《静寂に包まれた部屋》
僕は先日から、5カ国間首脳会議とその後に続く各国首脳との軍事貿易に関する協議を行う為にある国に滞在していた。
予定としては6日間であったが、首脳会議が想定以上に順調に進んだ為に終了が1日前倒しになった。
もう少し軽い外交であれば彼女を伴って行ったところであるが、今回は各国の最重要人物が一堂に会するものだ。
その身の監視が目的とは言えど、闇に魅入られし者の可能性が高い彼女を連れて行くには不安要素が大き過ぎる。
今まで彼女を監視していたが、少なくともその心根は他人を害するような物ではないと知る事は出来た。
甘い。そう言われるかもしれない。
それでも僕の自宅内であれば彼女を自由にさせていても問題無いと判断し、僕は初めて彼女を一人残し出発した。
『話し合いがスムーズに行くといいですね。』
玄関で僕を見送りながらそう言ってくれた彼女は、笑顔ではあるが気の所為でなければどこか元気が無さそうだった。
いつもの会話の中にある満面の笑みが目の前に無い事に、僕は少しの不安と寂しさを覚えた。
『身体には気を付けて。』
いつもの笑顔を曇らせているものが、体調不良ではありませんように。
そう祈りつつ彼女に声を掛けると、その元気の無さを振り払うように笑み崩れた。
『…はい。あなたも、気を付けてくださいね。』
そうして互いに手を振り僕が歩き始めた後も、振り向けば貴女はずっと玄関前に立ってくれていた。
出発前の光景を思い出しながら急ぎ歩いているうちに、眼の前には夕方前の柔らかい光を受けた玄関が。
そこには、彼女は立っていない。
それもそうだ。予定よりも早い日程の帰宅、しかも連絡も無しだ。
飛空艇ならば然程の時間も掛からないからと、連絡をする間も惜しみ急いだのは僕だ。
玄関は、きちんと施錠されている。戸締まりはきちんとしてくれているようだ。
僕は懐から鍵を取り出し、鍵穴に差し込みカチリと回す。
扉を開けると、西に向かい始めた日光のみが光源のエントランス。
「ただいま戻りました。」
声を出すも、返事も無い。
ただひたすらな沈黙が、エントランスを包む。
この家は、こんなにも静かだったか?
最近は彼女と二人ここを出入りするのが当たり前になっていた僕には、その静けさが奇異なものにすら感じられた。
とりあえず施錠し直した玄関に荷物を置き、僕は家の中を巡る。
廊下を辿り、リビング、食堂、洗面所も。
だが、彼女の姿は見当たらなかった。
いつも僕の隣で楽しそうに話をする貴女。
食堂で向かいの椅子に座り、美味しそうに食べ物を咀嚼する貴女。
見られていないと油断しているのか、朝に時折僕の後ろで大きな欠伸をしている、廊下の窓ガラスに映る貴女。
離れていたのは、たった5日のはず。
元々、ここ数年は僕の一人暮らしだったはず。
かつての当たり前が、いつの間にか不自然へと変化していた。
それをじわじわと実感しながら廊下の突き当りに向かうと、扉が開いている部屋がある。
あそこは…彼女の寝室だ。
いつもなら閉じられている扉、きっとその中に貴女がいるのだろう。
微かに逸る気持ちを押さえ、室内が見えないように近付いて軽くノックをする。
反応が返ってこないので、声を掛けてみる。
「もしもし。ただいま戻りました。」
…返事が返って来ない。
他の部屋の扉は閉まっていた。
女性の寝室に失礼ではあると承知してはいるが、何事かあってはそれこそ問題だ。
そう考えた僕は緊張に包まれながら、そっと開いている扉の向こうに入った。
するとそこには、普段着のままクッションを胸に抱きながらベッドで眠る彼女の姿があった。
足は、ベッドの外に投げ出されている。おそらく、座った状態から横になったのだろう。
とりあえず、何事も無くてよかった。
僕はいざという時の為の緊張を解くと、音を立てぬように眠る彼女に近付いた。
そっとベッドの脇にしゃがみ、彼女の様子を伺う。
物音の無い室内では、耳は彼女の小さな寝息すらよく拾う。
よく眠っている。顔色もいい。
出発前に心配したような体調不良は、全く無さそうだ。
