降り止まない雨
「はい、宿はとれました。通行止めが解除され次第戻ります。…はい? はい、お伝えします。失礼し」
「ぜひそうさせていただきます、朝も弱いし気圧が低いとベッドから出られないので、よ ろ し く や る 気 で す」
「あの、今…ええ、聞こえてらっしゃいます、すぐ隣にいますので」
電話口から「下品で軽率な冗談」に対する必死の謝罪が流れ始めたが、適当に押し留めて受話器を置いた。そんなことよりこの人と衣服を洗濯・乾燥させねばならない。
宿の主人は親切にも、すぐに洗濯してくれるという。一方、自分の主人は面倒だの、今すぐ雨が止むはずだのと云ってごねる。
「あったかくしてきれいになりましょう」
と言うと急におとなしくなったので、お湯がちゃんと出ることを確かめた上でバスルームに押し込んだ。雨音は激しく、シャワーの音が気にならないほどだ。
入れ替わりにシャワーを浴びる。
「洗濯物を出してきました。明日の朝には乾いているそうです」
主人は手帳(何とか濡れずに済んだ)を見つつ、何かを考えている。
「明日動けるようになったら、あの家もう一度見たい。何か変なんだよねあの玄関」
「わかりました」
「…ねえ、嫌じゃない?」
「何がですか?」
「この状況」
「雨ですか?」
「違います。上司と一緒に濡れ鼠で同室に泊まる羽目になり、それを報告すると卑猥な含意のある言葉が飛んでくるって状況」
「自分に関しては特に何も感じないので、嫌だとは思いませんでした。ただあなたの反応を見て、明らかに敬意を欠いている冗談だということが分かったので、それに気づけなかった自分が少し嫌です。はい、『嫌だ』という気持ちが少し分かったような気がします」
「そう。…私は別にやぶさかじゃないんだけどね」
「今言われた状況がですか?」
「ううん、違う」
さっきから目を合わせてくれないのは何故だろうか。
「明日ずっと雨だったらなとはちょっと思ってる」
翌朝は快晴で、洗濯物の仕上がりは完璧だった。二人は現場を再確認し、通行止めの解除を待って署に戻った。
最近彼の上司は、「止まない雨はないって言葉、私大っ嫌い」と矢鱈に言う。周囲はそれを、未解決の猟奇犯罪ばかり相手にしているからだと思っているらしい。
また明日
誰かに言えるなら自分はまだ大丈夫
また明日やればいいよ
また明日も来ます
また明日も食べよう
こわいことが頭に浮かぶなら 少し疲れてる
また明日怒鳴られるのかな
また明日起きられなかったら
また明日も行かなきゃいけないのかな
また明日も死ねないのかな
でもこれが思い出せるなら まだ頑張れる
また明日もあなたに「おやすみ」を言えるかな
また明日 あなたは息をしてるかな
今日をやり過ごせたなら また明日も
おやすみなさい また明日
透明
彼は透き通って明るくて、でも確かにそこにいた。
物心ついた時から、ほとんどの人は透明だった。
家族のふりをする気持ちの悪い連中も、自分を手懐けようとする教師たちも、顔すら覚えられない同級生たちも、自分の意志を無視して触れようとしてくるあらゆる連中も。
シーツを被ったモノのような存在に囲まれて、息が詰まりそうだった。
「お前の新しい弾除け候補だ」
そう言われて見た写真の彼の目は驚くほど青くて、雲どころか風も何もかもが映りそうだった。身長は六フィート六インチ、ギリシャ彫刻みたいな身体をしている。
「…可愛い子だね」
綺麗、と言いたくてようやく口にした言葉に返ってきたのは、婉曲的に「気に入ったなら好きにしていい」というものだった。
彼は一般的な意味での「人間」ではない。人為的に造られ、消費されていく存在だ。
ところで、古代ローマや大昔のアメリカには「解放奴隷」と呼ばれる人々がいたという。
好きにさせてもらうことにした。
その人は透き通るような髪と肌の持ち主で、でもとても昏い目をしていた。
警察官としてこの人の護衛をすること。それが自分の造られた理由らしかった。だがとても賢くて強い人だったので、護る必要はあまりなかった。
「あのね、ここに署名してほしいの」
この人が言うなら何か大事なことなのだろうと思い、何箇所かに名前を書いた。
「それでね、今日からここに住んでほしい」
業務上必要ですかと訊いたら、絶対に必要だと襟首を摑まれた。その目が何だか妙にきらきらしていて、何故か頷いてしまった。
