もしこの世に存在する人間が私一人なら。現実にそんなことが起こってしまったならば、私は孤独に埋もれて死んでしまうだろう。話し相手がいない、愛せる人がいない、助けてもらえない。そんな、一人ぼっちの世界。
しかし、もしそんな世界にあなたが迷い込んできたなら。そうなったならば、私は少し、生きる希望を見出すことができるだろう。あなたが話し相手になる、あなたを愛すことができる、あなたと助け合える。そんな、二人ぼっちの世界。
だから二人は「ぼっち」ではない。二人いれば、一人よりは寂しくない。
あなたは私の生きる希望。あの子は誰かの生きる希望。人間はそんな関係を築き合い、今の世界を成り立たせている。
夢が醒める前に、夢の中でしかできないことをしよう。
例えば、空を飛ぶこと。大きな翼を背に、何度も夢見た大空の滑空を実現させる。
例えば、超能力を使うこと。誰も真似できない唯一無二の存在になって、みんなに尊敬される。
例えば、過去や未来に行くこと。過去の失敗を訂正したり、未来での自分を見たり、そこから学んだり。
だけど、それは全部、現実ではできない。空は飛べないし、超能力は使えないし、時間を行き来することもできない。そんな夢のない世界に生きている私たちでも、夢の中だけは特別な存在でありたいと願う。
しかし、夢の中だけでは、と言うのは間違いだ。どんな世界で生きようと、どんなふうに生きようと、私たちはそれぞれが、唯一無二で特別な存在。
君と出会ったのは高一の春、入学式だった。君の席は僕の一つ前。出席番号が近かったのを覚えている。
君が後ろを向いて僕にプリントを渡してくれたとき、すぐにわかった。僕は君に恋をした。胸の高鳴りが治らなかった。君の笑顔が眩しくて、僕は全然、君と目を合わせられなかった。
君と出会ったのは高一の春、入学式だった。君の席は私の一つ後ろ。出席番号が近かったのを覚えている。
君にプリントを渡すために私が後ろを向くと、君はいつも目を泳がせていた。初めは嫌われてるのかなって思ったけれど、それから一年間過ごして、君はとても優しい人なんだってわかった。その時から、私は君を見るたび胸が高鳴る。
そして今、君は隣に立っている。真っ白な衣を見に纏い、少し緊張した面持ちで。
胸の高鳴りが激しくなっている。
耐え抜いてやる。
どんな罵声にも、どんな不条理にでも。
耐え抜いてみせる。
そう決意して、私は上京し仕事に就いた。それからはや半年、すでにその決意は砕け散る寸前だ。
毎日上司から些細なことで怒られる。自分のミスを押し付けられることもあるし、正直、不条理の度を越しているようにも思える。
就活を始めた頃は、まだ楽しかったな。あの頃は、社会が理不尽だらけとはいえここまでとは思いもしなかった。だから一丁前に耐え抜くなんて言ったけど、結局のところできるはずがない。
理不尽には耐えられない。今までの人たちが耐えたとしても、私たちが耐える必要はないのではないか。苦しくて、辛くて、泣き出しそうになるまで私たちを追い詰める理不尽。それは本当に、守るべき社会の姿なのかと、考えさせられる今日この頃。
「あーあ…まただぁ」
俺の双子の兄貴は、毎日雑巾を片手に放課後の教室に訪れる。そこには誰もいない。兄貴はただ自分の机まで行き、あらかじめ濡らしていた雑巾で机を擦る。
「お前も見てるだけなら手伝ってくれよ。アイツら最近油性ペンで書くんだ。消しにくいったらない」
教室の隅にかけてあった雑巾を一枚手に取り、兄貴が濡らした部分を軽く擦る。そこにあるのは、数々の罵詈雑言。馬鹿とか、ブスとか、キモいとか、死ねとか。親ナシ、とか。それはそれは御丁寧に書かれている。
全然消えない。いつものことだが、今日は余計に腹立たしい。
「何でやられっぱなしなんだよ。少しはやり返せ」
「それじゃ同レベルだろ?そんなことするより、なんてことない顔して過ごしてる方が、あっちにとっても不愉快なはずだぜ」
「……」
兄貴の、こういう考え方が嫌いだ。我慢したって、受けるダメージは兄貴の方が大きい。アイツらのクソみたいな火に油を注ぐかもしれない。そうなれば、兄貴はもっと酷い目に遭う。
「お前は賢く生きろよー。俺は手遅れだけど、お前はちゃんと周りの人間を選ぶのが上手いから」
そんなことを言っているうちに消えていく、雑巾の下の醜い言葉たち。その速さに、兄貴はこんな意味のわからない行動にまで慣れてしまっているのだと、たまらなく不快な気持ちを覚える。
「…なぁ、俺、兄貴が泣いてるとこ見たことねえんだけど」
「いやいや、結構泣いてるぞ。前アルバム見た時もあったろ、俺の泣いてる写真」
「ふざけんな、それ俺だからな。はぐらかすんじゃねえ」
はは、と乾いた笑い声が響く。その目は笑っていない。
「少しくらい、泣けよ」
「…泣かないよ。父さんと母さんが死んで、じいちゃんやばあちゃんに引き取ってもらえたけど、二人とも体が悪い。俺の下にはお前も含めて三人いる。俺は一番上の兄貴なんだ。ただでさえ不安な生活の中で、その俺が涙なんか見せられない」
最後の仕上げと言わんばかりに、兄貴はサッと机を吹き上げた。
「よし、これでOKだ。帰ろ「ふざけんなよ」…何がだよ」
「ふざけた見解なんだよ、一丁前に一人だけ大人みたいなツラしてんじゃねえ。俺はお前の弟だけど、双子だ。同い年だ。自分一人で抱え込むのも大概にしろドアホ」
「おいおい…そこまで言われたら兄ちゃん泣くぞ?」
「泣けよ」
俺は兄貴の手から雑巾を奪い取り、自分のものも一緒に主犯格の机に投げつけた。
「兄貴が泣いてる間、俺は泣かないでいてやる。アイツらに何か言われたら、俺が言い返してやる。お前の苦労も悲しみも、俺と分ければいい。それが双子だろ」
兄貴は投げつけられた雑巾を見つめた。その目からは徐々に、少しずつ、一滴一滴、涙が溢れる。
「やっと泣いた。兄貴のチャーミングポイントの涙袋も、これで少しは萎みそうだな」
「涙袋に涙なんか溜まってない…」
「知ってるわ」
涙を流しながら笑う兄貴の声は、さっきより潤っていた。