「枯葉」
たぶん、分かんねぇけど、家ってこんなのかなって思った。
いつのまにか擦り傷ができるような冷たい風も手が水玉になるような感覚も、もうない。
全身を包んでいるのは今まで味わったことがないような柔らかさとあたたかさだ。
霞んだ視界は灰色の空が広がっていてゆっくりと白いものが落ちてきている。
雪が降っているのだ。
雪が降っているのにこんなにも温かいのだ。
分かんねぇけど、世間で言われてる家ってこんなのなんかね。
寒くてもあたたかく迎えてくれるところ。
もう死ぬのに今さら知りたくなかったよ。カタギな生き方をしてたらもっと早く出会えてたんだろうか。霞んだ視界が滲む。どこか懐かしい土の匂いが途切れる。
クソッタレな人生にふさわしい最期だ。
俺の家は虫と同じ枯葉の上だったってわけか。
撃たれた右腕にまるで絆創膏のように枯葉が落ちる。
まどろむ。こんなに穏やかな眠りは初めてだ。
「今日にさよなら」
こんな天気の日は洗濯日和だとウキウキになるのはジブリの中だけだ。
洗濯機も置けない6畳一間の部屋を出てコインランドリーに足取り重く辿り着く。
洗剤を入れてピッとスイッチを押せば重い音を立てて回り出す。
ぐるぐると、ごろごろと。
たくさんの人の服を洗った洗濯機に入れると私の服が私のじゃなくなっていくみたいだ。どうせいいのだ。
もともと私のじゃないし。
シャネル、エルメス、ルイヴィトン…
古い洗濯機に安っぽい洗剤で洗われるブランドたちは何がなんだか分からない様子で回っている。
シルクの生地は光沢を失い、金属のベルトが傷つく音が聞こえる。
私にはまだ早かった。すべてが。身の丈に合わない服に身を包んで愛を知った気になって。
こんなブランドよりも私が洗われたい。清らかに綺麗になって一から全部やり直したい。
でも私に新しいスタートラインがあるのだろうか。
今日にさよならを告げたところで新しい明日が来るのだろうか。
私は汚れ切った体を脱ぐことはできないのだ。
「溢れる気持ち」
羽毛布団を切り裂いたことはあるだろうか。
私はかつて絵を描いていたときにそれを見た。
絵を描くことは私の人生だった。まだ10代だ。私の人生すべてをそれに集約するのは安直すぎると思われるかもしれない。
しかし文字通り絵を描くことは私の全てだったのだ。上手く流せない涙も昂った怒りも、言葉だけでは心の隅々まで表現できなかったことを絵なら形にできたのだ。
それを大人たちが「素晴らしい」とか「ダメだ」と点数をつけて評価するのも当時の私は受け止めてくれていると感じてさえいた。
しかしある時から私の感情に筆が追いつかなくなった。心の濃淡が絵の具の種類を上回り、筆の動きが感情の荒さや細やかさを表せなくなった。
出来上がったものは解像度の荒いコピー用紙でしかなかった。
言葉より私を分かっていたはずの絵がなくなれば私はどうやって気持ちを伝えればいいのか。
私は初めて拳でものを殴った。それでも絶望を埋めるには力が足りなくてハサミで布団を切り裂いた。
途端に視界を覆う白い世界。
決して再現できない羽根の舞。美しく冷たくどうすることもできない。
初めて私は美しいという感情で涙を流した。
「kiss」
きっとそれは愛情以外の何物でもない。
食卓に並んだ料理を見て沸き立ったのが分かった。今日はハンバーグである。
しっかりと焦げ目のつけて雪のような大根おろしをふわっと乗っけている。
レタスにトマト。彩までしっかりと計算した。
ビニール手袋を外して椅子に座り夫の顔をじっと見つめる。ほら褒めなさい。
言葉が伝わったのか普段よりもテンション高めで褒めてくれる。
この肉!焼き加減が最高!大根おろしもこんなにおろせるなんて天才!レタスもトマトも冷たい水で洗ってくれたの?すごい!あらやだ!スープまであるじゃない!
ボディビルダーの大会並みの賛辞と内なる乙女まで発動して全力で言葉をぶつけてくる。
私たち夫婦のコミュニケーションは一つしかない。
言葉のみだ。互いに潔癖症でスキンシップに深い嫌悪感があるので愛を示すには言葉しかないのだ。
すれ違いはある。けれど、私が作った料理を食べること。それは潔癖症の夫からするとキスにあたる。
きっとそれは愛情以外の何物でもない。
「勿忘草」
お見舞いの花といえばカスミソウだ。
小さくて可愛らしくて少し呼吸するだけで揺れるような花だ。
入院していた時はちょうど冬だった。その花が雪のように見えたのを覚えている。
「早く元気になってね」
優しい言葉がどこかよそよそしい。彼女の両親が離婚しても私がいじめられていた時も私と彼女は互いに互いを煽りあうほど信頼していたはずだ。
どうしてこんなに他人よりも遠い距離になってしまったのだろう。
ひさしぶりに会ったから?
自分の話をしなくなったから?
これまでどんな話をしていたっけ?
「じゃあ…」
顔を背けて病室を出ていく。
もうこのまま会わなくなるだろう。
長年の友人との最後がこんな気まずいものだなんて。
ただ彼女には私を覚えていて欲しいと思った。
距離が遠くなっても誰よりもそばにいた記憶は本物だ。
「ねえ、待って」
弱々しい声が呼び止める。
私忘れないよ。守ってあげられなくてごめんね。
カスミソウが揺れる中、忍ばせた勿忘草だけが凛としていた。