でも、その寝顔にはまだ出発前の曇りが残されている。
夜には早いが、目覚めるまでそっと寝かせておいたほうがよさそうだ。
その曇りの理由は分からないが、風邪をひいてはいけない。毛布でも掛けようか。
そう考え、ベッドに手を伸ばそうとしたその時だった。
「会いたい…『貴方』に会いたいな…」
僕の顔のすぐ近く、会いたいと囁かれた僕の名前。
まさか、もしかして。
貴方の表情の曇りの理由は。
3年前に家族を皆喪って以来、ずっと一人で過ごしてきた家。
ここにまた、僕に帰って来てほしいと願ってくれる人がいる。
それの何と喜ばしいことか。心強いことか。
貴女が目覚めたら、また明るく暖かい日常が始まるのだろう。
いつもどおりの優しい、大切な日常が。
心に灯った小さな光の暖かさを抱きしめながら、僕は手にした毛布をそっと彼女に掛ける。
「ただいま。」
小さく囁き貴女の髪を撫でるとその顔から曇りは去り、小さな笑みの浮かぶ寝顔になった。
僕は、静寂に包まれた部屋で密かに願った。
ゆっくり休んでほしい。でも、早く目覚めて聞かせてほしい。
あなたの声で、「おかえりなさい」と。
《別れ際に》
私が彼と本部から帰宅する途中、狭めの路地に差し掛かった。
夕日が赤く辺りを照らすそこには、二人の若い男女が向かい合わせに立っていた。
どうしたんだろう?
不思議に思った私達は少し遠巻きに立ち止まり、事件などの何事かがないように様子を伺うことにした。
男の人が物憂げな表情を浮かべ、ぽつりと「実は別の女性に言い寄られてて…別れてほしいんだ。」と呟いた。
すると女の人は少し驚いたような表情になり、男の人を真っ直ぐに見つめた。
別れ話…。
なんて場面に居合わせちゃったんだろう。
私はそれを言われた女の人の心境を想像してしまい、心が苦しくなった。
隣りにいる彼を見上げると、同じことを思ったのかショックを受けたような彼と目が合った。
別れを口にされる寂しさ。私は、これを知っている。
もう二度と、その言葉は聞きたくない。
その時の辛さを思い出しながら私は彼から視線を外し、また若い男女に目を向けた。
すると、女の人は花が咲いたような鮮やかな笑顔になった。
とても晴れやかな、同性の私が見ても凄く綺麗な笑顔。
「分かったわ。なら、これで終わりにしてあげる。」
そして女の人は朗々と響く声でそう告げると、男の人がその笑顔に驚く間もなく右手がシュッと動いて。
男の人のみぞおちに、綺麗なボディブローが入った。
その腰にしっかり重心が置かれた見事なボディブローを受けた男の人は、悲鳴を上げる事も出来ずに身体をくの字に曲げて膝から崩れ落ちた。
それは、私の目にはスローモーションのように見えた。
道の真ん中に倒れ込んだ男の人を背に、女の人はスッキリした様子で道の向こうへと去っていった。
あまりにも見事な、別れ際の一撃だった。
これは…あの男の人は…。
「鍛え方が足りない。」
つい、私は口にしてしまった。
いつも隣りにいる軍人の彼を基準にしてしまうせいか、私はどうしてもその辺りの判定が厳しくなってしまう。
「いや、一般の人にそれを求めるのは無茶が過ぎます。それに、突っ込むべきはそこではないでしょう。」
思わずと言った感じの、彼の返事。
うん、まあ分かる。さっきの女の人のパンチ、本当に素人か疑いたくなる鋭さだったし。
何にしても倒れてる男の人を放置も出来ないので、二人でそっと近寄ってみる。
すると、道に頬を当てて涙を流しながらその人はボソボソと呟いていた。
「まさか…君がこんないいパンチを持ってたなんて…
俺が間違ってた…やはり俺には君しかいないんだ…」
その瞬間、辺りの空気が一瞬で凍った。
そ こ で 目 覚 め ま す か 。
まあ大丈夫そうではあるし、一人で自然と立ち直ってもらうのがここは得策なんだろうな。
これは、帝国では暴行罪のうちには入らないっぽいし。
無言で彼と目を合わす。どうやら彼も同じ意見みたいで、とりあえず一緒に一歩二歩と男の人から遠ざかる。
