香草

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1/30/2026, 2:12:54 PM

「あなたに届けたい」

海のさざめきに乗じて歌を歌っていた。
「歌なんて何の役にも立たない」
窮屈でもどかしくて、心配するふりをして誰も私のことを考えていないこの場所から逃げ出したかったのだ。
「お前を心配してるんだよ」
小さな歌声を消して海は私を遠い街に誘う。
「現実見なさい」
いつかこの場所を出て行ってやるって海に誓って制服のスカーフを海にぶん投げた。
「どうせ成功しないよ」
スカーフはひらひらと頼りなく落ちて波の間に消えた。
「まあ無理だろうけど」
それはまるで今私の目の前を舞っている紙吹雪みたいだった。
「なんでこれまで何もしてこなかったの?」
ああ、海は海でも光の海って本当に存在したんだ。
「今さら遅いんじゃない?」
こんなにあたたかい海があったのか。
「実績つんでから出直してきな」
最前列で涙が見える。
「君才能ないよ」
私は声を張り上げた。
「やってやろうじゃないの!」

1/28/2026, 12:51:50 PM

「街へ」

空港だけでその街を判断しない方がいい。
これは長年の旅の経験から分かったことだ。
人が多くたくさんの土産屋があり、どこまでも広い空港でも街の方へ行くと思ったよりこじんまりしていたり、逆に人が少なくコンパクトな空港であっても街へ行ってみると賑やかで栄えていたりする。
空港はその街の玄関ではあるが、決して街を代表しているわけではない。
冷静に考えてみれば当然である。
飛行機を飛ばすための敷地と轟音が許されるためには街から少し離れた、言うなれば住民の意識外にあるところに建設される。
それは街から離れた辺鄙でなんにもないところだ。だから空港で街を判断するのは早計なのだ。
バスでも電車でもタクシーでもなんでもいいが、私はこの空港から街へ行く道中が好きだ。
まるで主人公が家族も故郷も、なんなら地球まるまる失ってしまった悲しいバッドエンドのSF映画に出てくるような風景から活気のある看板とネオンが見えた時の高まりは言葉では言い表せない。
その街での体験を想像して期待や希望が津波のように押し寄せる。この感覚は初めての遠足の前日の夜にも匹敵する。

1/27/2026, 1:15:43 PM

「優しさ」

優しい人だと思った。
誰にも伝えたことのない、自分ですら気付かなかった寂寥感に寄り添ってくれたから。
誰にも見られていない朝の憂鬱も夜の寂寞もどうして貴方が知っているのだろう。
ああ私はこの言葉が欲しかったんだ、と自分の隅に丸まっていた背中に手を差し伸べることができた。
だから貴方は神様だと思った。
人に寄り添って導いてくれるのは神様しかいないじゃない。
だから貴方がいないこの世は終わりだと思った。
これからどうやって生きていけばいいの。
貴方からもらった言葉を刻み込んでもいつかは摩耗して消えてしまうでしょう。
じゃあ最初から優しくしないでよ。
優しさを知ってしまったから弱くなったのよ。
強い私を返してよ。


1/26/2026, 2:47:12 PM

「ミッドナイト」

酔っ払いたちの喧騒に背を向けてそっと影に入る。
酔っ払いたちの方がまだ安全なんじゃないかと思うよな怪しい男たちと目線を合わせないように足早に通り過ぎると怪しい路地に似つかわしくないおしゃれな木のドアが見えてくる。ドアを開けるとまた違う意味で怪しくピンクでライトアップされた水槽が出迎えてくれる。
「こんばんは」
少しレトロな風貌をしたバーテンダーが優しく声をかけてくれる。
そこで私はやっとこわばった表情を緩めるのだ。
店内は人一人がやっと通れるような隙間を残してカウンターが伸びている。
少し昭和の雰囲気が漂っているのは壁の色褪せたポスターたちと少しチープな明かりのせいだろう。
以前連れてきた友人は「カラオケの背景でよく見るバー」と言っていたっけ。

店内は私一人だけのようだ。この贅沢な空間を独り占めできるなんて今日はついてる。まあ今日もあと1時間で終わるけれど。
バーテンダーは何も言わずにカクテルを振っている。
私が頼むのはいつも決まって同じだからだ。
「どうぞ」
透明な流水紋が入ったコースターにそっと柔らかなオレンジ色のカクテルが置かれた。
チープなライトが琥珀色を通して美しく光を散らしている。爽やかな柑橘系の香りが鼻をくすぐって思わず笑みがこぼれてしまった。
「今日は何かいいことがあったんですか?」
バーテンダーが穏やかな口調で尋ねた。
笑顔の理由があまりにも小さいのでわざわざ伝えるのも恥ずかしい。私は誤魔化すようにふふふと笑みを重ねた。まるで秘密をはぐらかす魔性の女のようになってしまった。
けれどこんな真夜中くらいはいいだろう。
日中は冴えない会社員でもカクテルの前なら魔性の女になれるのだ。

1/25/2026, 11:04:02 AM

「安心と不安」

基本的に不安を抱えながら生きている。
賞味期限切れてるけどこの納豆まだいけるかな?とか
1ヶ月掃除してないけどまだ大丈夫かな?とか
バイト辞めちゃったけどこれからどう生きていこうとか
まあこれは怠惰で考えなしで行動する自分に対して必然と出てくる不安だが、無意識の不安もある。
漠然とした不安だ。
何に対してでも、何が原因というわけでもないのに焦燥感まで感じるような不安だ。
まるでオールも舵もない簡素なボートに乗せられ、無理やり海に押し出されてしまったかのような不安がいつも心の底に溜まっている。
大切な人がそばにいても、温かい布団に包まれて眠っていても、それは霧のように腹の底を漂う。
そして時折意地悪く囁くのだ。
「その安心はいつまで続くのだろうね」
きっとこの世に生まれて死ぬまで、この霧が晴れることはないのだろう。
じゃあこの不安は命そのものってことなのかもしれない。

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