図書館が好きだった。
いろいろな本が置いてあって、何時間でもそこにいられた。
図鑑も、専門書もさまざまな種類の本が綺麗に並べられ、そこにいるひとはみな、自分の時間を持っているように感じられた。
「何を読んでいるの?」
「…今日は、鳥の本。」
「あなた、昨日も一昨日も来てたわよね。
昨日は動物の図鑑で、一昨日は短編集を読んでいた、違う?」
急に大きな体のお姉さんが話しかけてきて、びっくりした。
大事な本の時間を邪魔されたのが嫌だったけど、それより読んでいた本を全て当てられたことに驚いた。
「なんで知ってるの?」
「おばさんね、あそこで受付してるの。あなたがいろんな本を読んでいるの、ずっと見ていたわ。」
「……」
「本が好きなの?」
「図書館が好きなんだ。ここならゆっくり過ごせる。」
「違う場所だとゆっくり過ごせない?」
核心をつくような質問をされて、唾を飲んだ。
「…ぼくは、足も早くないし、成績も良くないから」
「そうなの?おばさんには分からないわ。」
「ぼくが学校にいると、みんな嫌なんだって。
家にいると、みんな悲しい顔をするから…ここが…」
口淀むのを遮られるようにおばさんはまっすぐな目で見つめてくる。
「そうなのね…。あなたにとってのみんなは、あなたの良いところをなーんにも知らないのね。」
「いいところ?」
「例えば、この鳥はね、飛べないけど海を泳げるの。後、この鳥はダンスができるのよ?派手だからすぐ天敵に見つかっちゃうけど。」
「そうなんだ。」
「私にはね、君はとっても綺麗な羽根があるように見えるの。まだ小さいから、君にも、他の人にも見えないんだけれどね。」
ニコニコと笑みを浮かべながら背中を軽くトン、と叩いて、「ここにあるのよ」と続ける。
「本を読む時とても姿勢が良いところ、図書館に入る時ゆっくり歩いて音が鳴らないようにしているところ、本のページを折らずに丁寧にめくって読むところ。ほら、私が知ってるだけでこんなに綺麗な羽根がたっくさん。」
「……そんなことでいいの?」
「そんなこと?粗末に扱う人も多いのよ。その点、あなたは優れているし、私はあなたのその羽根は”まだ”飛べない翼に見えるの。」
「まだ?」
「そう。まだ飛べないだけで、あなたはいつかどの鳥よりも大空を飛べる立派な鳥になれる…例えだけれどね。」
実際、飛ぶわけじゃないわ。人間だもの。とお姉さんは続けて笑っていった。そして僕の手を取って、カウンターのそばの椅子に寄せてくれた。
覚えていますか?
今でも私は飛べませんが、あなたのおかげでこの翼で大事な人を守れるくらいには大きくて立派な鳥になりましたよ。
【飛べない翼】
ヒリヒリと痛みを感じた気がしたくらい、あの人が焼きついている。決していい思い出では無いのに。消えてはくれない。動揺を隠すように右手で左腕を掴み、力を込めた。
「恋愛ですか〜。もう懲り懲りって感じですね。」
表情もきっとうまくできていない。逃げるように別の話題を振って、その場ではことなきを得た。けれど、ふと思い出しては辛くなる。時間が解決してくれるとは言うが、人間の頭というのはそう簡単にできていない。匂い、音、見覚えのある全てでかさぶたになって治りかけていたそれを掻きむしってしまう。
「…早く、忘れたい。」
逃げるように入った給湯室の壁にもたれかかるように膝からしゃがみ込んだ。視界がグラグラしている、気がする。早く、早くここから逃げ出したい。
【脳裏】
ページをめくって、ページをめくって、それから、本を閉じた。五年間書き残されていたそれは、殴り書きの日もあれば、習字の先生が書いたのではないかと思えるほど丁寧な字の日もあった。その日の彼女の気持ちや、表情が嫌でも想像できてしまう。そもそも、嫌なら読まなければいい話なのだ。こんなもの。
「今更、あなたの気持ちがわかっても救ってあげられないのに。」
日記、と書かれたそれを忌々しく睨みながら、冷めた緑茶を飲み干した。ハンガーにかけられた今の私の胸のように真っ黒な服に袖を通していく。
彼女は今日、箱の中で私と間反対の和服を身に纏い、笑っているのだろう。
【意味がないこと】
思い出したいけれど、思い出せないことがある。
私には姉がいて、小さい頃から仲が良かった。姉はあたたかい陽気の日には庭にある木の下で私に本を読んでくれた。綺麗な長い髪がキラキラと光を反射しながら揺れて、穏やかに微笑むその姿に、幼い私は憧れていた。けれど、大人になってわかる。姉は、幼稚だった。大人になってからの私はそんな暇もなく、せかせかと日々をすごしている。あのころ、憧れに思っていた姉の穏やかさは、家族の裕福さに甘えていた証で、今はといえば不景気の中でそんな思い出も遠くに行ってしまった。姉が嫌いなわけではなく、むしろ、そんな不景気の中でも変わらず穏やかに過ごす姉の姿を見ていると、私はあの頃を思い出せるのだ。
ただ、本当に思い出したいことは思い出せない。
あの日、姉の膝で寝てしまった私が見た、不思議な夢。
【懐かしく思うこと】
私は、付き合っている人がいる。
男前でかっこよくて、でも愛情表現もしっかりしてる優しい人。愛しい人。大切にしたいと思っていた。けれど、その人は急にいなくなった。
どこに行ってしまったのか、見当もつかない。
あの人のいないこの部屋が、こんなに静かで寂しいだなんて。私の呼吸の音だけが響いて、反芻する。怖い。あの人を失うのがとても怖い。警察に頼るべきだろうけれど、もしかしたらふとした拍子に帰ってくるかも、という希望が捨てられない。ご家族にはまだ挨拶をしていないから、行方を知らないか聞くこともできない。
どうしたらいい?
物音ひとつない部屋に、夕陽が入り込む。部屋は朱く照らされて、その光を私も無抵抗に羽織る。赤い。顔を伏せて微かに見える外にカラスが飛んでいくのが見えた。
あの人もどこかに飛んでいってしまったのかな。
知らぬ人よ、聞いてくれ。
私には付き合っている人がいる。出会ってすぐに結婚を決めてしまえるほど良い女性で、結婚には踏み切れなかったものの同棲の話が出た。嬉しさのあまり、会社の同僚にその話をしたら、逆上された。同僚とは飲みにいったり、食事に行くことはあったが、二人きりの空間になることはなかったし、彼女が言っていることはちぐはぐだ。
私は、彼女から逃げる為に必死に逃げて、逃げた。逃げたはずだった。
それなのに、彼女は私の家に今いて、足元には愛する人が横たわっているのが見える。かろうじて肩が動いているのが見えて、生きていることに安心したが、彼女は勝手にカーテンを開けており、煌々と入る夕陽のせいで愛する人が本当に無事なのかが分からない。
彼女は私を見るとニタ、と笑って机から立ちあがった。
「やっぱり、帰ってきたね。」
【もう一つの物語】