楽しい時間は一瞬のよう。
苦しい時間は一生のよう。
美しい時間は永遠のよう。
時間なんてみんな平等で同じはずなのに、
自分の望みとは反対に流れていくみたいだった。
止まってほしいと願った夜は短く
早く終わってほしいと願った夜は長かった。
お前なんかにコントールされてたまるか、と嘲笑う意地悪な概念。
でも、過ぎてしまった思い出たちは、美しく永遠のように輝いている。
どんな時間も、どんな私も、全て過去になってしまえば、美しく永遠にしてくれる?
意地悪なんて言ってごめんね。今日も仲良くしてね。
いつまでかわからない私の時間を、地球や宇宙から見たらたった数秒の私の時間を、いつか永遠にしてね。
まず始めに、
私は何度も死にたいと思いながら、未遂に終わり、死ねないがために今を生きているような人間である。
なので、生きていることに理由や意味など特に無いし、死を自ら選ぶことは悪などではないという考えが前提にあるなか、今回のお題と向き合っている。
そんな私が行き着いた生きる意味。
それは、誰かを愛するためだと思うのだ。
ここでいう愛は、必ずしも恋愛的なことではなく
誰かを、何かを、愛おしく思うことや可愛らしく思うこと、を指している。
丁寧な接客の店員さん、元気な声で挨拶をしてくれた子どもたち、そんなどこの誰かもわからない誰かを
愛おしく可愛らしく思うたびに、ほんの少しだけいい日になる。
ほんの少しだけ気持ちが前を向く気がするのだ。
理想論なら、架空だろうとなんだろうと、
いくらでも言えるので、恥を忍んで言わせてほしい。
きっと、私も誰かに、愛おしさや可愛らしさを与えているのだと思っている。
人間同士は近づきすぎると、良くない感情を抱くことも多い。と同様に、
離れていればこそ、一部分だけを見ることができ、可愛らしく思うことも多いと考える。
だからこそ、赤の他人を愛おしく思い、
赤の他人に愛おしく思われているのだろう。
相手にも伝わっていないし自分にも伝わってこないが
きっとそうだと信じている。
そうやって、自分も含め、人間は支え合っているのだという
馬鹿だとも思える理想論を今回は生きる意味としてみようと思う。
どんな人間にも善と悪が存在している。
人間は人間をカテゴライズすることが好きなのか、
「あの人は〇〇な人だ。」や「私は〇〇な性格だ。」など認識することも多い。
しかし、人間は多面的である。
温かいところもあれば、冷たいところもある。
明るいところもあれば、暗いところもある。
人間誰しもが、このように真逆の性質を抱えているものだと私は考える。
人間の与える印象や性格などは
ある部分を、他人の前で、上手に見せることができるかどうかの違いなのである。
"いいひと"といわれる人にも悪の部分があり
"わるいひと"といわれる人にも善の部分がある。
そんな多面的な人間だからこそ
自分の意志で、どんな人間にもなれるはずである。
まずは、自分で自分にレッテルを貼るのをやめることだ。
戻りたいのか。
止まってほしいのか。
いっそのこと
ふっ、と消えたくなったりもして。
未来におびえて
未来がくるのを少し遠ざける。
時間は誰にも触れない。
結局、願いは届かなくて
泣いた先の朝空があまりに綺麗で残酷で
思わず笑ってしまうんだ。
叶いもしないのに、願うことをやめれなくて。
ある程度の倫理に則ったルールなら。
親、先生、校則。
私は、守ってさえいれば、従ってさえいれば、
いい子でいられたし楽に生きられた。
もちろん自由は無いし、楽しみや喜びも特に無かった。
でも大きく苦しむことも無かった。
それに比べて、社会は自由だ。
自分で選べるし自分で決めることができる。
しかし、自由を手に入れた分、責任が伴う。
上手くいかないことも多くある。
この選択が誤りだったらどうしよう、と不安で押し潰されそうになることも多い。
子どもの頃は、親や先生、校則、そんなルールが
私を縛ると同時に私を守っていたのだろうか。
楽しくは無かったが楽だったあの頃にふと戻りたくなる。
親や先生、学校、そんなルールがなくなった今では
まるで "俺がルールである" かのごとく
「もっとこうあるべき。」「もっとこういう人間になれ。」
と私を縛る存在が出てきたりもする。
しかし本来、私のルールは私にあり私が決めることである。
私の人生に責任をとれるのは私だけなのだから。
誰かに従い、失敗したとして誰も責任をとらない。
故に、私のルールは私が決めるべきなんだ。
こんな私は
正しいだろうか。正しくないだろうか。
いつか私の人生も誰かにジャッジされるのだろうか。