その人は自分にとって長いこと絶対であって、かれの言葉を信じ、かれの後ろを拝して歩くことがすべてだった。そう思うことで自分がなにか大きくつらいものから解放されて、しあわせになれるような気がしたのだった。それが間違いであったことに気づいた時にはもう遅かった。かれに恥をかかせたと思った。あるいはもっとひどかった。当たり前の事実として、かれはただの人間だったから全知全能ではあり得ず、自分のどうしようもない失敗を掬い上げて取り返しのつくようにすることはできなかったのである。
報いる術を知らぬまま、前を向いてももうそこには誰もいない。
#神様へ
電線の上にカラスが止まっていた。
濃く青い空に、黒い姿が映える。
道路にはまだ雪が残り、息を吐くと白く煙る。
天高く馬肥ゆる秋などという。
秋で相当高いのだから、冬はもっと高い。
春が近づいていても、この地方ではまだ高い。
空気は冷たく澄んでいて耳が痛くなるほどだ。
道には車もなく、静かだった。
考え事には打ってつけの静けさ。
青い空に、寒さのなかに、なにかの答えを見つけてしまいそうになる。
それが嫌で、私は首を振った。
カラスは飛び立って、遠くどこかへ。
家まではまだ遠い。
#快晴
愛するひとを想う
祈りを投げかける
船を漕いでゆく
足を踏み出す
決意をする
一人泣く
あなた
#遠くの空へ
少しずつ日が長くなって、
夕方が少し長くなって、
一緒にいられる時間が少しだけ増えて、
どこかから美味しそうな匂いがする住宅街の角で、
ふたり立ち止まって話していた。
暗くなっていくのをチラチラと気にしながら、
赤が青に変わるのを惜しんで、
お腹空いたねなんて言いながら、
どちらも別れを言い出しかねていたんだ。
#沈む夕日
「勘違いされることはあるが、邪眼というのは目が合わなければよいというものではないんだ。
メドゥーサなんかと混同されているんだろうけど、邪眼は邪眼の持ち主がじっと見つめるだけでいい。視線には力が宿っていて、見るだけで呪う。
魔女狩りの時は、この邪眼というのがけっこう曲者だった。
共同体の鼻つまみ者である子供のいない寡婦なんかが、ご近所付き合いに失敗してかっとなり、思わず罵るとするだろう。お前の家が呪われればいい、とかって。
すると、不幸が起こった時に、その女が呪ったからだということになる。
ただまあ……凝視されると、むずむずして嫌な気分になったりするだろう。目が合ったあとすぐに逸らしても、気のせいでもなぜかずっとその視線を感じている……」
先輩は言いながらコーヒーを飲み、こちらをじっと見つめる。
俺はその目を見返した。先輩は顔に対して少し目が大きくて、その一方で黒目は小さく、なんというか目力がすごい。
「だから、その視線に悪い力が込められていると考えるのは自然なことだったのかもしれない。
差別と排除の始まりは、自然で素朴な嫌悪感、それから無知だ」
こういう話をする時の先輩は、実に楽しそうに笑うけれど、実際は遠い昔に遡及してまで、ふつふつと怒りに燃えていることを俺は知っている。
視線には力がこもり、俺は居心地が悪くなる。自分が責められているような気がするのだ。その正しさに。
もしかしたら俺は、先輩に火をかけていたかもしれない。そんなふうにさえ思う。
だから俺は言う。
「現代に生まれてよかったです」
「仮にも歴史を学ぶものが、そんな単純な言葉を吐くなよ」
先輩はそう言って、呆れたように視線を緩める。
俺はいささかほっとして笑った。
#君の目を見つめると