ないものねだり
ある長男
あの頃は、日本の西と東を行き来しては別邸を転々としていて、あまり落ち着いて勉強ができない頃だった。鬱憤が溜まっていて、気分転換に庭で散歩でもしようかと思って客間の前を横切った。
父が客間で人と話している声が漏れていた。寡黙な父は、そのひと相手にはよく喋っていて、時折笑うような声すらも聞こえてきて、ひどく驚いた。客人との話に水を差す無礼はできないから、なるべくゆっくり歩みを進めていた。
しかし突然扉が開いた。俺はなぜかとても驚いてしまい、叱られ始めの子供のような格好になってしまった。客人が何かを確認するように一瞬後ろを振り向いた。奥にいる人は、ただ一人しかいなくて。客人と扉の隙間を俺は覗き見て、そしてそれまでの鬱屈とした気分も、父らへの配慮も全て投げ捨てて、ただ一つ一礼をした。そして次の瞬間、木の軋む音を置き去りにして、足早にそこを立ち去った。もう庭に行く気にもなれなくて、その日はそのまま書庫にこもって一歩も出なかった。
あの日、父が客間のどこに座っていたのか、どこを見ていたのかも覚えてはいない。それでもあの人が俺を見ていなかったという事実だけ脳裏に焼き付いている。あの人が俺のささやかな期待をいつものように裏切って、今日も俺の脳に焼きつくような感情を沸き立たせる。
「ないものねだりだったなぁ」
好きじゃないのに
ある大学生
時々、この男は視野が狭いと思うことがある。まるでこの世の人間全員が、大判焼きをじまん焼きというかのように、自分ができることは。他人にもできる程度のものであるように、そう思い込んでいる。これがもっといやらしくて、悪意を持ったものであったら俺は納得できるような気がするが、あの男は純然とそれを盲信しているので、俺はなんだか首を傾げたくなる。
「ね、これ好きだったよね」
そう言って差し出されたのは、コンビニでは売っていないような、どこかレトロな雰囲気を纏わせる菓子。駄菓子とも違う、和菓子とも違う、例えるなら学校の安い自販機で売られている、知らないメーカーのメロンクリームソーダ味のような、そんな感じの菓子。それを、この男は、一度俺に食べさせて、お世辞を言われたというだけで、その日から何度も何度も手渡してくる。美味しいすら言っていないのに、好きだなんて一言も言ってないのに。
しかし、この男はお世辞を信じ、そうして求愛する動物たちに倣うかのように、何かを俺に与えてくる。好きでもない菓子を、好きでもない男が、俺に。
そう、好きじゃない、こんな男、俺は好きじゃないのに。
虹の架け橋
ある三男
虹がかかっている。あんなにはっきりと橋になっているのを見られるのは久しぶりだ。
そういえば昔はあの根元がどこにあるのか気になって仕方がなかった。絵本は天国があるというし、人に問えばどこか知らない場所に繋がっているのだと言った。答えを確かめようにも、自分は家の外に出る事なんてできなかったので、人の居ないうちは家の塀によじ登って虹の根元を拝んでやろうと、幾度か悪戦苦闘していた。無意味な努力であった。自分は家の外を拝む事なんてできやしなかったし、そもそも虹の根元なんてものは存在しないと知ったからだ。そういえば虹の色は何色あるんだろうかとも考えた時があった。
「ねえ、虹って何色あるの」
「急に何」
「虹、架かってたから気になって」
「…虹って光だから、実際何色あるかって言って数えられはしないだろ」
「そっか」
「日本じゃ七色とは言われてるけど」
「僕、数字を知らないときに色の数、数えようと思って、数がわからなかったから指で数えたんだけど、結局指も足らなくて分からずじまいだったな」
「そうか」
今こうして眺められる空が愛おしい。虹の根っこは見られなかった。光の色も結局は分からずじまいだ。でも今この瞬間、何事にも囚われずに見られる空のなんと青いことだろうか。
「空」
「うん」
「綺麗だね」
「そうか」