さな命、どれも終わりがあるのだと言うことも知った。もしかして、お母さんもいつかいなくなってしまうんだろうか。そんなことを考えて、お風呂の中でまたちょっと泣いた。
ぼくはその日、お母さんたちの布団で寝た。
温かくて気持ちがよかった。命、がいつか終わってしまうのならぼくはどうしたらいいのだろう。
考えても、考えても、ぼくにはまだ分からなかった。
まだまだ暑い風が吹いて。ちりん、と窓の風鈴が鳴った。