突然の君の訪問。
座るのは、電話のそばと決めている。
いつ呼び出しが来るか分からないからだ。
電話がかかってきたのは明け方だった。また出ないといけないらしい。仕方ない、風呂も着替えも省略しよう。
何か言っていたが、生返事をして切る。
一旦目を閉じた。
「おはようございます」
目を開けたら、彼がそばにいた。
「鍵がかかっていなかったので、安全確認のため入りました」
「…何で君が?」
いてくれたらいいな、と常々思っていた相手が本当にいるとびっくりする。
「部長からのご伝言があったと思いますが、お迎えにあがりました。車は待たせています」
「じゃ行こう」
立とうとすると、「失礼します」と両肩をがしっと摑まれた。力強い。そして手が大きい。
「せめてお顔と、できれば手足も洗ってからにしましょう」
「いいよめんどくさい」
「いえ、小綺麗にして来ていただくように、と言われています」
そう言えば電話で、オックスブリッジで話せる人間が云々と言われた覚えがある。
「そんなおエラい容疑者いた? 私は記憶にないんだけど、うちの課の仕事?」
「分かりません、ただお迎えに行って困ったことがあればお手伝いするように、とだけ言われました」
とりあえず、今の自分がかなり小汚いことを思い出した。消えてなくなりたい。
「歯磨きしていい?」
「ぜひお願いします」
久しぶりに全身を洗い上げたところで、タオルを忘れたのに気付いた。
恐る恐るドアを開けると、シャワー室から拝借してきたらしいものが差し出される。バスタオル二枚で全身を覆い隠すと、彼は髪を乾かしてくれた。
「着替えるけど、できないことがあるから手伝ってほしい」
シャツのボタンを全部留めてタイを締めてくれる間、彼は何も訊かなかった。久しぶりにウエストコートも着た。
「帽子は玄関のでよろしいですか」
そう言えばそんなものもあったな。
彼は鞄からブラシを取り出すと、埃を被ったものをきれいにしてくれた。
「行きましょう」
彼はとても綺麗な青い目をしている。まっすぐで、とても優しい。毎日来てくれたらいいのに。
「ご指示があれば伺います」
願望が口から漏れ出ていたらしい。
「…誰のところでも来てくれるの?」
「必要があり、ご指示があれば」
「いつでも?」
「はい」
必要というか願望はあるが、それが勝手な欲であることは分かっている。彼が「人間」の命令を拒否できない存在だということも。
さるやんごとないご身分の方-慈善家で子供好き-が恥ずべき犯罪の容疑をかけられており、その取り調べを手伝った。そう言えば私は実際より若く見えるため、「子供」扱いされることが多い。上目遣いで話を聴いていたらぺらぺらとモテ自慢(つまり自白)を始めたが、婉曲的だが卑猥な言葉を散々かけられた挙句、彼や部下たちのことを「あんな汚い男ども」と言ったので顔面に一発お見舞いしてしまった。
「お怪我はありませんか」
君が毎朝訪ねてきて、こんな風に心配してくれたらいいのに。
明け方に呼び出されて変態の相手をさせられ、そのせいで始末書を書く羽目になった。
自分の相棒であるはずの彼は、誰かエラい奴に連れ出されている。人間より頑丈で人当たりもいいので、弾除けだの不良少年の補導だのに連れ回したがる連中がいるのだ。こちらも誰かエラい奴に苦情を入れなければ。
タイプライターを睨みつけていると、不意に部下たちの声が飛び込んできた。
「それで、一緒に住むことにした。一年くらいで結婚しようかって言っててさ」
「一年あれば結婚できるの?」不躾だが割り込んでしまった。
相手が人間なら簡単そうだが、聞いてみると面倒な手続きが山ほどあった。
相手の合意なし、脈なし、さらに相手は国家の所有物。なかなか難しい。
「まずは頑張って、お相手に気持ちを伝えましょう」
