もう、戻れない。
もう、戻らなくて、いいんだ。
夕暮れ時。世界が橙色と紺色の混濁に飲み込まれようとする時間。 寄せては返す波の音が、幸せな誘いのように低く響いている。
果てしなく続く海は、燃えるような夕日に照らされ、残酷なまでに美しかった。
世界は美しいのだと、思っていた。
青く澄み渡る空の下。人々の笑顔に包まれ、真っ直ぐに未来へ向かう。
困難は乗り越えられる。例え何があろうとも、私と皆ならできる。
身体に痛みなどない。ただ一つ、幸せを抱きしめて死んでゆく。
そんな理想は、ただの夢物語に過ぎなかった。
当たり前にできていたことが、できなくなった。
彼女はそんな自分に失望した。嫌いになった。自分自身を傷つけて、傷つけて、ぼろぼろになった。僅かに感じる痛みだけが彼女とこの世界を繋ぐ唯一の架け橋だった。
離れていく友達。
下がり続ける成績。
増える母のため息。
気づけば、美しかったこの世界はモノクロに色褪せていた。
明日が来るのが怖い。
苦しい。息ができない。
助けて。助けて。助けて。
彼女の声にならない声は、誰にも届かなかった。
いつの日か、彼女は嘘つきだと云われる様になった。
笑顔の仮面を被る彼女にクラスメイトは言った。
「本当に思ってる?」
仮面がぱりん、と割れる音がした。
道徳の教科書に載っていることを、ただ繰り返す彼女に世間は懐疑の目を向けた。
人が落ち込んでいたら、慰めましょう。
人が傷ついていたら、手当てをしましょう。
人が喜んでいたら、共に喜びましょう。
彼女には分からなかった。教科書通りにしたら、その人達は喜んでくれたのに。
「あなたの言葉には心がこもっていないの」
向けられた言葉の刃は、彼女の胸の奥にある空洞を正確に突き刺した。
喜んでいるふり。
悲しんでいるふり。
正解をなぞれば、世界と繋がれると思っていた。
けれど、なぞればなぞるほど、彼女は透明な壁に囲まれ、孤立していった。
彼女の「きもち」は硝子の箱の中で、柔らかな光を受けて緩やかに流れていた。
冷え切った指先で触れようとしても、「きもち」は器用に彼女を避ける。
彼女は触れられない代わりとして、ただ、観察することにした。
赤黒く染まりぐつぐつと沸騰する日。
ぱきり、と音を立てて青く凍りつく日。
自分の「きもち」をまるで他人事の様に見つめ続ける日々。
やがて「きもち」は真っ白になり、さらさらの砂になった。
砂になった「きもち」は、もう彼女を突き刺すことはなかった。
彼女は波打ち際へ一歩、踏み出す。
冷たい海水が靴を浸し、足首を掴む。
砂になったはずの「きもち」が、足元から侵入してきた海水に濡れて、じわりと重さを取り戻していく。
一歩、また一歩。
波が引くたび、足元が砂ごとさらわれ、境界線が曖昧になっていく。彼女はもう、自分が陸の住人なのか、海の欠片なのかも分からなくなっていた。
「……あ」
ふいに、喉の奥から小さな、熱い塊がせり上がってきた。さらさらで、何も傷つけないはずだった真っ白な砂。それが海水を含み、どろりとした「生の感情」に変質していく。
観察していただけの硝子の箱が、内側からの圧力で軋み始めた。
教科書には書いていなかった。
絶望の先に、こんなにも鮮やかな色が待っているなんて。
死ぬほどに苦しかったはずのモノクロの世界が、沈みゆく太陽の最後の一閃を受けて、毒々しいほどに輝きだす。
「…苦しかった」
唇から零れ落ちたのは、正解でも、道徳でもない、ただの独り言。
けれどそれは、彼女が初めて自分の心から直接掴み出した、形のある言葉だった。
「嫌だった。痛かった。笑いたくなんてなかった。あんな風に、分かったような顔で私を裁かないでほしかった」
一度溢れ出した言葉は、もう止まらなかった。
砂が泥になり、泥が血の通った熱い奔流となって、彼女の身体を内側から突き破る。
「きもち」が溢れる。
これまで殺してきた悲鳴が。
飲み込んできた涙が。
「普通」になれなかった自分への、剥き出しの怒りと、それ以上の愛おしさが。
視界が歪む。それが涙のせいなのか、海の深さのせいなのかはもう分からない。
けれど、彼女の胸の奥にあった空洞は、今や行き場を失った膨大なエネルギーで満たされていた。
空っぽだから死にたかったのではない。
溢れそうなほどに、感じていたのだ。
世界が、自分が、こんなにも叫びたがっていることを。
波は彼女の腰を叩き、優しく、けれど抗いようのない力で沖へと誘う。
彼女は空を見上げた。
薄暮の空は、もはや混沌とした美しさで彼女を祝福しているようだった。
もう、戻れない。
あの、正解だけを探して息を止めていた日々には。
もう、戻らなくていい。
嘘の仮面を被って、モノクロの街を歩く自分には。