けれど、迂回できる道からはかなり離れている。
道に横たわりボソボソと呟きながら涙を流し続ける男の人を見ながら、私達は呆然と立ち尽くしてた。
「「横切るには気まずいにも程がある」」
《通り雨》
体調が万全でないのもありますので、保全しておきます。
いつも読んでいいねを下さっている皆様には、本当に感謝しております。
この場をお借りして、御礼を申し上げます。ありがとうございます。
《秋🍁》
私は今、彼と若い作家が集まった彫刻の展覧会に来ている。
たくさん並ぶ作品たちはどれもレベルが高くて、私は館内の邪魔にならない程度に一言二言ひっそりと彼と感想を伝え合いながら見学を楽しんでいた。
そんな中、新進気鋭の芸術家が作成したという彫刻があるスペースに足を踏み入れた瞬間。
その作品に、二人とも一気に目を奪われてしまった。
眼の前にある『秋』というタイトルの彫刻は、ブロンズで作られた等身大の男性を写実的に表現したもので。
全力で走っている若い男性の躍動感、力強い筋肉の動き、風を切る髪や服の流れの緻密さが細部まで彫り込まれているのは本当に見事で。
観察眼も動体視力も表現力も、素人でも分かるくらいに高い。
新進気鋭と謳われるのも、頷ける。凄いなぁ。
ただ、目を奪われたのはそれだけじゃなくて。
彫刻の若い男性は全速力で走りながら口にあんパンを咥え、左手にはたくさんの食べ物が入った紙袋を抱えながら右手で本を支えて読んでいる。
運動の秋、食欲の秋、読書の秋。そして彫刻という、芸術の秋。
現実には不可能な動きでも写実的な彫刻なら可能だと言わんばかりの、秋のてんこ盛り。
パンを咥えた若い男性の表情は獲物を視界に入れた狩人のようで、溢れるエネルギーを持て余してるのが一目で分かる。
技術と表現力が段違いなだけに、その構図の異質さはとんでもなく際立ってた。
ちらりと隣の彼を見ると、呆気に取られた表情で固まってる。
軍人の中でも位の高い家系に生まれ育った彼には、こういう方向は馴染がなかったのかもしれないなぁ。
感想を伝え合った内容からは、彼は知識は凄く高いけれど芸術は崇高なものだと受け止めてる印象がある。
真面目で素直な彼が真っ直ぐ学んできた成果なんだよね。私は、そういうところを尊敬してるけど。
…彫刻の女性の衣服表現がどうして発達したのかの真意を知ったらどうなるんだろ…。
まあ、それはともかく。
「これ、表現が緻密だし面白いですよね。」
なんてぽつりと感想を言ってみると、彼はハッと意識を取り戻したかのようにビクリと肩を動かした。
「…そうですね…空間の使い方も表現方法も見事だとは思います…しかし、どうしてこのような発想が出来るのか…」
と、また彫刻に目を向けてじっくりと考察を始めた。
作家に聞いてみればただの思い付き、ほんの軽い気持ちから出来た作品なのかもしれない。
そこに思い至ることなく考えを巡らせる真面目なあなたは、本来学者が性に合ってるのかも。
彫刻を見つめるあなたの横顔に、私は未来への想いを馳せた。
今のあなたは、それこそこの彫刻の若者のようにあれもこれもと忙し過ぎる日々だけれど。
邪神に荒らされた世界の復興が済んだら、あなたにはそういう未来もあるのかな。
皆で作り上げた争いのない平和の中、どうかあなたには思い描いた明るい未来を歩いてほしい。
《窓から見える景色》
ある日の昼下がり。
書類業務に疲れた目を上げて、ふと窓を見る。
執務室の窓枠に切り取られた空は、高く澄んでいる。
夏には猛威を振るっていた太陽も今は物静かになり、差し込む光も柔らかな色に変わっている。
広葉樹は葉の緑を少しずつ赤や黄に色付かせ、針葉樹は冬に向け緑を深く落ち着いた彩度に塗り替えている。
庭を彩る秋桜や紫苑がさわさわと揺れ、秋の風の存在を教えてくれる。
休憩用のソファに腰掛け本を読む彼女に目を向ければ、同じように窓からの秋を楽しんでいて。
こんな何気ない光景に心を緩ませる。
かつての戦いの日々からは考えられない程の、この長閑な日々。
その幸せのありがたさを、僕はゆっくりと噛み締めた。