「おーい。おーいって。そこの君だよーこの私を無駄にしてる君!」
「………あ、俺?」
下校中の電車の中、俺の真正面に立っている女が話しかけてきた。
「そーだよ!君いま何してるの?ゲーム?ってかそれクソゲーじゃん。テスト近いのにそんなのしてていいわけ?」
「いやなんで知ってんの。ゲームはともかく学校事情はわかるわけねえじゃん」
「そりゃあ、私どこにでもいるし」
非常識にもつり革にぶら下がるその女は、意味深な言葉を吐き捨てた。
「時間っていうのは、一瞬一瞬の積み重ねでできている。人間は愚かだよね。あとになってからあの時の一瞬に、これをしておけばって後悔する。いつもそこにある一瞬を蔑ろにしたのは自分なのに。私はいつでもどこでもいるっていうのにさ」
「……さっきからなんなのお前。一瞬を自分みたいに言って」
「自分だよ。私の名前は刹那。この世のどこにでもいるけれど、誰もが私をいないように扱う。そんな、悲しい存在」
女は寂しげに笑うと、電車の発車と共に姿を消した。
自分も他人も、とにかく生きる意味を探し続ける。誰かが探せと言ったわけでも、探さなければならない理由が明確にあるわけでもないのに、人は自分に、そして他人に、生きる意味を問う。
つまり人間という難しい生き物は、生きる意味を探し続けなければ生きていけないのだ。
自分に自信が持てなくなるし、誰だって自分に代わりがいれば自己肯定なんてものは赤子でも跨ぐことのできる高さになるだろう。実際、生きる意味を見つけられず焦燥に駆られ、ただそれだけで「ああ私はダメなやつなんだ」と己を卑下することが多々ある。
しかし私は、最近思うのだ。それはなんてもったいないことなのだろう、と。生きる意味というのは、見つけるのに制限時間なんてものはない。若いうちに見つけようが、中年に見つけようが、年老いてから見つけようが関係ない。見つからなくても同じことだ。誰かがしたことは、きっと他の誰かが知っている。人が生きた証は必ず残る。それこそが生きる意味。先人たちが生きて、後世に知恵を伝えてくれたように、私たちは生きることで、その意味を紡ぐ。
生きる=生きる意味。
生きる意味を見つけたければ、生きればいい。必ずその先に、あなたの生きた意味が永遠に存在している。
中学を卒業する時、過去の自分が書いた作文を読んだ。卒業する私への、過去の私が書いた手紙のようなものだ。
中学校生活には未練がある。あれをやりたかった、これができるようになりたかった。思い出の中には、そんの、もうかなえららない願望ばかりが詰まっている。
それでも私は、音楽にだけは未練を残していない。中学校三年間、ピアノの発表会には出続けたし、受験シーズンになってみんなが辞めて行く中、私はピアノを弾き続けた。部活は吹奏楽に入って、頼れる先輩や仲間、そして後輩となかなか良いところまで行くこともできた。
そのことも踏まえ、手紙にはこう書かれていた。
音楽だけは続けて。
これからもずっと、私は未練ばかりを残すのだろう。それでも私は、これからもずっと、音楽を続けて行く。
私はスマホの設定で、日が沈むと同時に画面が少し暗くなるようにしている。始めた理由は特にない。
それから1年経つが、これがまた面白かった。春は日没が徐々に遅くなり、夏は最も長く日が出ているのがわかる。秋は日没が徐々に早くなり、冬には夏より何時間も早く沈んでいる。それを感じるたびに、時の流れを実感する。
一度日が沈んでから、外を見に行った。西側の空は、日が沈んでいるにもかかわらず、明るかった。太陽はあの広大な空の色を、一瞬で変える。その存在は太古の昔より崇められてきた、神そのものなのかもしれない。
君の目を見ると、いつも頭を撫でたくなる。
私に甘えているようなその瞳は、私の母性をくすぐる。
君の声を聞くと、いつも心が癒される。
私に愛を伝えてくれているようなその声は、私の心を浄化する。
君の姿を見ると、私の愛は強くなる。
良いように使われても、私は幸せを感じる。
そんな君は、「ニャー」と鳴いて、今日も私を癒してくれる。