彼女は最後の一歩を踏み出す。
身体が浮き上がるその瞬間、彼女の心を満たしていた「砂」はすべて、温かい潮騒の中に溶け出していった。
それは消失ではなく、ようやく彼女が世界と、本当の意味で溶け合えた瞬間だった。
残酷なまでに美しい夕闇の中。
彼女は初めて、誰のためでもない、自分だけの深い呼吸を一つ、ついた。
「なぁ、一緒に遊ぼうや!」
遥か昔、ずっと1人でいた僕に一筋の光が差し込んだ。彼はにっこりと笑うと僕の手を引いてみんなの居る方へ駆け出した。
「アンタはどないして遊ぶのが好きなん?」
「せや!みんなで鬼ごっこやろうや!」
「鬼なってもた!よっしゃ、全員捕まえたるで」
彼はいつも明るく、眩しく、輝いていた。僕はそんな彼を素直に尊敬していたし、大好きだった。
でも、他の子供達は違った。僕のことを嫌った。僕は人間のことが嫌いになった。
自慢のふわふわした尻尾と耳や赫い瞳のせいで僕は仲間になれなかった。どうして僕は人間として生まれることが出来なかったのだろう。みんなと「普通」に遊びたいのに。どうして僕は…。ただ、ただ悔しかった。
「俺は好きやけど」
まだ暑さの残る九月、神社の裏で彼は確かにそう言った。その言葉が僕は何よりも嬉しかった。だから僕は自分の持つ力全てを懸けて彼の幸せのお手伝いができたらと思った。人間の中でも彼は特別だった。
しかし、現実は甘くなかった。彼は飲酒運転をしていた車に撥ねられ息を引き取った。僕が仕える神社の近くにあるお墓に彼は眠っているらしい。でも僕はここから出ることはできないから、彼の親族が真っ黒な服を着て歩く姿を見ることしか出来なかった。
もう、忘れよう。あの時みんなと遊べたのは甘美な夢だと思おう。ただの、神社に棲む狐として…
僕の姿は子供にしか見えない。だから、子供が僕に挨拶をしても隣にいる親は何に挨拶をしているのか分からない。神社で不思議なことが起こるのは僕達がいるからだ。母親の胸に抱かれた小さな赤ん坊が僕の姿を捉える。にこりと微笑むと赤ん坊にまじないをかけた。
例え、仲間外れにされても。嫌われても。失敗しても。
「君が幸せな人生を歩めますように」
僕は、完璧じゃない人間のことが大好きだ。
もう一歩だけ、踏み出したら、手が届く距離だったのかもしれない_______。
それでも俺は、あいつに本当の幸せを掴んで欲しかった。俺じゃない、誰かとの。
だからもう俺は別の道へ向かおうと思う。絶対に忘れられない人だけれど。俺はあいつを応援してるから。疲れたり、苦しくなったり、寂しくなったら俺のところに一歩踏み出して来て欲しい。それまで、俺は俺の道を歩みたいんだ。ありがとう、さようなら。
「こんにちは!東京から転校してきました。これからよろしくお願いします」
形式的な挨拶をして僕は席に着く。
ここは離島にある小さな学校だ。僕は学校というものにうんざりしている。だっておかしいじゃないか。同じ年代に生まれた人間が狭い教室という名の箱に詰められて共に過ごすことを強要される。明るい奴もいれば暗い奴もいる。いじめが起こるのはそのせいだ。勝手に三角形に分類される学校が僕は嫌いだった。見知らぬ街。見知らぬ人。ただ、ただ、怖い。
「なぁ、教科書忘れたから見せてくんね?」
隣の席の奴がいきなり話しかけてきた。僕は馬鹿な奴も嫌いだ。人に頼る事しかできないから。
「もちろん、いいよ」
偽りの笑顔で教科書を見せる。奴が席を近づけて来た。
「お前さ…」
まだ話すことがあるのかと思った。面倒だ。
「無理してないか?」
「は?」
まだ学校が始まって一週間も経っていないというのにこいつは何を言っているんだ。僕を分かった様な口を聞いて。お前は僕がどんな経験をしてきたか知らないだろ。
「いや、だってさ…1人でいる時いつも寂しそうじゃん」
「そんな事ないよ?よく話しかけてきてくれるし」
早く問題の解説を始めろと先生に対して一言言いたくなった。こいつの暴走を止めてくれ。人に話しかけられるのは嫌いだ。また、前の学校の様になってしまうかもしれないのだから…。
「俺で良かったら友達になりたいんだけど」
真っ直ぐな瞳に僕は心を射抜かれた様な気がした。僕はこの街なら生きていけるのかもしれない。
明けない夜は無い。
止まない雨は無い。
世間はそう言う。
絶望の中に希望の光を見出そうとする。
何があろうとも前を向こうとする。
「きっと」
「いつか」
「今度こそ」
明日はいい日になるだろうか。
終わらない作業はない。
果たして本当にそうなのだろうか。
それなら目の前にある山の様に積まれた課題は?
終わりの見えない宿題は?
台風の直撃を受けた夏休み最終日。
少年は悲鳴をあげていた。