その人は透き通るような髪と肌の持ち主で、目は見たこともないような深緑色をしていた。
「綺麗」という言葉が、初めて自然に頭に浮かんだ。
二人は毎日一緒に起きてシャワーを浴び、薄切りのトーストに目玉焼きを乗せて食べる。そして、一緒に出勤する。
部下たちは、優秀だが何かが欠落している上司-忙しいと風呂にも入らず、しばしば容疑者に暴力を振るう-が最近やけにこざっぱりして落ち着いてきたこと、永久に下っ端の筈の「あれ」がやけに仕立ての良い服を着ていることに気づいている。だがあえて何も言わない。
透き通って明るくて、でも確かにそこにある何かを二人の間に感じるからだ。
恋物語
むかしむかしのお話です。
隣り合う二軒の家に、それぞれ娘さんと息子さんがおりました。
当時の世の中でいう「いい年頃」でしたので、親たちはお見合いをさせてみました。
息子さんは静かで、とても穏やかな人でした。
娘さんは、「嫌じゃないな」と思いました。
初めて一緒に観た映画は、息子さんのチョイスで『タクシードライバー』でした。
およそデート向きの作品ではありませんでしたが、娘さんは「嫌じゃないな」と思いました。
主に娘さんの母親に急かされ、二人は五回も会わずに結婚しました。
ある日、彼の勤務先の社内報が見えるところに置いてありました。
そこには結婚した社員の紹介コーナーがあり、「結婚して良かったこと」「ちょっと残念なこと」という質問がありました。
彼の回答は「二人でいられること」「一人でいられないこと」というものでした。
彼女はそれを見て、「この人は一人でいたい時があるんだ」「ということは、私も時には一人でいていいんだ」と感じました。
何だかとても自由になった気がしました。
子どもが二人生まれ、お互いに「一人でいられない」ことばかりでしたが、彼は彼女が困っている時には必ず助けようとする人でした。
強いて欠点を挙げるなら、料理に一切ケチをつけない代わりに「美味しい!」とも言ってくれないことでしょうか。
ただ、彼女の作る餃子と春巻はとても気に入っているようでした。
月日が流れて子どもたちに手が掛からなくなった頃、彼は病気になりました。
よくある、本当にありふれた病気でした。
入退院を繰り返すようになった時、彼が望んだのは「子どもたちは見舞いに来なくていい、いつもどおりの生活をさせてほしい」、それだけでした。
彼女は毎日病院に少しだけ顔を出し、帰ってきっちり夕飯を作り、日々を送りました。
ある日看護師さんが彼女に「◯◯さんは奥さんが来ると表情が全然違いますね」と言いました。
彼は静かで、いつも静かで、本当に穏やかな人だったので、一人の時に病人としての彼がどんな表情をしているのか、家族は想像もできませんでした。
大きな治療を終えて久しぶりに帰宅した時、夕食の席で彼はぽつりと言いました。
「餃子食べると、家に帰って来た気がするなぁ」
ある朝、自宅から病院に向かう筈の日に、彼は呆気なく亡くなりました。
苦しみがない代わりに、何かを言い残す時間もありませんでした。
姑にあたる彼の母を、彼女は「おかあさん」と呼んでいました。
「おかあさん」は季節ごとに果物や孫たちが好きだった菓子を送ってきて、彼女と話すたびに同じことを言いました。
あの子はあなたと結婚できて本当に幸せだった、あなたがいてくれて良かった。
「あなたがいてくれて良かった」、それは彼女の母親が一度も言ったことのない言葉でした。
「おかあさん」はそれを言い続け、13年後に息子の居る、どこか美しいところへ行きました。
とうに成人した子どもたちも、今や中年になりました。
彼女はまだ一人で何でもできます。
彼にまた会う日まで、彼女が幸せでありますように。
彼女の子どもである私が唯一語れる、ありふれた恋物語です。
この物語はすべて実話です。
登場する人物とその発言はすべて筆者の経験と伝聞に基づきます。
真夜中
私があなたに会えるはずの時間
(私には会う権利がある、と思っています)
あなたの口癖は「早く寝ろ」「寝れば治る」だった、と眠れなくなってから思い出しています
(あなたは子供に対してでも、決して嘘をつかなかった)
たまにでいいので、会いに来てください
夢でいいから、嘘でもいいから