夜が明けた。極夜の季節が過ぎたのだ。久々の夜明けに、人々は皆、家の外へ出て、あたたかな太陽の恵みを浴びた。閉じこもりがちだったあの人も、めったに笑わないあの人も、陽の光を浴びて皆笑っている。
極夜の季節が終わり、これからこの国には光の季節が来る。雪が溶け、緑が芽吹き、花が咲く。そんな、希望に満ちた季節が。
人々は新たな始まりの光を浴びて、希望に胸を高鳴らせた。
私は所謂幽霊というやつで、たぶん分類的には地縛霊で、とある交差点の角で、そこに縫いつけられたように微動だにせず、道路の方を見つめている。
私は何故自分がそうなったのか分からない。記憶がないのだ。自分がどこの誰でいつ何でこの世を去って幽霊になったのか、まったく思い出せない。どうしてここを離れられないのかも、まったく分からなかった。ただボーッと、道路を走る車を、横断歩道を渡る人々を、見ていた。
そんな中、ふとした瞬間に、何かが引っかかって頭がハッキリする時がある。それは近所の黒猫が道路を渡るときだったり、小学生が元気に登校していく姿だったり。それらを見ると、何故だか安堵したような気持ちになる。何か私の死因と関係しているのかもしれない。分からないけれど、そんな日常の欠片たちが、生きていた私にとって大事だったのだろう。そんな気がした。
いつも通りボーッと道路を見ていたとき。私が立っている場所の道路を挟んだ向こう側に、1人の中学生くらいの少女が現れた。いつもは誰か1人を注視したりなんかしないのに、その子には目が引き寄せられた。
少女は、道路に向かって手を合わせて、何かぶつぶつと言っている。遠いから聞こえないはずのそれが、私の耳にはよく届いた。
「お姉さん、あの日、助けてくれてありがとうございました。私もあの黒猫も、元気にしています。怖くてなかなかお礼に来れなくてごめんなさい。本当にありがとうございました。どうか天国で安らかでありますように」
その言葉を聞いて、私の頭の中を景色がフラッシュバックする。
道路に飛び出した黒猫、それを追って飛び出した小学生くらいの女の子、黒猫を捕まえたはいいけど、そこに車が突っ込んできて、私は咄嗟にその1人と1匹を突き飛ばして、そのまま車に……。
猫や小学生の元気な姿に安堵するような気持ちになっていたのは、きっとこの少女のことを覚えていたからだ。この子たちの無事を知らぬまま死んだ私は、それが心配でしょうがなくて、ここに残っていたんだ。
あれからどのくらい経ったのか、少女は成長している。あの猫と一緒に、元気でいるのだという。それがすごく嬉しくて「ああ、よかった」と私は呟いた。
そして、私の意識は、穏やかな気持ちを最期に、その場所から消えたのだった。
「どんなに離れていても、ずっと心は一緒だよ」
そんなふうに言って、この田舎から都会へ旅立っていったあなた。
はじめはたくさんしていた電話もメッセージも徐々に減っていった。正月には帰ると言っていたのに、ついに帰ってこなかった。
ずっと一緒だったはずの2人は、気づいたら終わっていた。
今や海外とだって簡単に繋がれる時代なのに、心の繋がりを保つのは、難しいことなのかもしれない。
少なくとも、私たち2人には無理だったようだ。
SNSを見ていると、遠く引っ越した幼馴染の、恋人と撮った写真がアップされていた。幼馴染の幸せを喜ぶ気持ちよりも、羨ましい気持ち、妬ましい気持ちが膨らむ。
どんなに離れていても繋がり続けてきた大切な幼馴染なのに。離れそうになる自分の心が嫌だ。こういうヤツだから、あの人も私のところへ帰ってきてくれなかったのかな、なんて、ネガティブな思考が過る。
そんな思考に待ったをかけて、写真の中の幼馴染の笑顔を見つめた。
幸せそうだ。良いことだ。そう自分に言い聞かせて、何かを繋ぎ止めるように、ハートのボタンをポチりと押した。
大学が休みの日。昼食後。リビングのテーブルには私とおばあちゃん。そのすぐ近くのカウンター越しのキッチンにはお母さんがいて、3人で何となく雑談をしていた時のこと。
「ひまりちゃん、先週のお休みはどうだったかい?すごく楽しみにしてたみたいだったけど」
おばあちゃんが私に話を振ってくれた。
「すっごく楽しかったよ!4人でカラオケ行ったんだけど、好きな人も来ててさー、いつもより10倍楽しかった!」
「そうかいそうかい。それはよかったねえ」
おばあちゃんがニコニコ顔で相槌を打ってくれる。
「おばあちゃんの若い頃も好きな人とカラオケ行ったりした?」
私が訊くと、おばあちゃんは一瞬考えて、すぐにパッと顔を輝かせて語りだした。
