「言の葉」
自分の中から
どんな言葉が
出てくるだろうと
わくわくしていた頃。
言葉は
こんこんと湧く
泉のように
枯れることなく
溢れ出てきた。
こころの声ではなく
世の中の声や
怖がりさんな
自分の声が
大きくなって
次第に
なにが楽しいのか
どうしたいのか
すら分からなくなった。
木枯らしが木の葉を
すべて
散り去るように
もっている言葉も
みんな散っていった。
それでも
厚い雪の下で
じっと生きている
わたしの言葉。
もうすぐ春
陽の光を浴びて
こころをあたたれば
きっとまた芽吹く
言の葉。
#木枯らし
今日は「美しい」のテーマにぴったりで、
わたしにとって特別な詩を載せることにしました。
わたしが詩を書きたいと思う
きっかけとなった詩のひとつです。
*
「世界はうつくしいと」長田弘
うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。
渓谷の石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光りはうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
きれいに老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の破片が、
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。
#美しい
この世界が
意味をもつとき
#この世界は
「どうしても」
どうして
と理由を尋ねられることほど
困るなことはない
と思うときがある
どうしても
そうしなければならない
理由があったかもしれない
どうしてか
わからないけれど
そうせずにはいられないときだってある
自分の放つ
言葉や行動に
どこまで
責任を
もたなければならないのか
今日はラーメンが食べたいとグゥとなるお腹
なんでもない日に花束を買いたくなる心
この瞬間を写真におさめたいと動く指先
あの人の元に向かってしまう足
すべてを上手に
言葉にしてしまう
必要はない
説明のつかないことの
なかに
隠されている
ほんとう
#どうして
「人生の踊り場」
いつのことだっただろう。
「人生には踊り場が必要だ」
というフレーズを目にして、ほっとした。
これまでの人生
わたしの前にはいつだって
登っていくべき階段があった。
それは、義務教育という
逃げることすら考えないような
当たり前の道であり、
高校・大学のように
上を目指すことが
自分の可能性を広げることだと思っていた
当時の安定の道だった。
わたしの登って来た階段は
ある日、とうとつに平らになった。
次に登るべき階段が
どこにも見当たらない。
登りたいけど、見えない場所に
足を踏み出す勇気はわたしには、ない。
登るべき階段ではなくて、
登りたい階段を探せばいいのだ、
と目の前の階段がなくなって
ようやく気づいた。
わたしが今、階段を登ることができないのは
人生の踊り場にいるからなんだ、
と思えば絶望はしない。
踊り場では踊っていればいい。
そのうちに次の階段が、
心から登りたいと思える階段が、
見えているかもしれないから。
わたしはまだ踊り場で夢をみてたい。
人生に絶望せずに
世界は美しいと思っていたい。
食い止めていたい。
誰のものでもない自分だけの夢。
#夢をみてたい