okiru

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9/30/2024, 11:07:25 AM

 暗い玄関の明かりをつけて、私はついに立ち尽くしてしまった。一日働いて、目はしょぼしょぼだし足は棒のようだ。今すぐ布団に埋もれたいけれど、明日も仕事だ。ちゃんとメイクを落としてお風呂に入らなくてはならない。そういえば今朝は少し寝坊して急いで出てきてしまったから、朝ごはんの食器も洗わなくては。なんだか泣きたいような気持ちで靴を脱ぐ。誰かに思いっきり甘やかされたい。でもそんなわけにもいかない。私はもう子どもではなく、立派な社会人なのだから。
 こんなに私は辛いのに、私の周りに悪人はいない。ということは、この状況の原因はきっと私にあるのだろう。そんな思考から逃げたくて、無意識にスマホを手に取る。頭の隅で、やるべきことをやれと警告している自分を無視して。
 SNSを開くと月の写真が目に写った。そういえば、今日は十五夜なのだった。気付いてしまうと見ないのもなんだかもったいなく思えて、ベランダに出る。街の灯で薄明るい夜空には、確かにオレンジ色の月が静かに光っていた。
 月には兎がいるのだったか、それとも蟹だったか。ぼんやりと月を見ていると、子どもの頃学童保育の帰り道に母親と一緒に見た月を思い出す。それから初めて友達同士で行く夏祭りに胸を高鳴らせながらふと見上げた月を。受験勉強も佳境に入った冬の塾の帰り道、独りで見上げた月を。  そうして今、月は疲れきった私をじっと見つめている。きっと明日も明後日もこんな日々が続いていく。やらなければならないことばかり山積みで、やりたいことが日に日になくなっていく、そんな日々が。
 いつの間にか、ベランダの手すりを強く握りしめていた。私、こんなふうになりたかったんじゃないのに。部屋に入りシャッと勢いよくカーテンを閉めると、つかつかと玄関に向かいもう一度靴を履く。今ならまだ一つくらいは残っているかもしれない。




 そう思って向かったのに、近所のコンビニではお団子はもう売っていなかった。売り切れてしまいました、と申し訳なさそうに店員に告げられがっくりと肩を落とす。では何か明日の朝食べるものでも買うか、と店内をとぼとぼ歩いていると、ふと少し高級な食パンが値引きされているのが目にとまった。
 卵とマヨネーズも買い込み、急ぎ足で家に戻る。フライパンに卵を一つ割落とす。大昔の家庭科の授業の記憶を引っ張り出しながら、白身が固まってきたところで水を加えて蓋をする。卵の焼ける柔らかい硫黄のような香りと暖かい湯気が鼻をくすぐる。一旦目玉焼きを取り出して、次に食パンを焼く。裏返して、先に焼けた側にマヨネーズをぬる。目玉焼きをのせて、さらに網目もようにマヨネーズをかける。熱でマヨネーズがとろりとして、パンの焼ける香ばしい香りが部屋中に広がっていく。
 塩コショウをかけて思わずかぶりつこうとして、慌ててお皿にのせてベランダに出た。月は変わらずぽっかりと浮かんでいる。そして私の手にはもう一つ、温かいパンの上にオレンジ色の月が。そっと口にいれると、パンがさくっと音を立て小麦粉の甘味が広がり、ぷりりとした白身が口の中で弾けた。マヨネーズのまろやかな酸味が鼻をすっと通っていく。こんなささやかな食事で、それでも自分は今しあわせだと認めざるを得なかった。己の単純さになんだか呆れてしまう。 
 きっと明日も明後日も、今日と同じような日々が続く。未来は漠然としていて遠すぎて、楽しいことなんて期待できない息苦しい日々。それでもそんなものに飲み込まれたくないと願うなら、抗う方法はきっと見つけられる。たとえ地上から見えなくても、月はいつも地球の周りを回っているのだ。高潔な光を放ちながら。

8/22/2024, 1:25:42 PM

お題『裏返し』

挫折

 「精一杯努力した」なんて言ったら嘘になってしまうなあ。そう思うとなんだか泣きたさが胸に溢れて天井を仰ぐ。
 同じ夢を追ってきたあの子は、自分が叶えられなかったそれを見事に叶えた。自分の努力が彼女より劣っていたのかは分からないけれど、勝ってはいなかったのだろう。
 現実から目を背けたくて、怠けてしまった時があった。他人の言葉に流されて、自分を見失ってしまった時があった。一つの意見に固着して、当初の思いを忘れてしまったときがあった。「もう無理だ」という胸の底から沸き上がる声に「まだできる」とむりやり蓋をした。
 家族の意向、同輩の目、先輩の忠告、関係者の期待、ネット掲示板の書き込み、自分の夢、そのために払った犠牲。どう選択すべきかなんていくら考えても分からなくて、ただ「後悔しないように」とうわ言のように呟いて、でもそんな道が存在しないことには気づいていた。最終的に決断できるのは自分自身だけで、その重さに押し潰されて吐きそうだった。