その通りにした。正確には、必要な書類と金、国との取引材料と新居をじっくり揃えたうえで、彼に「必要性」を訴えた。
「指示」はしていない。たぶん。
君は毎朝、突然訪ねてくる。つまり目が覚めるとそばにいる。
世間ではこの行為を「起こす」と呼ぶ。
私は毎日自分の幸運に驚いて、君が手際よく私を小綺麗にしてくれるのをぼんやり見ている。
もらうばかりで、何も返せていない。ある晩そう言うと、彼は「指示されてではなく自分で考えたことをすると喜んでもらえる、これは幸せなんじゃないかと思います」と言った。
「君は何でもできるから、することが思いつかないんだよ」
「じゃあ、嬉しい時だけ喜んでください。あと、悲しい時には教えてください」
これが「嬉しい」という気持ちだと分かったので、思い切りしがみついた。
また明日、突然の君の訪問が楽しみだ。
私の日記帳
「日記」と呼べるものを書いたのは大学の四年間だけだ。
確か無印良品の厚手のノート(焦茶のカバー付き)に、最初は無印の水性ボールペン(ブルーグレー)、その後は死んだ父の机から出てきたモンブランの万年筆で書いている。ぱらぱらめくってみると、こんな特徴があった。
・固有名詞がほとんど出てこない(親戚や友人の名前など)。
・咲いている花や気温と暑さ寒さの体感は妙に細かく書いてある。長袖と半袖の境界は気温22°、冷房をつけずに耐えられる限界は32°だったらしい。
・夏休み(文系・レポート中心のため何と二ヶ月半もあった)のほとんどで、「今日も何もせず過ごしてしまった」と、どれくらい時間を無駄にしたかがかなり具体的に書いてある。◯時にようやく起床、△時までぼんやりテレビを見て云々。
・よほどの場合を除き、「自分の気持ち」もほとんど書いていない。例えば時間を無駄にしたことについても、「どう無駄にしたか」ばかりで「それでどう思ったか」「どうしたいか」は一切ない。意識が低い。極めて低い。
・「出来事」もかなり省略されている。「父の法事なのに、両親とは結婚式でしか会っていない祖母のきょうだい(苛烈な性格で皆に嫌われていた)の隣に座らされ、その人の信じる新興宗教の話を延々聞かされた。誰一人止めに入らず、そもそも誰もその席に座ってくれなかった。何故、故人の娘である私が『接待』をしなければならないのか」
客観的にはこう書くところを、ただ
「とても不愉快なことがあった。あの場にいた大切な人たち(※母ときょうだい、父の母のこと)以外の全員を、多分ほんの少し恨んで生きていくと思う」とだけ書いている。こういう時くらいしか自分の感情を書いていない。
そして最大の発見はこれである。
・「毎年、『今年は秋が無かった』と書いている」(※一九九〇年代後半〜二〇〇〇年代前半)。
「私の日記帳」は残念ながらあまり素敵ではなかった。
しかし自分がかつてものすごくヒマであったこと、それでも大したことをしていないこと、でもそれなりに幸せだったこと、だからまぁ忙しくて持病もあって、それなりに大変な今、無理に復活させなくてもよい習慣であろうということ、そして二十年以上前から秋という季節は吹けば飛ぶような何かになっていたこと。
そういったことが分かっただけでも、本日のお題は価値あるものであったと考える次第である。
向かい合わせ
「そこに君が座って、私は君を見ながらのんびりする。それが一番かなと思って」
一緒に暮らし始めた時に、彼はそう言った。
食事の時は向かい合わせに座る。
彼は朝に弱い。時折食べながら寝そうになるので、なるべく手摑みか匙で食べられるものを出すことにした。最近では専ら目玉焼きをのせたトーストだ。何であれこぼしやすいので、食べた後に着替えさせる。
彼の世話をしていると、何かふわふわとした気分になる。きっとこれが「楽しい」とか「幸せ」という感情なのだと思っている。
