向かい合わせ
「そこに君が座って、私は君を見ながらのんびりする。それが一番かなと思って」
一緒に暮らし始めた時に、彼はそう言った。
食事の時は向かい合わせに座る。
彼は朝に弱い。時折食べながら寝そうになるので、なるべく手摑みか匙で食べられるものを出すことにした。最近では専ら目玉焼きをのせたトーストだ。何であれこぼしやすいので、食べた後に着替えさせる。
彼の世話をしていると、何かふわふわとした気分になる。きっとこれが「楽しい」とか「幸せ」という感情なのだと思っている。
夕食になると、彼は朝とは別人になる。
ハムステーキを食べるだけであっても背筋がきっちり伸び、すべての所作が美しい。
自分はそういう教育を受けていないので、なるべく彼を見て真似するようにした。
彼はあまり目を合わせてくれないし、時々合ってもすぐにそらしてしまう。そんな時は何か無駄な空気の塊が胸に詰まったような感じがして、これが「淋しい」という感情なのかなと思い始めた。
人間の感情はまだよく分からないが、一つ明らかにしたいことがある。
「そっちに座ってもいいですか」
今の自分の定位置は大きな揺り椅子だ。
正面には何とも立派な安楽椅子が置かれている。深緑の天鵞絨張りで、上部には真っ白なレース編みが掛けてある。
「嫌。このままでいて」
「でも、あまりクッション性が良くないのではないかと」
「君こそ重くない?」
確かに彼の体重はほんの少し増えた。おそらくウイスキーが主食だった生活をやめて、なるべく食事を摂るようになったからだろう。
「体重は若干増加していますが、重くはないですね」
「増えた? どんな感じに?」
「柔らかくなりました」
「…そこは逞しくなったって言ってほしかった」
「すみません」
「君が言うなら信じるけど」
「筋肉の強張りが少しとれてきました。あと、体温が少し上がってきています」
「君にくっついてるからだね」
食事の時以外、ほとんど彼が自分の膝の上に座っているのはどうなのだろうか。この揺り椅子は本来、彼が自分で座るために買ったもののはずなのだが。
「できればもっと、あなたの顔が見たいです。そちらに座っても」
「私はこの状態の継続を要求する」
「何故ですか」
彼は身体をぐっと捻って、こちらをまっすぐ見た。深緑の目に見とれていると、彼は小さな、蚊の鳴くような声で「ずっと目が合うと心臓がもたないことが分かった」と言って、また前を向いてしまった。
「もちませんか」
「もたない。でも幸せ」
「じゃあ、このままでいましょう」
「ありがとう」
彼は自分よりもだいぶ小柄なので、足の長いぬいぐるみを抱えているような気分になる。これはこれでいい気がしてきた。
自分たちはまだ、新しい幸せに慣れていない。お互いにもう少し慣れたら、どちらかが安楽椅子に座るかもしれない。あるいはこのままかもしれない。
彼が幸せならどちらでもいい。
いつまでも捨てられないもの
哀しみ。
哀しみは
ドーナツの穴のようなもので
存在してはいるが
「捨てる」ことはできない
この穴が空くと
元々見えて 聞こえていたはずのものが通り抜けていき
心のうちに留めておけるはずのものが 溢れてこぼれていく
無いものを捨てるにはどうしたらいいか
ずっと考えている
ずっと ずっと考えている
心の健康
「落ち込んでいる」と思える、または今日あった嫌なことが頭の中をぐるぐる回る
→ごく正常な反応です
とても悲しいことがあり、いつまで経っても思い出すと涙が出てくる
→それだけ悲しかった、ということです。あなたの苦しみも悲しみも、誰かではないあなたのものなので、「そんなこと」とか「いつまでも」とか言ってくる人とは、心の中で縁を切っても問題ありません
「腐らないゴミ」(ビニール袋やきれいに洗った瓶など)が溜まっている
→かなり疲れています。まずは何とかして(便利屋さんに頼んででも)、絶対に要らないものを消していきましょう。
断捨離はまだしなくていいです。ときめきも一旦横に置いておきましょう。まずは「確実にゴミであるもの」をゴミの日に出すことを目指しましょう
私ですか? 腐らないゴミに埋もれた部屋に住んでいます。
もしあなたが夜お風呂に浸かって、朝ゴミを捨て、朝食を食べて毎日過ごせているなら、それはとんでもなくすごいことです。
昔はそれができていましたが、今はやり方がさっぱり思い出せません。
君の奏でる音楽
「…献杯をしたいので、白いカクテルを」
ふらりと入って来たその人に、マスターは「ホワイトリリー」を出した。アブサンの風味がきいた、私の好きなカクテルだ。
「…とても美味しいですね」
その人の声は低くて柔らかで、弦楽器を思わせた。
その後も彼は時々現れ、タリスカーのロックを呑み、最後にホワイトリリーを頼んだ。
今日も彼はタリスカーを呑んでいる。そう言えば彼が初めて来た時に自分も呑んでたな、と思いつつ、同じものを頼んだ。
マスターが誰かと喋っている。お酒を呑むための空間は、たとえ呑まなくてもみんなが少しずつ心地よくなれる、そんな場所であってほしいものだが、ここはまさにそういう店だ。
「ええ、よくいらしてますよ。初めてお作りしたカクテルも、あの方が昔僕の先輩に作ってもらったから、とリクエストされて覚えたものでして」
何だか話のネタにされているらしい。
「え、これを弾いてらっしゃるんですか⁈ いえ僕は単にこの曲が好きで、クラシックに詳しい訳じゃなくて…そうでしたか」
流れているのはバッハの『無伴奏ソナタ』。ヴァイオリンの音色が何とも美しい。ただ私は、BGMくらいに控えめな彼の声の方により興味を持っている。何と言うか、聞こえるとほっとする声なのだ。
ほぼ空のグラスをくるりと回すと、覚えずカラン、といい音がした。
「最後に何か飲みます?」
「じゃあラヴィアンローズを」薔薇色の人生。柘榴と桜桃と檸檬、人生はそんな味で満ちている。
「…同じものをお願いできますか」低くて柔らかな声がそう言った。
彼には若くして亡くなったいとこがいる。ヴァイオリン奏者だった。
あの日が命日だったんです。店に入った時、彼の演奏が流れていた。そして、カクテルが美味しかった。
ちょうど曲が終わった時に、貴方のグラスの氷がカラン、って言ったんです。
綺麗な音だな、と、思いました。それに、あなたはいつも楽しそうに話す。まるで音楽みたいに。
彼は本当にいい声をしていて、ラヴィアンローズは今日も甘くて酸っぱかった。
最近私たちは待ち合わせをせずにその店に行く。そしてどちらともなく、隣に座る。
彼の声は、私の一番好きな音楽だ。
終点
ある路線の「終点」が最寄り駅のはずなのだが、時折目覚めると知らない場所にいる。ひどい時は知らない道をひたすら歩いていることもある。そして何故か最寄り駅にちゃんと着く。
これはこの路線が、A点とB点の往復と見せかけて「路線の端に着いたのち、数駅折り返した所が終点」となっているためである。
ちなみに「知らない道」を歩いているのは酔っているからだが、なぜいつも方角が合っているのかは自分でもわからない。
鳩? チョコボ? と訊かれたので
「ともかく出口まで行って、大きな道を見つけたらその左側を歩いてると絶対に帰れる」
と主張したら困った顔をされてしまった。
何にせよ、「行き着いた先が終点」というのはただの思い込みであった。
この「終点だと思っていたのにまったく知らない所にいたので、全スキルを使って帰ろうと思います」という現象を、私は最近「異世界転生」と呼んでいる。