 逃げたかった。




























 でも、逃げなかった。






 現実逃避を繰り返しても再び戻ってきたのは自分の意思だった。辛くても、向き合うことは止めなかった。考えることは棄てなかった。結果より過程に価値があるなんて綺麗事もいいところだ。苦しみにも喪失にも意味があるなんて言葉、反吐が出る。でも私の過ごしてきた日々と私がここにいる今は私だけのもので、それ以上でもそれ以下でもない。

 自分への嫌悪は、向き合っていたものへの真剣さの裏返しだ。
 抱えきれないほどの喪失感は、育んできた憧れの大きさの裏返しだ。
 もうひっくり返ることのない現実への絶望は、信頼に足る過去の裏返しだ。
 挫折は、あなたが結果を受け止める強さを、自分の人生を自分で引き受ける強さを持っていることの裏返しだ。














 いつか笑って死ねる日がくるから、それまではどうか生き延びて。
 



 
 

8/17/2024, 7:32:13 AM

 誇らしさがくるりと一転恥辱に変わる。
 そんな経験を繰り返すうちに俺は、誇らしさを謙虚さという鎧で用心深く包み隠すようになった。
 他人の褒め言葉を額面通り、いやそれ以上に受け取りすぐに有頂天になっていた若い頃の俺はとても無防備だった。それがただ気まぐれに発されただけのものであること。単なる励ましのための定型文であること。或いはあれは正当な評価ではないというという第三者の批判。周りのやっかみや嫉妬。そんなものに気づくたびに、俺の心は冷水を浴びせられたようになり、誇らしさはたちまちしぼんだ。
 本気にしちゃ駄目だ。誇らしさだなんて、自分には似つかわしくない。次第にそう言い聞かせるようになった。だってそうすれば、後から傷つかずに済むのだから。

 「武藤くん、仕事には慣れてきたかい?」
 入社して1か月、エレベーターの中で部長と二人きりになった。
 「はい。」
 出勤してすぐ、起きてからの第一声だったので返事の声が裏返ってしまう。赤面して部長の様子を窺うと、微笑んでいた。
 「こんなに早く来るとは真面目だな。みな初めは早く来るが、続く人は少ないからね。」
 「そんなこと、ないです。今日はたまたまで。」
 とっさに否定してしまった。まずい、言葉が少し強かったかも。というか「真面目」は褒め言葉なのか微妙だ。そもそも毎日早く来ているし、俺は何で嘘なんかついたんだ…。何で気まずさで目が泳ぐ。
 「大事なことだよ」
 静かな声に、思わず部長の顔を見上げる。朝の光がガラス窓から射し込んで、彼の輪郭を柔らかく照らしていた。
 

 
 

8/14/2024, 2:47:59 AM

 健康に悪いことって、最高に楽しいのだ。塾終わりににすする刺激的な香りのカップラーメンも、布団を被って徹夜でやり込むお気に入りのゲームも。
 心の場合だってそれは同じ。貴方のインスタの何気ない投稿が私を不安の渦に突き落としても、貴方のことを何も知らないという事実が私を絶望で塗りつぶしても、この恋をやめられない。
 ねえ、本当に健康な心の持ち主なんているのかしら。無邪気に戯れる近所の小学生も、いつも快活な学校の先生も、にこにこと微笑む隣のおばあちゃんも、誰だって決して人には見せられない心を抱いているのではないかしら。胸中に渦巻く狂おしいほどの思いは、自分自身を傷つける。それはとても美しくて、私は貴方のそれを知りたいと切に願った。

8/12/2024, 1:20:58 PM

 君の奏でる音楽を、空腹を抱えた私は今か今かと待ちわびている。ごはんの炊き上がりを告げる軽やかな電子音の数フレーズ。鳴り終わると同時に勢いよく蓋を開ける。ほの甘さの中にかすかに香ばしさが混じった瑞々しい香り。シューというかすかな音がしてたちこめた湯気の中から、輝くばかりに白いお米たちが顔を覗かせる。口いっぱいにほおばって、そのもっちりとした柔らかい粒を噛み締めたい。そっと混ぜ返し、注意深くふんわりとお茶椀によそう。しゃもじ越しに伝わる確かな重み。お茶碗が徐々に熱をもつ。君の奏でる音楽は、まるで自分の仕事を厳かに誇っているみたい。

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