「ありがとう、冴人。君に会えてよかったよ」
酷く混乱している彼に頭の整理をさせる暇も与えず、私は彼の前から立ち去った。
出てきた言葉は今までの感謝とそして少しの欲。
――もし、次に生まれるなら人間になりたい。それで冴人と……
考えても意味の無いこと。分かっている。
でも、生物というのは自らの死を悟ると死後に強く願うのかもしれない。今の私のように。
『死ぬことで、本当の生を手に入れる。』
死を自覚した瞬間、私は生きていたことを自覚する。
本当の生なんて、そこから呼吸が止まるまでの一瞬なんだ。
私の生涯には逃げても、逃げても、絶対に消えない罪がある。それが他人の罪としても、大衆にはそんなこと関係ない。
罪の業火に焼かれていつしか私という存在が抹消されるのだと思っていた。
『今の俺にはその答えが出せない……だから、待っていて欲しい。必ず、決断する。いや、しなくちゃいけないんだ。』
『果実(かさね)?変わった読み方をするんだな。……別に変なんて言ってないだろ。〈結果が実る〉いい名前だよ』
『俺は、果実が仇なんて思わない』
『待てよっ!俺はまだまだ未熟だけどお前の、果実の為に出来ることはしたいんだ。』
冴人との思い出が胸に染みる。
あれでお別れなんて、寂しいよ。
もっともっと、お話、したかったなあ。
幸せな走馬灯。
これさえあれば、私には死後の世界なんて必要ない。
来世なんていらない。
『無意味な戯れ』
「やあ、元気かい?」
薄暗い闇の中から、底知れない悪意が顔を出した。
少年にまとわりつく赤黒い泥は彼が先程まで行っていた所業を嫌というほど言い表していた。
「………」
無数の鎖に繋がれている私は彼の言葉には応えない。
答えることが何を意味するのか、きっと私は知っている。
「泉菜ちゃんさあ、なんの為に君を監禁したかちゃんと分かってんの?ボク、めっちゃ疲れたんだけど」
分かっている。だからこそ、私の中には躊躇いがあった。
確かに兄を救うには彼の力を借りるしかない。
しかし、それは彼と同類になってしまうことを意味していることも分かっていた。
目の前の、何人もの人を喰らったこの化け物になることと。
「ボク的にはどっちでもいいんだけどさあ、断ったら君を今ここで食べるだけだし」
彼の生暖かい手が私の顔に触れる。
両手を縛られてる今、彼の手を払い除けることはできない。
まるで人形だ。
「早く決断してね。待つのって好きじゃないんだ」
彼の顔が近づいて、私の唇にそっと触れる。
彼なりの縛りなのだと思う。
私が逃げないようにするための。
「どこにも行けないわ。この鎖じゃ」
「キミの心がボクから離れない保証はないから」
彼は手を離すと、そのまま踵を返した。
私と彼はこの先、どんな末路を迎えるのだろうか。
私は、選択出来るのだろうか。
「いつか、さま……」
兄のことを考える。
兄を救わなければならない。
たとえ、誰の犠牲を払っても。
私にはそれしか道が残されて居ないのだから。
私の価値など、そこにしかないのだから。
『ココロノクサリ』
『理想郷』
2023年8月1日午前9時ごろ
患者 あさがお
〘最近はどうでしたか?〙
そうですね……特に変わったことはないです。
先生にお話するようなことはなにも。
〘些細なことでも構いません。夕飯が美味しかったとか、道端で野良猫を見つけて和んだとか、そんなことでもいいんですよ〙
……あ。
そういえば昨日、7番街にあるバーに行ってきました。
〘誰と?〙
知人…いや、もっと離れた人ですね。名前も知りません。たまたま会って、たまたま一緒に飲んだだけです。
〘バーというのは?〙
先生は下の街を見た事ないんでしたっけ。えっと、麒麟っていうお店で、きりんさんという方がオーナーをやっているそうです。
下の街はここと違って物価が安いので、私もたまに行くんです。
この話、主人には言わないで頂けると……
〘もちろん。私にも守秘義務があります〙
よかった。下に行っていた、なんて知れたら何されるか分かったもんじゃないから。
〘下は治安が悪いですから〙
…先生、それは違いますよ。
下の方たちは無関心なだけです。
私にとってはここの人たちの方が治安が悪いですよ。
犯罪を権力でねじ曲げて、偽りの平和を守ってる。
そういう意味では、下の街は私にとっての『理想郷』なのかも知れませんね。
『懐かしく思うこと』
10月30日午後7時ごろ
7番街『バー麒麟』のオーナー・きりん
で、聞きたいことって何?
こっちも仕事の休憩時間使ってんだから、つまんない話題だったら即終了だからね。
ははっ。嘘よ。そんなせっかちな女じゃないから安心して。
それにしても、上の人がこんな寂れた店にわざわざくるなんてほんとに珍しいわね。
え?なんで上の人間って分かったかって?
……あんた、そんな傷一つない綺麗な顔ぶら下げてよくそんなこと言えたね。まあ、そうゆう空気読めないとこも上の奴らっぽいかな。
ああ。また話が逸れちゃったね。ごめんごめん、こうゆう話す仕事してるとさ、会話がどんどん広がってくのよ。
『あさがおについて教えてほしい?』
あさがおって誰?
いや、なんか聞いた事あるような……
写真持ってんの?見せて見せて。
……あ、ああぁーー!!
いたいた!そうそう、うちにたまに来てくれてたお客さんだよ。
いやあ、綺麗な顔してたから覚えてたんだよね。
月に1回か2回ひとりでやってきて、うちの店でも結構高めのウイスキー飲んですぐ帰っちゃうの。
今思うと、この人も上の人だったんだろうねえ。
え、違うのかい?
へえ。あんたこの子のこと知ってんの?まあ、だからこそ調べてんのか。
何?男かなんかかい?
野暮なこと聞くなって顔してるね。女の性分なのさ、色恋に首突っ込むのは。
というか、なんでこの子のこと調べてんのさ。
この子になんかあったのかい?
……なるほどね。
てことはあんたはあの子の男ではないのかい。なんだ、つまんない。
不謹慎?知ったこっちゃないよ。
あんたらみたいに裕福な奴らはここの連中ほど人の生き死にに慣れてないだけだ。
この街の裏路地でも覗いて見な。だいたい人の死体やらが置いてあんのさ。そんで、それを見つけたらあんたらに連絡するより先に懐の金銭を奪っていく。
あんたにそんな泥臭い連中の気持ちがわかるかい?
謝んなくたっていいさ。偽善者っぷりが気に食わないだけだから。
あ、最後にだけどさ。
あの子…あさがおについて。
あさがおが初めてうちに来た時、別の奴も一緒だったよ。
男か女か?
覚えちゃいないね。
あたしとあの子は赤の他人だ。
もちろん、あの子の連れともね。
思い出?
そんなのある訳ないじゃない。
思い出ってもんはね、その相手に対して自分が向けた感情を言うんだ。
懐かしく思うこともない知らない女に対して、なんの思い出があるっていうのさ。
さ、あたしから出来る話はこれで終わり。
仕事の続きやるからさっさと帰んな。
客としてなら歓迎するよ。