夕食になると、彼は朝とは別人になる。
ハムステーキを食べるだけであっても背筋がきっちり伸び、すべての所作が美しい。
自分はそういう教育を受けていないので、なるべく彼を見て真似するようにした。
彼はあまり目を合わせてくれないし、時々合ってもすぐにそらしてしまう。そんな時は何か無駄な空気の塊が胸に詰まったような感じがして、これが「淋しい」という感情なのかなと思い始めた。
人間の感情はまだよく分からないが、一つ明らかにしたいことがある。
「そっちに座ってもいいですか」
今の自分の定位置は大きな揺り椅子だ。
正面には何とも立派な安楽椅子が置かれている。深緑の天鵞絨張りで、上部には真っ白なレース編みが掛けてある。
「嫌。このままでいて」
「でも、あまりクッション性が良くないのではないかと」
「君こそ重くない?」
確かに彼の体重はほんの少し増えた。おそらくウイスキーが主食だった生活をやめて、なるべく食事を摂るようになったからだろう。
「体重は若干増加していますが、重くはないですね」
「増えた? どんな感じに?」
「柔らかくなりました」
「…そこは逞しくなったって言ってほしかった」
「すみません」
「君が言うなら信じるけど」
「筋肉の強張りが少しとれてきました。あと、体温が少し上がってきています」
「君にくっついてるからだね」
食事の時以外、ほとんど彼が自分の膝の上に座っているのはどうなのだろうか。この揺り椅子は本来、彼が自分で座るために買ったもののはずなのだが。
「できればもっと、あなたの顔が見たいです。そちらに座っても」
「私はこの状態の継続を要求する」
「何故ですか」
彼は身体をぐっと捻って、こちらをまっすぐ見た。深緑の目に見とれていると、彼は小さな、蚊の鳴くような声で「ずっと目が合うと心臓がもたないことが分かった」と言って、また前を向いてしまった。
「もちませんか」
「もたない。でも幸せ」
「じゃあ、このままでいましょう」
「ありがとう」
彼は自分よりもだいぶ小柄なので、足の長いぬいぐるみを抱えているような気分になる。これはこれでいい気がしてきた。
自分たちはまだ、新しい幸せに慣れていない。お互いにもう少し慣れたら、どちらかが安楽椅子に座るかもしれない。あるいはこのままかもしれない。
彼が幸せならどちらでもいい。
いつまでも捨てられないもの
哀しみ。
哀しみは
ドーナツの穴のようなもので
存在してはいるが
「捨てる」ことはできない
この穴が空くと
元々見えて 聞こえていたはずのものが通り抜けていき
心のうちに留めておけるはずのものが 溢れてこぼれていく
無いものを捨てるにはどうしたらいいか
ずっと考えている
ずっと ずっと考えている
心の健康
「落ち込んでいる」と思える、または今日あった嫌なことが頭の中をぐるぐる回る
→ごく正常な反応です
とても悲しいことがあり、いつまで経っても思い出すと涙が出てくる
→それだけ悲しかった、ということです。あなたの苦しみも悲しみも、誰かではないあなたのものなので、「そんなこと」とか「いつまでも」とか言ってくる人とは、心の中で縁を切っても問題ありません
「腐らないゴミ」(ビニール袋やきれいに洗った瓶など)が溜まっている
→かなり疲れています。まずは何とかして(便利屋さんに頼んででも)、絶対に要らないものを消していきましょう。
断捨離はまだしなくていいです。ときめきも一旦横に置いておきましょう。まずは「確実にゴミであるもの」をゴミの日に出すことを目指しましょう
私ですか? 腐らないゴミに埋もれた部屋に住んでいます。
もしあなたが夜お風呂に浸かって、朝ゴミを捨て、朝食を食べて毎日過ごせているなら、それはとんでもなくすごいことです。
昔はそれができていましたが、今はやり方がさっぱり思い出せません。