okiru

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 暗い玄関の明かりをつけて、私はついに立ち尽くしてしまった。一日働いて、目はしょぼしょぼだし足は棒のようだ。今すぐ布団に埋もれたいけれど、明日も仕事だ。ちゃんとメイクを落としてお風呂に入らなくてはならない。そういえば今朝は少し寝坊して急いで出てきてしまったから、朝ごはんの食器も洗わなくては。なんだか泣きたいような気持ちで靴を脱ぐ。誰かに思いっきり甘やかされたい。でもそんなわけにもいかない。私はもう子どもではなく、立派な社会人なのだから。
 こんなに私は辛いのに、私の周りに悪人はいない。ということは、この状況の原因はきっと私にあるのだろう。そんな思考から逃げたくて、無意識にスマホを手に取る。頭の隅で、やるべきことをやれと警告している自分を無視して。
 SNSを開くと月の写真が目に写った。そういえば、今日は十五夜なのだった。気付いてしまうと見ないのもなんだかもったいなく思えて、ベランダに出る。街の灯で薄明るい夜空には、確かにオレンジ色の月が静かに光っていた。
 月には兎がいるのだったか、それとも蟹だったか。ぼんやりと月を見ていると、子どもの頃学童保育の帰り道に母親と一緒に見た月を思い出す。それから初めて友達同士で行く夏祭りに胸を高鳴らせながらふと見上げた月を。受験勉強も佳境に入った冬の塾の帰り道、独りで見上げた月を。  そうして今、月は疲れきった私をじっと見つめている。きっと明日も明後日もこんな日々が続いていく。やらなければならないことばかり山積みで、やりたいことが日に日になくなっていく、そんな日々が。
 いつの間にか、ベランダの手すりを強く握りしめていた。私、こんなふうになりたかったんじゃないのに。部屋に入りシャッと勢いよくカーテンを閉めると、つかつかと玄関に向かいもう一度靴を履く。今ならまだ一つくらいは残っているかもしれない。




 そう思って向かったのに、近所のコンビニではお団子はもう売っていなかった。売り切れてしまいました、と申し訳なさそうに店員に告げられがっくりと肩を落とす。では何か明日の朝食べるものでも買うか、と店内をとぼとぼ歩いていると、ふと少し高級な食パンが値引きされているのが目にとまった。
 卵とマヨネーズも買い込み、急ぎ足で家に戻る。フライパンに卵を一つ割落とす。大昔の家庭科の授業の記憶を引っ張り出しながら、白身が固まってきたところで水を加えて蓋をする。卵の焼ける柔らかい硫黄のような香りと暖かい湯気が鼻をくすぐる。一旦目玉焼きを取り出して、次に食パンを焼く。裏返して、先に焼けた側にマヨネーズをぬる。目玉焼きをのせて、さらに網目もようにマヨネーズをかける。熱でマヨネーズがとろりとして、パンの焼ける香ばしい香りが部屋中に広がっていく。
 塩コショウをかけて思わずかぶりつこうとして、慌ててお皿にのせてベランダに出た。月は変わらずぽっかりと浮かんでいる。そして私の手にはもう一つ、温かいパンの上にオレンジ色の月が。そっと口にいれると、パンがさくっと音を立て小麦粉の甘味が広がり、ぷりりとした白身が口の中で弾けた。マヨネーズのまろやかな酸味が鼻をすっと通っていく。こんなささやかな食事で、それでも自分は今しあわせだと認めざるを得なかった。己の単純さになんだか呆れてしまう。 
 きっと明日も明後日も、今日と同じような日々が続く。未来は漠然としていて遠すぎて、楽しいことなんて期待できない息苦しい日々。それでもそんなものに飲み込まれたくないと願うなら、抗う方法はきっと見つけられる。たとえ地上から見えなくても、月はいつも地球の周りを回っているのだ。高潔な光を放ちながら。

9/30/2024, 11:07:25 AM