鏡で自分の姿を、1日にどれぐらいチェックするだろうか。
もはや、1回も見ないことすらあるだろうか。
私が鏡を見るのは、
朝のヘアセットと、夜の風呂上がりの化粧水塗りたくる時ぐらいだろう。
それ以上に見ることは、私にとっては必要以上だと感じる。
なぜか----。
鏡とは、そのまま自分自身を写してくれるものだ。
自分自身を写してくれる。
それは便利でもあるが、時に見たくもないものも写してしまうこともある。
今この世の中は、
自分の見たい情報を「選択」して見ることが可能だ。
見たくないものには蓋をすることが、ある程度はできるのだ。
ただ、鏡はどうか。
髪の毛のチェックをしているのに、
肌荒れが無性に気になってしまったことはないだろうか。
コンタクトレンズを入れたいだったのに、
髭がボーボーで醜いことに気づいたことはないだろうか。
そう、鏡は便利なもので、だが時に残酷な現実を突きつけてくる。
鏡は、現実をありのままの状態で示す。
その示された現実を、
見る「選択」をするかどうか。
見る「勇気」はあるかどうか。
鏡を見る回数は、
自分の理想と現実のギャップの多さに反比例するのかもしれない。
私に、「鏡を見たい」と思える日はくるのだろうか。
いつまでも捨てられないもの。
私はこのテーマに対して、
物理的なものと心理的なものに分けられると考える。
物理的なものは、シンプルだ。
捨てられないものは、その人にとって大事なもの。
かけがえのないもの。大事な人からもらったもの。
思い出の日に買ったもの。大事な人から譲り受けたもの。
断捨離がどうこうの話ではなく、
「捨てる捨てないの基準にそもそもないほど大事なもの」という解釈だ。
心理的なものは、少し複雑だ。
なぜなら、大事にしていたものでも、
時間が経てば「捨てるべきもの」に変わる可能性があるからだ。
それは、一種の価値観、もっというと「固定観念」や「偏見」に近いものだろう。
もちろん、捨てられない信念や信条があることは素晴らしいことだ。
しかしその信念をもつということは、自分自身の進化(アップデート)を妨げている。ともいえるわけだ。
だから私は思う。
本当に捨てられないものは、
「自分は未完成であることを自認すること」ではないだろうか。
日々自分自身をアップデートしていく。
生活の変化に対して自分自身をアジャストしていく。
固まってはいけない。
こんな世の中だからこそ、
自分自身の色を変え、
形を変え、
考え方を変えていける人こそが、
本当の意味で「強く生きる」ということなのかもしれない。
「誇れるものなどなにもない」と、感じ始めたのはいつだろうか。
私にとってそのタイミングは、新卒の就職活動まで遡る。
自己PRを考え、貴社のために、と頭を捻って自分自身の「誇れるところ」を探していた。
今になって思う。
その時に考え導き出した自分の「誇らしさ」は、正しかったのだろうか。
自分で出した答えです。と、当時はそう感じてただろうと思う。
改めて、「誇らしさ」の言葉を肌で感じてみる。
どうだろう、
いつかのワールドカップで興奮した実況者が言っていた、
「〇〇選手は、日本の誇りです!」と。
また最近では、「これが日本の誇る大谷翔平だ」と。
これを聞いて、私は感じた。
「誇らしさ」は、その人物の「能力・才能」とリンクするのではないか、と。
だから、大学3年生の当時の私にとって自己PRは、
数学よりも難問だったことは無理もない話だろう。
まだなにも成功体験をしていない、何者でもない人間だったからだ。
では、今の私はどうだろうか。
なにか、人より長けている能力や才能はあるのだろうか。
答えは、わからない。
なぜなら、「あなたはここが誇らしい」と、言ってくれる人がいるか否かが、大きく影響するからだろう。
「誇らしさ」は、自分自身で名乗るものではないのかもしれない。
誰かに言われて初めて気付くものなのかもしれない。
だから私は、
いつか誰かに、
「誇らしいね」と言われるために努力をしようと思う。