「カラオケと言えばね。おばあちゃんが若い頃に『こっちに恋』と『愛にきて』って曲が流行っててねえ。カラオケで男の人が『こっちに恋』を歌って、女の人が『愛にきて』を返したら、2人は恋人同士になるってのが定番だったのよ〜」
うふふ、と笑うおばあちゃんの顔はツヤツヤして楽しそう。
「えー!なにそれ!めっちゃいいね!」
「ひまりちゃん達にはそういう曲ないのかい?」
「うーん、好きな人に向かって歌う曲とか、好きな人が歌ってくれたら嬉しい曲とかはあるけど、その曲自体が告白とお返事の代わりになるような曲はないかも?」
「そうなんだねえ。実はうちのおじいさんも若い頃私に『こっちに恋』を歌ってくれてね。私はその瞬間までそんなつもりなかったんだけど、キュンとしてねえ。思わず『愛にきて』を返してお付き合いしだしたのよ〜」
「え、マジ!?おじいちゃん勇者じゃん!すごいじゃん。うわー!うわー!!」
おじいちゃんとおばあちゃんの馴れ初めを聞いて、ついつい興奮してしまう。大学で友達と恋バナしてる時と完全に同じテンション。
「幸子さんのご両親は私らより10若いから、あの曲の世代ではないかねえ?」
台所で作業をしていたお母さんへ、おばあちゃんが話を振る。お母さんは少し考えてから、少し恥ずかしげに口を開いた。
「うちの両親はギリギリ世代だったみたいで。家族でカラオケに行くと父が『こっちに恋』を歌って母が『愛にきて』を歌うのが定番でしたね……。小さい頃は意味がわからなかったから良かったんだけど、中学生くらいになったら流石に意味がわかるようになって、すごく恥ずかしくなって。『もう私の前で歌わないで!』って必死に止めたのを覚えてますよ」
これも初耳エピソードだった。私は意外でビックリした。
「え、じいじとばあば、昔はそんなにアツアツだったの!?今じゃ喧嘩ばっかりしてるのに!」
「喧嘩ばっかりなのは昔からよ。ただ、あの2人のは、“喧嘩するほど仲が良い”と言うか、最近で言う“ツンデレ”みたいなもんだから。ほんとはお互いそんなに嫌ってないのよ」
お母さんが呆れ半分で語る。
「あらあら、そうなのね」
「じいじとばあば、ツンデレだったんだ。なんか意外だなあ」
おばあちゃんと私は、親族の意外な一面に驚きつつ、なんだか微笑ましい気持ちになって、顔を見合わせてニコニコしあった。
「ねえねえ、お父さんとお母さんはそういうことあったの?」
「え、それは……」
私が前のめりで訊くと、お母さんはおばあちゃんの顔を見て少し言い淀む。
「昔のあの子が幸子さんにどんなだったのか、私も気になるわあ」
おばあちゃんがツヤツヤの笑顔で言うと、お母さんは「お義母さんまで……」とたじたじになり、観念して口を開いた。
「お父さんは、歌って、っていうのはなかったんだけど。もっとある意味直接的と言うか。お手紙をくれたのよ」
「わ、それってラブレターってやつ!?」
「そうそう。いろいろ書いてあってね、最後に『好きです。結婚を前提に付き合ってください。』って書いてあったの。普段物静かな人だから、こんな熱烈なお手紙をくれるなんて……ってビックリしたものよ」
「あらあら、あの子がねえ」と、おばあちゃんはニコニコ(ニヤニヤ?)してる。
「お父さん、情熱的だったんだ。すごいな。てかなんか私恥ずかしくなってきちゃった!」
私はと言うと、ノリノリで訊いたのに、なんだか恥ずかしくなってきて、熱くなった顔を手で扇いでいた。
そんな感じに女三世代で盛り上がっていると、玄関が開く音がして、散歩に出かけていたおじいちゃんが帰ってきた。
リビングのドアを開けたおじいちゃんは、ツヤツヤと頬を紅潮させて話す私達を見て、怪訝な顔をする。
「なんだ、何盛り上がっとるんだ?」
「うふふ、女の秘密です。ね、幸子さん、ひまりちゃん?」
おばあちゃんが悪戯っぽく笑う。私もお母さんもそれに乗っかって頷いてみせる。
おじいちゃんだけがひとり、「女の秘密ねえ?」と首を捻っていた。
人が一番最初に巡り逢う人は、母親だと思う。
母のおなかに生まれた私って生命が、この世に生まれ出て、そこから無限の巡り逢いが始まったんだ。
手を繋いで歩いた遊歩道の光景が、甘えて抱きついた私を優しく受け止めてくれたぬくもりが、今も私の心の底で私を支えている。だから、いろいろな巡り逢いがあって、嬉しいときや楽しいときだけじゃなくて、つらいときや悲しいときも、私は私でいられているんだと思う。
『ありがとう』
照れくさくて普段は口にはできないけれど、この巡り逢いにずっと感謝しているよ。